ワイン煮込みハンバーグ
ブランゲル侯爵との談笑の余韻が残る中、リズが静かに一歩進み出た。
「侯爵様、納期はいつまでにご希望でしょうか?」
ブランゲルは腕を組みながらわずかに視線を落とし、
「なるべく早くに……お願いできるか」と、どこか含みのある口調で言いかけたその時――
「やあ! ロイド、シャイン傭兵団のみんな!」
朗らかな声が扉の向こうから響いた。
入ってきたのは、長身で整った容姿の青年――ブランゲル・ジェイソンと、少し険のある鋭い目、偉丈夫の体格を持つエリクソンだった。
「…ジトーと言い、ザックと言い…トーマス、お前らでかすぎ」
やれやれといった調子で肩をすくめるエリクソンに、場が和む。
「ジェイソン様、エリクソン様、ご無沙汰しております」とロイドが礼を取る。
「お前も背が伸びたんじゃねえか?」と冗談めかして言うエリクソン。
ロイドは苦笑しながら答える。
「どうなんでしょうね? 自分ではわかりませんけど」
「父上、どこまで話は進んでいるんでしょうか?」と問うエリクソンに、ブランゲルはうなずいた。
「仕立ててもらえることは了承済みだ。いま納期について話していたところだ」
ジェイソンがブランゲルの正面に進み出て、真剣な表情で問いかけた。
「では、父上。ここからの話は私に引き継がせていただいても?」
「お前に任す」と短く返すブランゲル。
ジェイソンが姿勢を正して言った。
「――第二王子派を切り崩し、中立派を取り込み、第一王子派の結束をさらに強固にする。そのために、スーツやドレスを“装い”として使わせてもらいます」
リズの目を見て、静かに言葉を続けた。
「リズ嬢…不本意であろうことは承知しているが……」
しかし、リズは一切の迷いを見せずに首を振った。
「いいえ。少しでもお役に立てるのであれば、私の仕立てた服を存分にお使いください」
その真摯な言葉に、ブランゲル一家の表情が緩んだ。
「ごめんね、リズ……あなたが精魂込めて仕立てた服を、権力闘争に使うことになってしまって」
エリジェが肩を落としながらも真摯に謝る。
リズはそっとエリジェの手を取る。
「奥方……いえ、エリジェ様。お気になさらないでください。侯爵様方の覚悟があってこその平和だと信じています」
ロイドがそっと続ける。
「少しでも流れる血を減らすためですね」
ブランゲルがゆっくりと深く頷いた。
「そうだ……慎重に、時には大胆に。暴発させず、刺激せず……」
その目は遠く何かを見据える。
「内戦だけは、どうしても避けねばならんのだ……」
広間の空気は、ふと張り詰めたものに変わった。
だがそれは恐れではなく、覚悟の空気だった。
大広間の奥、ふわりと心地よい香りが漂ったのは、エリジェ侯爵夫人が身をよじらせるようにして言葉を続けたときだった。
「それとね……香りのいい石鹸と“リンス”も使わせてもらうわ。」
「あなたたち、こんなに素晴らしいものを使用してたなんてずるいわ!」
小さく拳を握りしめ、ぷくっと頬を膨らませる様子は、まるで年若い娘のよう。
フレッドが目をぱちくりとさせて思い出したように言う。
「……あれ? そういやエリカの姿が見えねえな?」
すると、エリクソンがあっさりと答えた。
「ジトーたちと一緒にお前らの村……チョウコ村? に行ったぞ」
「おいおい、いいのかよ……大貴族の娘がそんな自由に」とトーマスがぼやく。
「ほんとにねぇ……自由奔放に……誰に似たのかしら?」
呟いたエリジェ。
「母上ですね」と間髪入れず返すジェイソン。
「酷いわジェイソンったら!」
エリジェがまるで少女のように肩を怒らせ、「あなたからも何か言ってください!」と夫へ視線を向ける。
