案の定
朝日がまだ屋根の縁に滲んでいる頃、一夜屋敷ではすでに朝の支度が整えられていた。
大広間には炊きたての穀粥と焼き野菜、昨夜の残りのハンバーグが並び、湯気が立ち上っている。
だが、その香りにも顔をしかめる者たちがいた。
案の定、カウラス、アン、そしてイライザは、青白い顔で寝台に伏していた。
三人とも呻き声を漏らしている。
とくにイライザは「……飲みすぎたわ……気持ち悪い…頭痛い…」と寝言のように呟きながら、額に冷たい手拭いを乗せてもらっていた。
そんな中、トーマスとその兄たち――ガンザスとダンドス――は、まだあどけない子供たちとともに朝食を済ませ、食後には早々に畑へと向かっていった。
朝露を踏みしめながら、「夏野菜は実がつき始めてる」「順調に育ってるな」と、実に真面目な顔で話し合う姿は、昨夜の喧噪がまるで嘘のようだった。
一方その頃、ノエルは、涼しい朝風に長い髪をなびかせ。
「――さて、薬を取りに行かなきゃね」
手慣れた足取りで村道を抜け、シャイン傭兵団が泊っている宿へ向かう。
その宿では、朝食の真っ最中だった。
傭兵団の面々が、それぞれ木の器を手に麦粥や香草入りの目玉焼きを食べていた。
そこへ、木戸が控えめに開いた。
「おはよう。……お邪魔するわね」
顔を出したのはノエルだった。
風にほんのりと頬を染めた様子で、にこりと微笑む。
彼女の姿を見て、リズがすかさず声をかける。
「ノエル、いらっしゃい。トーマスのご家族たちは元気だった?」
「ええ、元気よ」
ノエルは苦笑いしながら片手を頬に当てた。
「ただ……ちょっと、お義父様とお義姉さまたちが飲みすぎちゃって。今朝は誰も起きてこなかったわ」
それを聞いて、テーブルのあちこちから苦笑や小さな笑い声が漏れる。
「薬、馬車から持っていくわね」
ノエルが踵を返しかけた、そのとき――ふと、彼女の目が部屋の奥に座る見慣れぬ人物に止まった。
「あれ? ……あなたは……王家特別監察官の……」
その男は、粗野ではあるが堂々とした立ち居振る舞いで腰掛けていた。
「ワーレンだ。シャイン傭兵団に世話になることになった。よろしくな!」
男は片手を挙げ、気取らない笑顔で言った。
その挨拶に、フレッドが隣から補足する。
「ベガと一緒で、まだ仮だけどな」
「そうなのね……ふふ、後はシマの認可待ちね」
ノエルは納得したように小さく頷き、もう一度場の様子を見回した。
食後のカップを片づけながらロイドがノエルに声をかける。
「ノエル、明日、出立しても問題ないかい?」
ノエルは少しだけ考える素振りを見せた。
夜の残り香がまだ屋敷に漂っているのを思い出したのだろう。
だがすぐに、落ち着いた声で答えた。
「……そうねえ……ええ、問題ないわ。トーマスにも伝えておく」
それを聞いて、ロイドは安堵の表情を浮かべ、深く頷く。
「ありがとう。出立の準備、今日のうちに整えておこう」
そしてノエルはふと立ち止まり、もう一度ワーレンを見つめた。
目は柔らかくも油断なく、傭兵団の一員として彼を受け入れる覚悟が、そこにはあった。
その視線を受け、ワーレンは「なかなか手厳しいな」と苦笑いする。
それにノエルも笑って応じた。
「ワーレンさんがシャイン傭兵団の一助になってくれることを期待するわ。」
目の前には、朝日に照らされて金色に輝く畑が広がっていた。
風に揺れる小麦の苗が一面に並ぶ光景に、トーマスは足を止めて目を細める。
「……ん? 小麦畑、広げたのか?」
傍らで鍬の柄を肩に担いでいたガンザスが、にやりと笑った。
「まあな。去年、お前らからもらった農具、やっぱ新品は違うな。刃がよく通るし、柄も握りやすい。作業がはかどるってもんよ」
ダンドスが麦畑を見渡しながら、補足するように言った。
「この村、土地だけは有り余ってるからな。村長にもちゃんと報告済みだ。問題ねぇ」
「……そりゃよかった」
トーマスは小さく息をついて、胸をなでおろす。
「よほどのことが無い限り、飢える心配はねえな……」
ふと、トーマスが顔を上げる。
「ブルーベリーとラズベリーを植えたのは……たしかもうちょい先だったな」
「おう、こっちだ」とガンザスが頷き、皆で畑の縁を回り込む。
そして、昨年植えた果樹の区画へと足を踏み入れると――そこには、驚くほど立派に育った苗木が並んでいた。
青々と葉を広げ、しっかりとした幹が空へ向かって伸びている。
「……今年中には実がなりそうだな」
そう呟きながら、トーマスは内心で驚きと一抹の不安を覚えていた。
(いいことなんだが……深淵の森産の苗木というだけで、こうも違うのか……?)
