現実と覚悟
日差しが緩やかに傾き始めたころ、ロイド隊はキョク村の木製の門をくぐり、村へと戻ってきた。
午前中の狩猟で仕留めた鹿四頭、狼二頭、熊一頭と子熊二頭。
村の広場に馬車が入ってくるや否や、それを見つけた村人たちが「おおっ!」と歓声を上げた。
宿屋、食堂屋、なめし革屋、細工屋の店主たちが次々と姿を現し、口々に「すげえ量だ!」「まさか午前中だけでこれほどとは…!」「あの熊…親子か?」と感嘆の声を漏らす。
村の子どもたちも走ってきて、「でっかい!」「狼だ!」「熊だ!」と目を輝かせた。
肉はキョク村にある三軒の宿屋と二軒の食堂に、均等に卸されることがその場で決まる。
熊の肉の一部は村長とフレッドの実家にお裾分けされ、残りはシャイン傭兵団が自分たちで消費する分として保管されることとなった。
活気と熱気に満ちた広場を後にして、「山鷲亭」へ戻ったロイド隊。
宿の一階、食堂兼酒場には既にキョウカが座っており、隊の帰還を待っていた。
「おかえりなさい。フレッドたちの隊、二時間もせずに猪一頭と狼一頭を持ち込んできたわよ」
にこやかに報告するキョウカ。
「早いな」
感嘆の声を漏らすシオン。
「さすがはフレッドというところだね」
肩をすくめて微笑むユキヒョウ。
狩猟の成果は上々。
団員たちの顔には確かな手応えと達成感が浮かび、短い休息に満ち足りた空気が漂っていた。
だが、ただ一人――ハイドだけは、どこか沈んだ表情で一歩引いていた。
それに気づいたロイドが、穏やかな声で言う。
「ハイド、ちょっとこっちにきて座って」
ハイドは目を伏せたまま、小さく頷くとロイドの前に腰を下ろした。
しばし沈黙ののち、ロイドが静かに問いかける。
「…子熊を仕留めたことに、罪悪感を感じているのかい?」
ハイドは答えず、深くうつむいた。肩がわずかに震えている。
ロイドはハイドの様子をじっと見つめながら、静かに言葉を紡いだ。
「…気持ちは分かるよ。まだ小さくて、可哀そうに見えたかもしれない。でも、あの子熊が成長したとき、どうなると思う?この村に降りてくるかもしれない。畑を荒らすだけじゃない。村人、狩人、旅人、行商人…誰かが命を落とすかもしれない。たった一度、たった一撃で。熊の一撃は、人間には致命的だ。例え、それが子熊であろうと、見逃すわけにはいかないんだ」
ロイドの言葉は淡々としていたが、その芯には確かな信念と現実への覚悟があった。
その横で、リズがやわらかく、しかし毅然と口を開いた。
「ハイド君、この村の防護柵ね、何十年も掛けて村人たちが作ったものなんだって。メリンダが言ってたわ。その間には、命を落とした人もいたって。畑を守るため、家族を守るためにね…」
ハイドが顔を上げ、リズを見る。その瞳には迷いと痛みが宿っていた。
「もし私たちが今日、あの子熊を見逃して――何年後かにその熊が、ハイド君の大切な人を傷つけたとしたら、どう思う?」
リズの言葉は柔らかく、しかし心に突き刺さるような鋭さを帯びていた。
ハイドは一瞬、息を詰めるように沈黙したあと、ぽつりと呟いた。
「…許せない…僕自身を…」
その一言に、傍にいた団員たちも静かに頷く者がいた。
ロイドは穏やかに微笑み、「それでいい。ハイドがその気持ちを忘れずにいてくれれば、それだけで十分だ」と言った。
ハイドは小さく頷いた。
少年の顔にはまだ迷いがあったが、心の奥に確かなものが芽生えつつあった。
やがて外から聞こえる、獣の毛皮や肉を運ぶ音、団員たちの軽口混じりの声――それに混じって聞き慣れた豪快な笑い声が響いてきた。
どうやら、フレッド隊が戻ってきたようだった。
ほどなくして、扉が開き、フレッド、トーマス、ノエル、マリア、ベガ、ロッベンらが土埃をまといながら入ってきた。
皆、一様に疲労は見せつつも、どこか清々しい顔つきをしていた。
「よう!」
フレッドが右手をひらひらと上げて、ロイドたちの方へ近づいてくる。
「成果はどうだった?」と、どこか軽い調子で問いかける。
シオンが応える。
「鹿四頭、狼三頭、熊一頭と小熊二頭だ」
「ヒューッ、すげえな!」
口笛を吹きながらベガが目を丸くする。
「怪我した奴はいねえか?」
真面目な声で確認するトーマス。
「おかげさまで無事よ」と答えるリズ。
続いて、ユキヒョウが問い返す。
「君たちの方はどうだったんだい?」
「こっちはやけに犬っころがいたぜ」と肩をすくめて笑うフレッド。
「猪一頭に、狼八頭」
ノエルが淡々と報告する。
「群れだったのかもね」