ブランゲル侯爵は一瞬言葉に詰まりながらも、咳払いして言った。
「う、うむ……エリジェは……よくやってくれている」
「ほら見なさい!」
エリジェは得意気に胸を張り
「石鹸やリンスを使って、奥方連中を取り込んであげるわ!」と張り切って宣言する。
ノエルが微笑みながら口を添える。
「家庭内では、女性の方が立場が強い場合が大抵ですからね」
「そうよ、母は強し!ってことよ!」
エリジェは楽しげに笑い、女たちの共感を集める。
「く、くれぐれも慎重にな……?」
ブランゲルがやや怯えたように口にすると、
「わかってるわ、ちゃんと相談するわよ」
笑顔で返すエリジェの声が、柔らかくも決然と響いた。
侯爵夫妻のやり取りに、シャイン傭兵団の面々も思わず微笑みを交わし
その場の空気は和やかで、どこか家族団らんのようなぬくもりに包まれていた。
ジェイソンがゆったりと腰掛け、グラスを手にしながら静かに語り始めた。
「君たちもあとから知るだろうが、私の方からも伝えておこう。」
その声音は穏やかだが、確かな熱と誇りが込められている。
「香りのいい石鹸と“リンス”――これらについては、シャイン商会と我がブランゲル侯爵家との間で、2年間の独占契約を結んだ。すでに城塞都市カシウム内でも、ほんの少量だが取り扱いが始まり、女性層の反応は上々だ。」
エリジェが満足げに頷きながら、グラスを傾ける。
「さらに、“富くじ”の導入も始めている。これは人の流れを制御し、民衆の活気を生み、徴税にも貢献する。すでに初回の抽選は大盛況だったよ。」
そこまで言って、ジェイソンは少しだけ視線を外し
「契約に関しては多岐に渡っている。なにせ、ホルダー男爵家も関わっていることもあってね。詳細を語るには、この場では少々、時間がない。あくまで“報告”だと思ってくれ。」
リズとノエルがそっと目を見交わし、控えめに頷いた。
「濡れない・浸み込まない布地で作られたテント、マント、ブーツ、背負い袋――それらも我が家で大量に購入した。寒冷地に強く、軽くて丈夫だ。軍備として極めて優秀でね。」
「へえ…」とワーレンが思わず感嘆の声を漏らし、リズは誇らしげに微笑む。
するとジェイソンが、ふと笑いながら付け加えた。
「余談だが――今回の交渉相手、“ミーナ嬢”……実に手強かった。一歩も引かない交渉態度でね。下手をすればこちらが譲歩させられるところだった。」
「へえ、ミーナもやるもんだな!ま、俺ほどじゃねえだろうけどな!」
と、胸を張るフレッド。
それを聞いたエリクソンが目を丸くし
「フレッド、お前、交渉なんかできたのか?!」
「まあな!」と鼻高々な様子に、場の空気が和む。
「人は見かけによらないもんだね」
ジェイソンも笑い、グラスを傾けた。
ブランゲル侯爵が腕を組みながらうなるように言う。
「……しかし、よくもまあ次から次へといろんなものが出てくるな……お前たちというか……シマか……?」
「リバーシ、薬、それといくつかの料理のレシピも、ジトーたちから頂いたよ」とジェイソンが続けた。
するとすかさずエリクソンが身を乗り出して言う。
「ハンバーガー、ホットドッグ――アレはいいな!手軽に食べられて!」
「特に野外や戦地での配給にも向いていますね」とノエルが添えると、「子どもたちにも好評ですね」とリズが微笑む。
ブランゲル侯爵が朗らかな笑みを浮かべて言った。
「ハンバーグと言えばな……」
彼の太く落ち着いた声が広間に響く。
「エリジェが“貴族向けの料理”を考えてくれてな。これが、なかなかに素晴らしい出来でな!」
「まあ!あなたったら」
すぐさまエリジェが頬を染めながら軽く首を振る。