普通の苗とは明らかに成長の早さが異なる。
だが、それが害ではなく益であるなら、今は受け入れるしかない。
「おい、どうした! トーマス!」
後ろからガンザスの声が飛ぶ。
トーマスは少し驚いて振り返った。
「ああ、いや、なんでもねえ!」
気を取り直して、果樹の並びを見渡しながら笑う。
「実がなれば、子供たちに食べさせてやれるな」
その言葉に、目を輝かせた子供たちがぱたぱたと近づいてくる。
「食べられるの~?」
「ああ、美味しいんだぞ。……ジャムの作り方を教えねえとな。ノエルが、お袋たちに教えるか…」
「ジャム?」
ガンザスが聞き返す。
名前は知っていても、詳しくは知らない様子だ。
「美味いのか?」
「ああ。パンに塗ってもいいし、お茶に入れても合う。甘いんだけど、砂糖とはまたちょっと違うな……果実の甘さっていうか……」
「へえ~」
「甘いの~?」
「ほしい~!」
子供たちが一斉に声を上げる。中にはぴょんぴょん跳ねる子もいて、兄たちは自然と頬を緩める。
「実がなってからのお楽しみだな!」
トーマスは笑って頭を撫でた。
陽射しが少しずつ強くなる中で、ガンザスとダンドスは袖をまくりながら畑仕事に取りかかる。
ガンザスは鍬を肩に回し、ダンドスは水桶を手に取って「じゃ、任せたぞ」と軽く手を振る。
トーマスは子供たちに声をかける。
「よし、じゃあお前たち、宿に行くぞ。馬に乗せてやるからな」
「やったー!」
「ほんとに乗れるの~?」
「でも落ちない?」
「大丈夫だって、兄ちゃんがしっかり見てる」
笑顔と共に、トーマスは末の子を抱き上げ、背中に負ぶう。
そのまま、のどかな畑道を子供たちを連れて戻っていく。
朝の光が木漏れ日のように彼らの肩を照らしていた。
その背中は、家族というものの重みを確かに背負いながらも、どこか誇らしげに見えた。
「さあ、着いたぞ」
トーマスが宿の木戸を開ける。
中からは朝食の名残――香草と麦の匂いが漂っていた。
木造の梁と開け放たれた窓からは涼しい風が吹き込んでいる。
中では、傭兵団の面々と、数人の見慣れない客人たちがくつろいでいた。
ワーレンを中心に、その家族が並んで座っていた――ワーレンの両親、姉。
妻ソフィアの両親、妹、弟、も含めて、一同が会している。
そこに、トーマスが朗らかな声で言った。
「悪いが、子供たちを馬に乗せてやりてぇんだ。手の空いてるやつは手伝ってくれねえか?」
その瞬間――「……で、でかッ!!」
鋭く響いた驚愕の声。
叫んだのは、ワーレンの姉クララだった。
彼女は一歩身を引きながら、トーマスを見上げていた。
ワーレンの家族、ソフィアの家族も、口を開けたまま、まるで時が止まったように固まっていた。
トーマスは一拍おいて、目を細める。
「……何処かで会ったな」
思案げに首をかしげるその姿に、そばで座っていたマリアが呆れたように笑った。
「ノエルから聞いてないの? 彼ら、ワーレンさんのご家族よ」
「え、ああ……今朝の朝食までは一緒だったんだけどな。食べ終わってから畑を見に行って……それで今ここだ」
トーマスの返答に、ワーレンがテーブルの向こうからうんざりと呟いた。
「……また説明すんのか……」
そのぼやきに、宿の一角から聞き慣れた声が続く。
「元王家特別監察官のワーレンさんとそのご家族だよ。ワーレンさんはシャイン傭兵団に入団する予定だね」
ロイドが冷静に補足した。
一同の視線が再びトーマスと子供たちに注がれる。
だが、その緊張を破ったのは、元気な子供の声だった。
「おじちゃん、まだあ〜? のりたい〜!」
声をあげたのは、ダンドスの娘のミライ。
彼の足元にしがみつき、つぶらな瞳で上目遣いに訴える。
「ああ、悪い悪い」
