ローラー作戦終了
「山鷲亭」の夜は更け、食堂には熊鍋の湯気と笑い声が立ちこめ、団員たちの杯が次々と空になっていく中、次第に話題は自然と“狩”から“村の安全”へと移っていった。
「しかしなあ……獲物をいくら仕留めたところで、山道や街道、キョク村そのものの安全が本当に保たれるのかって話だよなあ」
と言ったのはトーマス。酒を煽った顔で、だがその目は真剣だった。
「広範囲になるしね。絶滅させるなんて不可能だし、仮に仕留めたとしても空いた縄張りには、また別の獣が入ってくるだけだもの」
マリアが穏やかに応じる。
「堂々巡りってやつだな」
ロッベンが頷き、陶器の盃を指でくるくると回す。
「なんつったか……“マーキング”だっけ?」
トーマスが思い出すように言う。
「ああ、シマが言ってたね」とロイドが頷いた。
「獣たちに“ここは人間の領域だ”って分からせるために、匂いをつけるんだよ。」
「へえ……」
メリンダが興味深そうに目を細める。
「具体的にはどうするの?」
「小便や糞をまくんだよ」
フレッドがあっけらかんと言い放つ。
「うっ……」と一瞬たじろいだのはキョウカだったが、それでも「そんなやり方があるのね……」と感心したように微笑んだ。
「それに加えて大事なのは、人間って生き物が“恐ろしい”って思わせることよ」
ノエルが静かに言った。
彼女の目は火のように鋭く、だが理知的な熱を持っていた。
「縄張り意識の強い動物にとって、恐怖の記憶は境界線になるのよ」
「今日やったローラー作戦?」とユキヒョウがグラスを傾けつつ続ける。
「あれに“匂い付け”を組み合わせるってのはどうだろう」
「人が住む地域に近づけさせないようにする。それが安全につながるわね」
リズが淡々と言う。
「……そうだね」
ロイドが静かにまとめに入った。
「明日もローラー作戦を実行しながら、“匂い付け”も行おう。用を足すタイミングを意識して、できるだけ広範囲に……」
「じゃあ!」とトーマスが両腕を掲げる。
「今のうちにたらふく酒を飲んどこうぜ!明日までにいっぱい作っておかねえと!」
「飲み過ぎたら出すもんも出なくなるぞ」
シオンが真顔でツッコみ、周囲から笑いが巻き起こる。
ハイドもその輪の中で、楽しげに笑っていた。
「あなたたちの団長のシマ?っていう人、いろんなことを知ってるのね」
キョウカがふとした調子で言った。
その言葉に、フレッドが待ってましたとばかりに胸を張る。
「まあな、俺たちの団長だしな!」と自信満々のドヤ顔。
「お前が偉そうに言うなよ」
すかさずロッベンがツッコミを入れる。
「いいんだよ!」と、まるで当然のようにフレッドが続けた。
「あいつの手柄は俺のモノ、俺の手柄も俺のモノ!」
「どういう理屈なんだよ、それ……」
呆れ気味にシオンが肩をすくめる。
「それじゃあシマがかわいそうじゃない」
マリアが苦笑を浮かべながら言う。
「でも……あなたたちの団長に会うのが楽しみだわ」とキョウカが微笑むと、「俺もだ」とベガも軽く杯を持ち上げて笑った。
その時、不意にメリンダが言った。
「まだ聞いてなかったわね……ノエルたちが、去年よりも明らかに綺麗になってるってこと」
言葉の余韻が残る中、フレッドがニヤリと口を開いた。
「男を知ったからだろ」
その瞬間、空気がビリリと張り詰めた。
ヒュンッ!
