再びアパパ宿に
明け方の空はまだ藍色が残り、ひんやりとした空気が一夜屋敷の庭先を包んでいた。
鳥のさえずりもまだ浅く、村の気配も遠い。
トーマスとノエルは、そっと家を抜け出すようにして玄関を出た。
眠っている子供たちを起こさぬよう、足音を抑え、声も低く。
戸口にはすでにカウラス、マーサ、ガンザス、ダンドス、そしてアンとイライザが並んでいた。
寒さに肩をすくめながらも、その表情には名残惜しさと、温かな想いが滲んでいる。
「……それじゃ、行ってくる」
トーマスが静かに言う。
少しの間をおいて、ノエルが柔らかく頭を下げる。
「二日間、お世話になりました。詳細が詰まりましたら、こちらに人をやって改めてご説明いたします」
「楽しみにしてるわよ」
アンがにっこり笑って言った。
「また一緒に飲みましょ……二日酔いにならない程度にね」
イライザが目を細めて手を振る。
「気をつけて行くのよ」とマーサが小さく頷く。
「……俺たちも、なんだかんだ楽しみにしてるからな」
ガンザスが不器用な笑みを浮かべながら言う。
それにトーマスが軽く片手を上げて応えた。
ノエルと手をつなぎ、背を向けて歩き出すトーマス。
足並みは静かだが確かで、二人の背中には淡く昇りはじめた朝日が滲んでいた。
通りを抜けて広場へ出ると、ロイドたちシャイン傭兵団がすでに整列していた。
メリンダやキョウカ、ハイド、そしてワーレンとその家族一行――両親、姉のクララ、妻のソフィア、その両親、妹のヒルダ、弟のビリー――旅慣れない面々は馬車に揺られる準備を整えている。
馬車の周囲を、シャイン傭兵団が囲むように配置し、道中の警戒は万全。
軽く乾いた土煙が舞い上がる中、隊列はしずしずと進み始めた。
その日の野営地。
焚き火が起こされ、夕食の支度が進む中、フレッドが唐突に言い出した。
「なあ、ブランゲルには挨拶していくんだろ?」
――その瞬間、空気がピシリと張りつめた。
ぎょっ……!とキョウカが目を見開き、メリンダ、ハイド、ワーレン、そしてその家族たちが一斉に顔を青ざめさせる。
「ちょ、ちょっとフレッド?! いくら何でも“侯爵様”に対して呼び捨てはマズイでしょ!!」
メリンダが焦って声を上げる。
「さ、さすがに俺も、それはねえと思うぜ……」
ワーレンも汗をぬぐいながら言った。
「何処で誰が聞いているかわからないのよ……」
キョウカがあたりを見回しながらささやく。
それを見て、リズがくすっと笑った。
「私たちは“許されてる”のよ。ブランゲル様ご自身が、“名前で呼んでくれ”って」
「でも私たちはやっぱり“ブランゲル様”って呼ぶけどね。男連中は……ほとんど呼び捨てよねぇ」
ノエルが肩をすくめるように言う。
「僕と、オスカー、ヤコブさんくらいかな、“様”をつけるのは……」とロイド。
「俺も普通に“ブランゲル”って呼んでるしな」
トーマスがあっさり続ける。
そこへ、焚き火の向こうからベガが笑いながら声を上げる。
「ハッハッハッ、いいねえ! さすがは俺が見込んだ傭兵団だけあるな!」
一同がどっと笑い出す中、ワーレンとその家族たちはまるで異文化に触れたような、信じられないものを見るような目で団員たちを見つめていた。
「……こんな連中なの……この傭兵団って……?」と、クララがぽつりと呟き、ソフィアの母がため息交じりに「あらまあ……」と漏らす。
だがその光景は、どこか心地よく、風変わりながらも安心できる空気に満ちていた。
――この旅は、ただの移動ではない。
互いの「価値観」が交差し、少しずつ一つにまとまりつつある「家族のような時間」の始まりだった。
夕暮れの野営地。
焚き火の炎がゆらゆらと揺れ、鍋からは煮込みの香りが立ちのぼる中、シャイン傭兵団とワーレンの家族たちは、円を描くように腰を下ろしていた。
旅の疲れが程よく溶け、焚き火越しに交わされる言葉も、どこか打ち解けたものになっていた。
「シャイン傭兵団の力、価値を知っていれば頷けるね」
静かに口を開いたのはユキヒョウ。
背筋を伸ばし、焚き火の光を受けて銀白の髪が揺れている。
「そうね……そのブランゲル侯爵様という方は、よくわかってるわ」
マリアが頷きながら言う。
淡い笑みを浮かべつつも、眼差しには鋭い確信があった。
「上手く誼を持ったというべきか」
ロッベンが肩をすくめるように呟く。