トーマスは頭を掻きながら笑うと、部屋の全体に向けて頭を下げた。
「まあ、よろしくな!」
その一言に、まだやや呆気に取られていたクララやソフィアたちも、ようやく口元に笑みを浮かべる。
長身で筋骨たくましいが、どこか柔らかさのあるトーマスの人柄に、警戒がゆっくりと溶けていく。
すると、今度は声を上げたのはメリンダだった。
「フレッド、私も乗ってみたいわ!」
「兄さん、僕も久しぶりに乗りたい!」
ハイドが元気よく言う。
そのやり取りに、宿の空気が一気に和やかになる。
子供たちは「わたしも!」「ぼくも!」と声を上げ、馬に乗れるという期待に目を輝かせて跳ねていた。
トーマスは、そんな子供たちを順番に呼び、頷いた。
「よし、じゃあ行くぞ。順番な。順番!」
こうして、宿の中は少しの間だけ笑いと声で満ちた。
朝の陽射しがいっそう明るさを増す中、ノエルは、トーマスの実家へと戻ってきた。
手には宿から持ってきた薬の入った包み。
「ただいま戻りました」
声をかけながら居間に入ると、そこには三人の"戦没者"――いや、二日酔いの親父と女傑たちが、それぞれに布にくるまって呻いていた。
マーサが、顔をこちらに向けて申し訳なさそうに言う。
「ノエルさん……ごめんなさいね……こんなことまでしてもらっちゃって」
「ほんとに……面目ない……」
奥で転がっていたカウラスが、濡れた手拭いを頭に乗せたまま唸る。
「……ごめんねぇ、ノエル……」
と続いたのはアン。
顔の半分だけを布からのぞかせ、蚊の鳴くような声で謝罪する。
そして一番近くの床の上で、転がっていたイライザが、泣きそうな声をあげた。
「……ノエルぅ~、あたまがいたぁい~!」
それを聞いて、ノエルは思わず吹き出しそうになるのをこらえながら、手にした包みをそっと開いた。
薬瓶を取り出し、湯飲みに慎重に分量を注ぎながら微笑む。
「この薬、二日酔いに良く効くんですよ。飲んで、安静にしていればすぐ良くなりますから」
彼女は一人ひとりの枕元に膝をつき、優しく言葉をかけながら薬を手渡していく。
苦そうな液体に顔をしかめながらも、三人は素直に口を開けて薬を受け取った。
「はあ……これでやっと頭が落ち着くか……」
「ノエル、女神みたいだわ……」
「神に感謝……」
などと寝言のような賛辞(?)が飛び交いながら、ノエルは静かに立ち上がる。
その後――。
三人が静かに眠りに落ちると、部屋にはようやく落ち着いた空気が戻ってきた。
ノエルは袖をまくって、裏の台所へと向かう。
そこにはすでにマーサが座っており、布巾で器を拭いていたが、ノエルの姿を見ると少し戸惑ったように立ち上がろうとした。
「私がやりますよ。……せっかく静かになったんですもの。お義母様は座っててください。」
「いえいえ、手が二つあるなら使わなきゃもったいないですものね。一緒にやりましょ」
二人は自然と並んで、朝食後の食器を片付けはじめた。
麦粥の跡がこびりついた木鉢を手桶の水で丁寧に流し、布巾で拭いては棚へ戻す。
スプーンやフォークもひとつひとつ磨くように整えていく。
「……しかし、お義姉さまたち、まるで戦場帰りみたいでしたね」
ノエルが冗談めかして言うと、マーサは「ほんとよ」と笑いながらうなずいた。
笑い合いながら、ふたりは次に台所の床を箒で掃き始めた。
木目の隙間に詰まった食べかすや埃を丁寧に掃き出し、濡れ布で拭き上げていく。
そして、そのまま裏庭の洗い場へ。
洗濯籠に積まれていた昨晩の衣類や布巾を井戸水で洗いはじめる。
石けんの泡が白く立ち、ふたりの間にはどこか穏やかな時間が流れていた。
鳥のさえずりと、水のはねる音。たわいもない会話。
誰かの怒鳴り声も、剣戟の音もない――そんな、平和で満ち足りた朝のひとときだった。