金属音が風を裂き、ノエルが手にしていたフォークが一閃、テーブルを越えて飛んだ。
「あっ、危ねえっ!」
間一髪、フレッドがフォークの柄を二本の指で挟み取り、難を逃れる。
リズの鋭い視線が静かに突き刺さる。
「その減らず口……開けないようにしてあげましょうか?」
「さすがに今のは君が悪いよ」
ユキヒョウが苦笑を浮かべる。
「え? なんで? 事実を言っただけだろ?」
まったく悪びれず、フレッドは目をしばたたき、納得できないという顔で周囲を見回す。
その表情に、女性陣たちからは一斉に冷たい視線が集中した。
「……わかった、わかったよ。今のは俺が悪かった」
ようやく観念したフレッドが手を上げ、「ゴメンちゃーい!」とふざけた調子で謝罪する。
呆れたように眉を寄せるリズ、ため息をつくマリア、ジト目で睨むノエル、肩をすくめるキョウカ。
一方、他の団員たちは声を上げて笑い出す。
「はははっ!」「お前、ほんと懲りねえな!」
気まずさと可笑しさが入り混じったような雰囲気の中、熊鍋の湯気がまたふわりと立ち上った。
「……馬鹿はほっときましょう」
メリンダがため息交じりに言うと、話の流れに戻るように小首を傾げて問いかける。
「それで……何か秘訣でもあるの? 去年よりも綺麗になったって話の」
ノエルがニヤリと笑って答えた。
「そこの馬鹿から聞いてないの?」
「俺は口が堅いからな!」
誇らしげにフレッドが胸を張る。
「もう!いちいち話に割って入ってこないで!あんたはそっちで飲んでなさい!」
メリンダがぴしゃりと一喝。
「へいへい……」
やれやれと肩をすくめながらエールをあおるフレッド。
そのやり取りに、くすくすと笑いが漏れた後で、リズが肩をすくめながら言った。
「……秘訣ってほどでもないけど、正直あまり公には言えないのよね。商材にもなるし」
「お風呂とリンス、石鹼くらいなら別に構わないんじゃない?」
マリアが静かに付け加える。
「そのうちに知れ渡るでしょうし」とノエル。
「私が惹かれた一因でもあるわ、シャイン傭兵団に」
キョウカがしみじみとした口調で微笑む。
「お風呂って……あなたたち、貴族じゃあるまいし」
メリンダが怪訝な顔で眉をひそめる。
「石鹼はわかるけど、リンス? 何それ?」
「一度入ったら病みつきよ!」と
マリアが目を輝かせる。
「お肌はツルツル、スベスベ、モチモチってなってさ」
「リンスを使えば、髪はしっとりサラッサラになるの!」
リズが勢いよく続ける。
「……え? 言ってる意味が分からないわ…?」
メリンダはポカンとした顔をする。
「これはもう、体験した人じゃなきゃわからないのよね」
ノエルが微笑を浮かべる。
「お風呂上がりの、冷えたエール……最高よ」
どこか遠くを見つめながら、マリアがうっとりとした声でつぶやいた。
「冷えたエール?……何を言ってるの……?」
メリンダの困惑が顔ににじむ。
「私も未だに半信半疑なんだけどね……」
キョウカが肩をすくめる。
「でもノエルたちの口ぶりを見てると、嘘を言ってるようにはとても思えないわ」
「早くキョウカさんにも味わわせたいわ」とリズが目を細めて微笑む。
まるで秘密の楽園の話をしているような雰囲気の中、湯気とエールと笑い声が交錯して、夜はゆるやかに深まっていくのだった。
キョク村、三日目の夕刻。
静かに沈む夕日を背に、シャイン傭兵団が最後のローラー作戦を終えて帰還する。
熊1頭、狼12頭、猪2頭――獲物の数こそ少ないが、目的は果たした。
山から街道、村の近辺まで「人間の匂い」を刻みつけ、獣の縄張りを塗り替えた三日間だった。
ハイドとメリンダ、村の猟師たちも参加。
そんな中、狩猟成果の中でもひときわ目を引いたのが熊の毛皮だった。
光沢のある厚み、艶やかで堂々とした見栄え。村のなめし革屋に続き、今度は――
「うむ……その熊の毛皮、ワシにも譲ってはくれんかのう……?」
現れたのはコモロフ村長。
ご自慢の髭を撫でながら、まるで市に並ぶ果物でも見るかのような目つきで、熊の毛皮を見つめている。
「……またか」とつぶやくリズ。
「見栄えも大事じゃろう? なんせワシの孫娘、メリンダが熊の毛皮を持っているんじゃ、ワシが何も持ってないなど……どうにも見栄えが悪いと思わんか? のう?」
ロイド、リズ、ノエル、マリア――団員たちの視線が一斉にフレッドに集中する。
「……交渉は君に任せたよ」
「がんばって、フレッド」
「ほらほら、出番出番!」
「任せろ」
フレッドはにやりと笑い、肩をぐるんと回して前に出た。
「えっ……フレッドに交渉ができるの……?」と、メリンダが素で驚く。
「そんな疑うような目ぇ向けんなや……」
フレッドは村長と向き合い、腕を組んで、ふん、と鼻を鳴らした。
「ほれ、フレッド……ワシとお前の仲じゃろう……なあ、安くしてくれんか?」
「……どんな仲だよ、それ」と、フレッドが渋面を浮かべて返す。
眉間に一本、深い皺が刻まれる。
「むむむ……よし! じゃあ、1金貨でどうじゃ!これ以上は出せんぞ!」
すかさず周囲からヒソヒソ声が上がる。
「悪くない額じゃない?」
「さすが村長さん、商売慣れしてるわね」
が、当のフレッドは……というと。
(……アレ?…最初に何て切り出すんだっけ……?交渉の時ってまず……何から始めてた?今までどうやって交渉してたっけ!?…ヤッベ……どわすれした……!!エイラが言ってた手順……完全に吹っ飛んだ……!)