「……アンヘル王国一の武人……か。人を見る目は確かなようだな」
シオンが低く唸るように言い、皆が無言でそれに頷いた。
「俺たちも、今やシャイン傭兵団の一員だぜ?」
団員の一人がにやりと笑って胸を張ると、周囲からも「そりゃそうだ」と軽く笑い声が上がった。
やがて、話題は旅程へと移っていく。
「先ほどの話だけど素通りってわけにはいかないよ」
ロイドが言う。
「城塞都市カシウムには二日滞在してからノルダランへ……そして、チョウコ村に向かう予定で行くよ」
「前に泊まった……“アパパ宿”にする?」
リズが訊ねる。
「空いてりゃ、そこでいいんじゃね」
フレッドがあっさり答える。
だが、そのやりとりを聞いていたワーレンが突然、顔を強張らせて口を挟んだ。
「……ちょっと待ってくれ。二日の間に会ってくれるのか? 会ってくれるものなのか?いくらお前らと親しいからって……相手は“侯爵様”だぞ?」
その必死さに、一瞬場が静まり返る。
「問題ねえだろう?」
トーマスが飄々と返す。
「私も、問題ないと思うわ」
ノエルが落ち着いた口調で続けた。
「……何で、そんなこと言いきれるんだよ……?」
ワーレンは納得できない表情で、手を握りしめる。
「お前、難しく考えすぎだろ」とフレッドが笑って言う。
その返しに、ワーレンはしばらく押し黙り、うつむき加減で呟いた。
「……俺が……俺がおかしいのか……?」
ぼそぼそと独りごちるワーレンに、ユキヒョウが優しく声をかけた。
「シャイン傭兵団にいれば、君もそのうち慣れるよ。……非常識が“常識”になるのが、この団だから」
焚き火がぱちりと音を立て、温かく赤い光が、ワーレンの驚きと戸惑いを照らしていた。
周囲では笑い声が再び戻りつつあり、家族たちも半信半疑ながら、少しずつこの不思議な団の空気に飲まれていくのだった。
陽は高く、陽光が照りつける午後。
旅路を進むシャイン傭兵団一行の前方に、城塞都市カシウムの姿が徐々に現れはじめた。
まず目に飛び込んできたのは、巨大な石造りの外壁。圧倒的な威圧感と重厚さをたたえた灰色の壁が、まるで山のごとく堂々と立ちはだかっている。
その上には歩哨の影がちらつき、時折、風に旗が翻る。
「……すげえな。これぞ“城塞都市”ってやつだな」
ベガが口を開き、しみじみと感嘆の息をもらす。
「爺さん、ここに住んでたんだよなあ」
フレッドがふと思い出したようにつぶやいた。
「へぇ……ヤコブさん、ここにいたのかい?」
ユキヒョウが驚いたように顔を向ける。
「そうだぜ。シマがわざわざここまで来て勧誘したんだとよ。口八丁手八丁でな」
トーマスが笑いながら言う。
「兄さん、ここは……?」
ハイドが、馬車の中からロイドに問いかけた。
ロイドは手綱を軽く引いて足を止め、城門の前方に広がる光景を指さした。
そこには城壁の外、雑然とした雰囲気ながらも、人の暮らしが息づく簡易な住居群が立ち並んでいた。
粗末な木材や布を用いた屋根、土間と石でしのいだ床。
それがまるで一つの町のような規模を成しており、人の声、子どもの笑い声、行商の掛け声が遠くから聞こえる。
「ここに住んでる人たちは、入場料を払えない者たちだよ」とロイド。
「他にも、税が払えない庶民や、職を求めてやってきた流民、戦争や飢饉から逃げてきた者もいる……」
ロイドは静かに、だが真剣な口調で続けた。
「いいかい、ハイド。目を背けてはだめだ。治めるとは、時に非情にならなければいけないこともある。ただ優しいだけでは、人は救えない」
その横で、リズが柔らかく微笑んだ。
「だけどね、ハイド君。人はたくましいの。生きる意志さえあれば、どんなところでも、どんな環境でも生きていけるものよ」
「……世の中、きれいごとじゃねえってことだな」
フレッドがぼそりと漏らし、少し寂しげな目を城門の手前に広がる市民たちへ向けた。
そして――そのとき、城門の前に立っていた兵士がこちらに気づき、もう一人と共に駆け寄ってきた。
ジャリッ、というブーツの音が乾いた地面を踏みしめ、二人の兵士がシャイン傭兵団一行の前に立ち、ビシッと敬礼を取った。
「シャイン傭兵団の方々とお見受けします! 間違いないでしょうか!?」
緊張感を孕んだ声ながらも、どこか期待に満ちた、はきはきとした声だった。
