触れ合い
宿の裏手、小さな広場に馬が十頭並べられていた。
陽射しはやや高くなり始めていたが、馬たちの影はまだ長く、涼しい風が草を揺らしていた。
トーマスが軽く額の汗をぬぐいながら、子供たちを前に呼びかける。
「さあ、順番だ。慌てんなよ。おとなしくしてりゃ、落ちることはねえからな」
馬たちはそれぞれに手綱を握られ、穏やかに鼻を鳴らしている。
その横で、子供たち――ミライ、アニー、ウエンス、エバンス。
キョウカ、メリンダが、目をまん丸にして馬を見上げていた。
歓声と緊張の混じった声が飛び交うなか、手伝いに来たシャイン傭兵団の面々が手際よく配置につく。
ロイドが乗る馬に、彼の前へエバンスが乗る。
その手綱を引くのはトーマス。
「よし……そろそろ歩かせるぞ。ロイド、しっかり支えてくれよ」
「了解だよ。……だけど僕もそう長くは乗ってられないからね」
ハイドとウエンスが一頭の馬に。小さく笑いながらユキヒョウが手綱を取る。
「ハイド、腰に力入れてろよ。ガクガクしてると馬が困る」
「はい!」
リズとアニーは鮮やかな栗毛の馬へ。手綱を引くのは、シオン。
マリアとミライは白斑の入った穏やかな馬に乗る。手綱を引くのはロッベン。
メリンダが跨ったのは光沢のある黒毛の牝馬。手綱を引くのは……なぜか少し及び腰のフレッド。
馬がたびたび鼻を鳴らし、フレッドをちらちら見ている。
「……頼むから、今日は蹴らないでくれよ」
「ふふ、そんなに嫌われてるの? 馬に」
「わかんねぇけど、相性が悪いんだよな……俺、獣運がないのかも」
キョウカが乗るのは栗毛の馬。手綱を取るのはベガ。
「キョウカ、大丈夫か?」
「う、うん……こ、こうやって乗るんだっけ……?」
広場のあちこちで、団員たちが補助に入り、笑い声と注意の声が交錯する。
そんな中、広場の入口に影が差す。
やってきたのはワーレンと、その家族たち――妻のソフィア、姉のクララ、ソフィアの妹のヒルダ、弟のビリーが、少し驚いたように立ち尽くしていた。
一頭の馬が目の前をゆっくりと通り過ぎるとき、ビリーが思わず「うおっ」と一歩引いた。
「……でけえな、馬ってこんなでかいのかよ……姉ちゃん、ほんとに乗るの? 」
「……見てたら……楽しそうじゃない?」
ヒルダが興味深げに目を輝かせる。
「なあ、俺たちも乗せてくれねえか?」
ワーレンがトーマスに声をかける。
「おう、もちろん構わねえ。馬はちょうど十頭いる。余裕はある…騎乗経験は?」
「俺はある。……他の連中は、まったく初めてだな」
「それなら、誰か付き添いをつけるよ」
ロイドが言って、団員たちが再び手分けして動き出す。
乗馬が進むにつれ、子供たちの笑い声が広場を包み込んでいく。
「たっかーい!」
「わっ、うごいた!」
「フレッド、馬さん怒ってない?」
「わ、わかんねぇ……とりあえず俺を見んなって……」
「マリアおねーちゃん、もっと速く~!」
「うおおっ、動いた動いたぞ!」とビリー。
「落ちる、落ちる!」とクララの声が響き、周囲から笑いが漏れた。
草の上を踏みしめて馬たちがゆっくりと歩き、朝の光が鞍の金具をきらきらと照らす。
かつて戦場に立った者たちも、王都のしがらみに疲れた者たちも、今は笑い合い、ただ穏やかに馬と向き合っている。
午前もそろそろ終わりに近づいた頃、トーマスの実家の台所では、ほのかなパンの香ばしい匂いと、煮込み鍋から立ち上る野菜の甘い湯気が満ち始めていた。
使い勝手の良さそうなその台所に、ふたりの女性が肩を並べて立っていた。
ノエルとマーサ。
木製の調理台には、ふっくらと膨らみ始めた生地が載せられ、ノエルが手際よく小さく分けて丸めていく。
その隣でマーサは、刻んだタマネギや人参を煮立った鍋にそっと入れ、塩加減を見て味を整えていた。
「……これぐらいの量で足りますか?」
「ええ、大丈夫。あの三人はたぶん食べきれないぐらいよ」
マーサがくすっと笑うと、ノエルも小さく肩をすくめて笑った。
「ですよね。ぐったりと寝てましたし」
「それでも、台所にふたりで立つのって……なんだか、楽しいわね」
「はい。……私も、好きです」
穏やかな会話が交わされる中、奥の部屋から足音が聞こえてきた。
最初に姿を見せたのは、まだ少し顔色の悪いカウラスだった。
少しだけ目の下に隈を残しながら、それでも起き上がれる程度には回復しているようだ。
「……薬が効いたようだ。ありがとう、ノエルさん」
「おはようございます、お義父様。もう大丈夫そうですね」
ノエルが笑顔で応えると、後ろから続いて、アンが現れる。
寝癖のまま髪を手ぐしで整えながら、肩をすくめて口を開いた。