脳内では激しいエラー音が鳴り響いている。
頭の中に「交渉とは」の文字が浮かぶが、説明欄はまっさら。
顔は険しいまま、内心パニックの極み。
村長はその間も口達者にまくし立てる。
「うむ……1金貨と3銀貨!」
「いや、1金貨と5銀貨! もう出せんぞこれは!」
「ええいっ! 2金貨でどうじゃ!! これで文句はあるまい!!」
その瞬間、ロイドたちや猟師たちが「おおぉっ!!」と声を上げた。
「太っ腹だな村長さん!」
「やるじゃねえか、フレッド!」
「すげぇ、値段吊り上げたぞ!」
「……えっ?」
フレッドはポカンと口を開けたままキョロキョロと周囲を見回す。
トーマスがガツンと背中を叩いて言う。
「決まりだなフレッド! さっすがだぜ!」
「へ……ああ、うん……そ、そうだな……」
(……なんで値上がってんだ!? 俺、何も言ってねえぞ!?)
一方、村長は肩を落としながらも、じつに満足そうに笑っていた。
「うむ、立派な毛皮じゃ……これを屋敷の正面に飾れば……フフフ……ふぉっふぉっふぉ……」
ロイドが耳打ちする。
「実質何もしてないのに2金貨、すごいよフレッド」
ノエルが肩をすくめて笑う。
「無言の圧ってやつね」
「村長さん勝手に自爆していったように見えるんだけど…?」とマリアが言えば、メリンダは呆れ顔で、「本当に交渉できたのかしら、この人……」と小声でつぶやいた。
そんな空気も知らず、フレッドはひとこと――「……これが俺の流儀ってやつだな!」
なめし革屋の老店主と古着屋の女主人が、狼の毛皮を広げながら申し訳なさそうに頭を下げた。
「これだけの量じゃ、丁寧に仕上げるには三日は欲しい……」
「いいものにしたいんだよ、粗雑には扱えない。三日だけ、待ってくれないかい?」
ロイドは微笑んで頷いた。
「もちろん。こちらとしても丁寧な仕事をしてもらえるのはありがたいです」
村の猟師たちには、労いとして狼の毛皮を一枚ずつ贈ることにした。
それを聞いた猟師たちは恐縮しながらも、深く頭を下げた。
「こんな立派な毛皮を……ありがてえ……」
「子どもらに防寒具をこしらえてやれます……!」
毛皮の仕上がりを待つ三日の間――
シャイン傭兵団の面々は束の間の休息を満喫していた。
朝、フレッドはライドの手を引いて畑へ向かう。
澄んだ空気の中、朝露に濡れるブルーベリーとラズベリーの苗が瑞々しい光を放っていた。
「おいライド、見てみろよ。お前が水やってたからか、こっちの茂みにはもう小さな実ができてるぜ」
「ほんとだ!お兄ちゃん、食べられるのはいつ?」
「もうちょいだな。もうちょいで、甘くてうめぇ実になる」
ライドの顔が嬉しそうにほころぶ。
メリンダは目を細めながら、そんな光景を見守っていた。
「……本当に、帰ってきてくれて良かった」
その三日間。
刃も、矢も、誰かを傷つけることなく――
静かに、優しく、時だけが過ぎていった。