兵士たちは整った装備に身を包み、見目も態度も“軍人”としての威厳を持っていた。
ロイドが一歩前に出て応える。
「はい、シャイン傭兵団で間違いありません。僕は団長補佐のロイドです」
すると、兵士の片方が顔を紅潮させ、背筋をさらに正した。
「ハッ! これはご丁寧に……申し遅れました! カシウム領、領軍第八隊所属、キースと申します!私めがご案内いたします!!」
そのきびきびとした口調と態度に、ロッベンが思わず「いい兵士だな」と口元を緩め、マリアも「若いけど、立派ね」と小声で頷いた。
馬車の中ではワーレン一家やメリンダ、キョウカたちが、この“見たこともない格式と緊張”に背筋を正しながら、未知の都市カシウムへの一歩を踏み出そうとしていた。
こうして、シャイン傭兵団の一行は、堅牢なる都市カシウムへと入場するのであった。
城塞都市カシウムの堅牢な城門をくぐり抜けたシャイン傭兵団一行は、道中に広がる整然とした石畳の通りを進んでいた。
周囲の市民がその姿に注目し、囁き合う声があちこちから聞こえてくる。
そんな中、彼らの先導を務めていた若き兵士、キースが一歩進み出て振り返ると、整った声で訊ねた。
「シャイン傭兵団の皆様は、今日はどちらの宿にお泊まりになるのでしょうか?」
「“アパパ宿”に泊まろうかと…空いていればいいんですけど」とロイドが答える。
キースはすぐに胸を張って言った。
「ご心配には及びません」
その自信に満ちた言い方に、ユキヒョウがやや苦笑しながら「はっきり言うんだね?」とつぶやくと、キースは少し照れながらも毅然とした声で続けた。
「この都市でシャイン傭兵団の名を知らぬ者はおりません。また、ブランゲル侯爵家がシャイン傭兵団の後ろ盾であることも周知の事実です。それに……去年、皆様がグレイス・ルネ劇場で上演された公演――あれは今や“奇跡”とまで言われております」
その言葉に、ハイドやメリンダ、ワーレンたちは目を丸くした。
中でもワーレンは、周囲の尊敬と憧憬が確かに向けられているのを実感し、思わず無言で前を向いた。
やがて一行はアパパ宿へと到着する。
大きな木造の扉が開け放たれ、懐かしい風合いの看板が軒先に揺れている。
入口では、ふくよかで紅顔の宿の主人が、満面の笑みで彼らを出迎えた。
「これはこれは! シャイン傭兵団の皆様、よくぞお越しくださいました! さあさあ、どうぞ中へ!!」
「あの、40名弱いるんですが……大丈夫ですか?」
ロイドが控えめに尋ねると、主人は即座に胸を叩いた。
「何十名であろうと構いませんとも! 何なら、泊まっている客を追い出してでもお部屋をご用意いたしますとも!」
その過剰とも思える歓待に、キョウカがぽつりと呟く。
「……なんか、物凄い待遇ね……」
「……フレッドの話、本当だったのね……」
メリンダが信じられないというように言い、隣のワーレンも苦笑を浮かべる。
「……正直、ここまでだとは思わなかったよ……」
ようやく一息つこうかというその瞬間――。
玄関の扉が音もなく開き、そこに現れたのは黒と銀を基調とした軍装に身を包んだ長身の男だった。
鋭利な眼差し、端正な顔立ち。
その姿を見た瞬間、団員たちは一様に背筋を正す。
「シャイン傭兵団の皆様、ご無沙汰しております」
ネリ・シュミッツ――ブランゲル侯爵の側近が、丁寧に一礼した。
「侯爵様が、一刻も早くお会いしたいとのことです」
「耳が早いな」
フレッドが笑うと、ネリは目を細めて微笑み返した。
「それはもう。貴殿方のご到着が知られれば、私どもが動かぬはずがございません」
その口ぶりと礼節には、やはり只者ではない風格があった。
「同行者を10名までに絞っていただけると幸いでございます」とネリは続け
「それと……リズ嬢は必ずお連れいただきたく。奥方様が是非ともお会いしたいと仰せでございます」
「奥方様が……」
リズは少し驚いたように目を見開き、「わかりました」と静かに頷いた。
こうして、選ばれた10名――ロイド、リズ、トーマス、ノエル、フレッド、ユキヒョウ、マリア、ハイド、ベガ、そしてワーレンが行くことになった。
「表に、馬車を三台ご用意しております」
ネリが一礼すると、外では上等な黒塗りの馬車がすでに横付けされ、黒服の御者たちが準備を整えていた。
カシウムの空は青く澄み渡り、城壁の内に、ゆっくりと夜の帳が近づいていた。