「ノエル、助かったわ〜……もう、起きた瞬間、床が回ってる気がして……」
「お茶を入れてありますから、座っててくださいね」
ノエルが言う間に、三人目――最後に現れたのは、イライザだった。
ゆっくりと扉の縁を支えながら、だがどこか解放されたような、晴れやかな表情で呟く。
「……すごい効き目ね、あの薬……やっと解放された気分だわ……なんというか、魂が戻ってきた感じ……」
「また大げさなことを言って……」と苦笑いするアン。
すると、調理を続けながらマーサが振り返り、三人に向かってピシャリと言った。
「あなたたち、これに懲りたら……少しは反省しなさい!」
その言葉に、三人は思わず顔を見合わせた後、子供のように素直に声をそろえて答える。
「……はい……」
その場にしばし笑いが広がる。
ノエルも肩を震わせながら、湯呑みに温かいお茶を注ぎ、湯気の立つそれを三人の前に差し出す。
「お茶をどうぞ。昼食は軽めでいいですか?」
「ええ、そうね……」とアンが言い、額に手を当てて笑う。
「さすがに、食欲はまだ戻ってこないわ……」
「ちょっとだけなら……スープぐらいならいいかな」とイライザ。
「じゃあ、ちょっと待っててくださいね」
ノエルは再び台所に戻ると、発酵を終えたパン生地を炉に入れ、膨らむ様子を確認する。
マーサは鍋をかき混ぜながら、コショウを軽くひとふり。
そんな中、玄関からドアを開ける音が響き、ざっ、と土間を踏む足音。現れたのは、汗をぬぐいながら帰ってきたガンザスとダンドスの兄ふたりだった。
「ただいま戻ったぞー。……お、起きてきたのか」
ガンザスが居間の三人を見るなり眉を上げた。
「具合はよくなったのか?」
「ああ、ノエルさんの薬のおかげで大分……」
カウラスが答え、ノエルに改めて頭を下げる。
「この三人は今しがた起きてきたばっかりよ」
マーサが笑いながら言うと、ダンドスが横でふっと笑って肩をすくめた。
「……まあ、たまにはいいだろ? せっかくトーマスとノエルさんが帰ってきた時くらいは。」
「その“たまに”が続くと困るんだけど……」
マーサがやや呆れ気味に言いながらも、どこか微笑ましげに鍋の火を弱める。
台所には、変わらぬ日常と、少しだけ照れくさいような温かさが満ちていた。
ふたりの女性が調理する音。湯気の立つ鍋の匂い。笑いと、気遣いと、家族の空気。
昼の陽が屋根の上から真っ直ぐに降り注ぎ、庭の洗濯物に白い光が落ちていた。
風が吹くたびに布が揺れ、さらさらと音を立てる。
トーマスの実家では、ノエルとマーサがこしらえた昼食――焼きたてのパンとあっさりした野菜のスープが食卓に並んでいた。
木の食卓には陶器の器が整然と並び、温かな香りが室内に広がっていたが、肝心の子供たちとトーマスの姿はどこにもない。
「昼になっても帰ってこねぇな……」
ダンドスが湯飲みを口に運びながら呟いた。
「子供たちを馬に乗せるって言ってたから……たぶん宿のほうでそのまま済ませてくるんじゃねぇか?」
「そうですね……洗濯物を取り込んだら、私、ちょっと様子を見に行ってきます」
「ノエル、お願いねぇ」
椅子に腰かけたままのアンが柔らかく微笑んだ。
まだ少し顔色は戻りきっていないが、朝の様子に比べれば格段に元気そうだ。
「子供たちがいないだけで……随分と静かに感じるわね」
イライザが呟く。ティーカップを手に、ぼんやりと庭を見ている。
「……また、リーガム街に行ってみたいわ〜。あの屋台通りとか、路地裏のアンティーク屋さんとか……楽しかったわ〜」
「ね、ほんとそれよね!」
イライザが同意の声を上げる。
去年のことを思い出したのか、二人とも夢見がちに目を細めた。
その様子に、マーサがたしなめるように言った。
「あなたたち、無茶ばかり言わないで。」
「え〜〜〜、でも、お義母さんもはしゃいでたわよ?」
イライザがからかうように返すと、マーサは一瞬口をつぐみ、頬をほんのり染めて目をそらした。
「うっ……そ、それはまあ……否定はしないけど……」
居間にくすくすと笑いが広がる。
そんな中、ノエルは軽くスカートの端を整えて、微笑みながら言った。
「いつか、私たちが住むチョウコ村にご招待しますわ。」
すると、アンがぱっと顔を上げ、身を乗り出すようにして言った。
「本当?! 絶対だからね、絶対! 約束だからね!」
「さすが私たちの義妹ね! いい義妹を持ったわ!」
イライザが言いながら、ノエルの手を両手で包み込んだ。
あまりの勢いに、ノエルは思わず笑いながら目を細める。
「うれしいです。トーマスも、きっと喜びますわ」