「大したことじゃないのよ。思いついたのは私だけど…。完成できたのはミテランたち厨房の皆さんのおかげなのよ。」
その横でジェイソンが微笑みながら首を横に振る。
「いえ、母上。あの発想は――普通の人にはそうそう思いつきませんよ。」
その口調はどこか誇らしげで、親子の絆が垣間見える。
「だよなぁ」
頷いたのはエリクソン。
「味も抜群に美味いし、何より見た目が華やか!まさに“貴族向け”ってやつだ。」
そして目を輝かせながら、「そうだ!お前ら、今日の夕食、食っていくだろう?」と、満面の笑みを向ける。
「めっちゃ気になるじゃねえか!」とフレッドが思わず身を乗り出し
「ただな、知ってるとは思うが――俺たち大飯食らいだぞ?」とトーマスが続ける。
それを聞いたブランゲルは笑いながら
「いいだろう。ミテランたちも作り甲斐があるというものよ!」と豪快に応じる。
すると、控えていた執事たちが静かに動き出す。
無駄のない所作で、準備を進めていく。
「それにな……」
ブランゲルはふと懐かしむように口を開く。
「今では、ミルクプリンも食べるようになってな。」
「もう!あなたったら……!」
エリジェが照れたように肩をすくめながら笑う。
「豆乳プリンとはまた違う滑らかさと風味……ミルクの美味しさに、ようやく気づいたの。」
「あれほど毛嫌いしていたミルクだったはずなんだけどなあ」
ジェイソンがからかうように言う。
「ジェイソン……」
すかさずエリジェが鋭く睨みつける。
「あなたをそんな意地悪な子に育てた覚えはありませんよ?」
「……降参、降参」
ジェイソンは両手を上げ、肩をすくめて笑う――まるで少年のように。
その姿に、広間にいた全員が吹き出すように笑った。
大貴族の館とは思えぬほど、温かな空気と家族のような笑顔が満ちていた。
どこか“家族”という言葉の意味を改めて思い出させてくれる、そんなひとときだった。
煌びやかなシャンデリアの光が静かに揺れるカシウム城の応接間。
柔らかな絨毯に足音ひとつ立てぬ中、ネリ・シュミッツが静かに一歩前に出ると、ブランゲル侯爵の耳元に小声で何事かを囁いた。
ブランゲルは一瞬だけ目を細め、それから満足げに頷く。
「――良いだろう、通せ」
低く響くその声にネリが一礼し、静かに部屋の扉へと向かう。
扉が音もなく開かれた次の瞬間、そこから現れたのは、堂々とした体格の男――料理長ミテラン・タスーと、そのすぐ後ろに続く、やや小柄で眼鏡をかけた神経質そうな男――副料理長アコッジ・イオシスだった。
ミテランは深く一礼すると、豊かな声で挨拶する。
「シャイン傭兵団の皆様、ようこそお越しくださいました。本日は、奥様――エリジェ様がご考案なされた『ワイン煮込みハンバーグ』を、心を込めてご用意いたします。ぜひ、ご堪能いただければ幸いです。」
その言葉に、傭兵団の面々は一斉にどよめく。
「ワインで煮込んだハンバーグ…?!」
ユキヒョウが目を丸くする。
「なんて贅沢な……想像もつかない味だな。」
「ふふっ、どんな味なのかしら……?」
マリアが唇に指を添えて興味深そうに微笑む。
「これはさすがに、シマでも思いつかないんじゃない?」
ロイドが肩を竦めながら呟く。
その言葉に、ブランゲル侯爵が豪快に笑い出す。
「ワハハハハ!あいつ――シマの驚いた顔が見れないのが、ちと残念だな!」
アコッジが横で控えめに咳払いし、「では、まもなくお持ちいたします。お楽しみに。」
そう言って再び丁寧に礼をしてから、料理人たちは静かに退室する。
扉が閉まると、応接間に再び期待と好奇心が渦巻いた。
美味への探求と、もてなしの心――その両方が、今まさに運ばれてこようとしていた。