そこへ、庭から涼しい風とともに、物思いにふけるような男の声が届いた。
「……俺たちも、行ってみてぇなぁ」
ガンザスだった。
テーブルの端に腰を下ろし、うつむき加減に呟いたその一言に、部屋の空気が一瞬だけ動く。
「何を言い出すんだい? あんたたちまで。……畑はどうするのさ?」
すかさずマーサがたしなめる。
彼女の手はすでに、お茶のおかわりを注ぐために湯のみに向かっていた。
「い、いや……ただ、言ってみただけだろ」
ガンザスは耳の後ろをかきながら、少し照れくさそうに目をそらす。
ノエルは、そんなやりとりを静かに見守りながら、ふわりと優しい声で続けた。
「みんなで相談すれば……いい案が出るかもしれませんわ。今はまだ難しくても、未来のことなら……」
彼女の言葉に、マーサがふと顔をあげて、しばらく黙った後、柔らかく微笑んだ。
「ノエルさん……無理はしなくていいのよ。」
「……はい。ありがとうございます、お義母様。」
そう言って、ノエルは裏庭へと向かい、風に揺れる洗濯物をそっと一枚ずつ外していく。
太陽の光が彼女の横顔にやわらかく当たり、まるで新しい暮らしの始まりを予感させるような、静かなまばゆさがあった。
道すがら、遠くから笑い声や誰かのはしゃぐような高い声が聞こえてくる。
それがトーマスと子供たちのものだと気づくと、ノエルの歩みに自然と弾みがついた。
やがて宿に到着し、庭先をのぞいたノエルの視界に飛び込んできたのは――
広場の木陰に敷かれた大きな布と、囲むようにして座るシャイン傭兵団の面々、そしてワーレン一家の姿だった。
既に昼食を終えた後らしく、皆が思い思いの姿勢で談笑している。
子供たちは馬とのふれあいを終えてまだ少し興奮気味で、団員たちの間をちょろちょろと走り回っている。
そんな中、ノエルの姿にいち早く気づいたのは、小さな声の持ち主だった。
「あっ、ノエルおねーちゃん!」
駆け寄ってきたのはアニー。
その後ろから、ミライ、エバンス、ウエンスたちも続々と顔を見せる。
「お昼ご飯は食べた?」
ノエルが優しく問いかけると、子供たちは口々に叫んだ。
「うん!」
「いっぱい食べたよー!」
「パンもあった! スープも美味しかった!」
ノエルが柔らかく笑ってうなずくと、傍らにいたトーマスが申し訳なさそうに「……ノエル、すまん。用意してくれてたか?」
「大丈夫よ、問題ないわ。子供たちが楽しめたなら、それが一番よ」
その返事に、トーマスは胸を撫でおろすように笑い、子供たちが次々と声を上げる。
「あのねー! あのねー! お馬さんに乗ったのー!」
「僕も!」
「私も乗ったー! ろっべんがひいてくれたの!」
「ちょっと怖かったけど、楽しかった!」
子供たちはまだ頬を上気させており、足元をせわしなく動かして興奮を抑えきれない様子。
ノエルはしゃがんで、ひとりずつ目を見て言った。
「あらあ〜! よかったわねぇ〜。楽しかった?」
「うんっ!!」
ちょうどそのとき、マリアがノエルに向かって問いかけた。
「お義姉さんたち、具合はよくなったの?」
ノエルは立ち上がり、手を合わせるようにして答える。
「ええ、大分良くなったわ。もう大丈夫じゃないかしら」
「シャイン傭兵団特製の薬だからね」
口を挟んだのはユキヒョウ。
その言葉に周囲の団員たちからも声が上がった。
「確かに、あれは効くな」
「俺も一度、ひどい宿酔いのときに助けられたことがある」
「飲んだ後、妙に視界がクリアになるんだよな……」
笑い声が続く中、ノエルがトーマスに向き直り、少しだけ照れたように打ち明けた。
「ねえ、トーマス。去年、お義母様たちを連れてリーガム街に行ったでしょう?……よほど楽しかったのか、アンお義姉様がまた行きたいわって言うから……つい、いつかチョウコ村に招待しますわって約束しちゃったの」
トーマスは「ふっ」と鼻を鳴らして肩をすくめた。
「なるほどなあ……あのときのはしゃぎっぷりを見れば、そりゃ言いたくもなるか」
「あ~、なんとなくわかるかも」
頷いたのはメリンダ。
彼女は芝生の上に横座りし、手に取ったスカーフの裾をいじりながらぽつりと呟く。
「普通じゃ村の外に出ることなんてないわ」
「どういうことだ?」
不思議そうに聞くのはフレッド。
だがメリンダは特に驚く様子もなく、ただ事実を淡々と語った。
「……私だって、今回が初めてなの。キョク村から外に出たの、人生で初めてだったのよ」
その言葉に、場の空気がほんの少しだけしんと静まった。
けれど、すぐに子供たちの笑い声がまたそれをかき消して、遠くからは小鳥の鳴き声が聞こえてくる。