マリアが考察を添えた。
フレッドの視線がふと、やや後ろに控えていたハイドに向く。
「ハイド! 初めての狩はどうだった?……って、おいおい、なんだよその浮かないツラは。怪我はしてねえんだろ?」
その問いに、ハイドは俯いたまま返事ができず、隣にいたロイドが代わりに答える。
「……子熊を仕留めたことに葛藤があるみたいなんだ」
その言葉を聞いたメリンダが、ピンと反応して一歩前に出る。
「……ロイドの弟よね? ハイド君!」
呼びかけられたハイドが小さく反応し、「は、はいっ!」と姿勢を正す。
メリンダは珍しく鋭い声で続けた。
「いい? この村はね! 何年も何十年も、大型獣に脅かされ続けてきたの。畑を荒らされ、家畜を殺され、場合によっては人が命を落とすことだってあったのよ!」
その言葉に食い気味でリズが口を挟む。
「ちょ、ちょっと待ってメリンダ。ハイド君には私たちからもちゃんと言い聞かせたから……」
だが、メリンダは引かない。
「あまいわ、リズ! 現実を知らなさすぎるのよ。覚悟が足りない! 命を奪うってことがどういうことなのか、命を守るためにどんな選択を迫られるのか――それを理解させなきゃ!」
その言葉には、感情が込められていた。
村に住む者として、幾度も脅威に晒されてきた者の切実な想いが滲んでいた。
そして、メリンダはまっすぐハイドに向き直る。
「いいわ、午後から私がみっちり教えてあげるわ!心の準備をしておきなさい!」
「…お、お手柔らかにお願いします……」
ハイドは小さく肩をすくめて言った。
場が一瞬静まり、フレッドが笑い混じりにぼそりと呟いた。
「……ハイド、ご愁傷様だな」
それを聞いたトーマスが笑いを堪えきれず噴き出し、シオンやリズもつられて苦笑する。
ハイド本人は複雑な面持ちだったが、こうして彼もまた、傭兵団の一員として少しずつ歩みを進めていた。
宿屋「山鷲亭」の食堂兼酒場、昼下がりの光が木窓から差し込み、食卓に穏やかな陰影を落としている。狩りを終えて戻ってきたシャイン傭兵団の団員たちは、簡素ながらも温かい昼食を囲みながら、次なる行動について話し合っていた。
「キョク村に通じる山道の周りを重点的に捜索、狩りをしてみては?」
ノエルがフォークを置いて、静かに提案する。
「これから村を訪れる旅人や行商人たちのことを考えても……その方がいいと思うの」
「そうね…少しでも脅威になり得るものは、あらかじめ排除しておいたほうがいいわ」
マリアも同意し、メリンダに視線を送る。
「……そうしてくれると助かるわ」
メリンダは素直に頷いた。
「今までに、その道中で襲われたことはあったのかい?」
ユキヒョウが聞くと、メリンダは少し言葉を選んでから答えた。
「昼間は、ほとんどないの。でも…ごく稀に、旅人や行商人が襲われたって話はあるわ。幸い、命を落とす人はいなかったけど……」
「つまり、荷物や路銀を失ったやつはいるってことだな」
確認するようにロッベンが言うと、メリンダは頷いた。
「そうね。やっぱり、放っておける話じゃないわ」
「先ずは南から北へ押し上げるように……なんて言ったか? あれ」
トーマスが言葉に詰まる。
「ローラー作戦だね」
ロイドが応じた。
「シマが言うには、横一列に広がって、前進しながら一帯を捜索していくのが基本だと。」
「なんてことはねえ。要は全員で横一列に並んで進むだけだ」
フレッドが肉を咀嚼しながら言った。
「懸念があるとすれば……私たちを脅威と認識して、獣たちが村に逃げ込む可能性があることね」
リズが言い、真面目な顔つきで食卓を見渡す。
「俺たちが出払ってる間は、村には固く門を閉じてもらうしかねえだろうな」
とシオンが言う。
「防護柵はかなり頑丈そうだし、そう簡単には破られねえだろう」
ベガが心強く言い添える。
「街道に出るまでの道に柵を設けられれば一番安全なんだけどね」
ユキヒョウが理想的な形を口にする。
「…そんなの無理でしょ。あの距離よ?」
メリンダはあきれたように笑うが、すぐにロッベンが意味ありげに言った。
「普通はな。だが、力技でどうにかしてしまうやつらがいるんだよ」
「俺たちの村みてえにな」
シオンがさらりと付け加える。
「……フレッド、それってホントにできるの?」
メリンダが身を乗り出して訊く。
「このメンバーだけだと……ちと、キツイな」
フレッドは器を置き、唸るように答えた。
「シャイン傭兵団の“シャイン隊”がいりゃ、わけねえんだけどなあ」
「今いるメンバーだけじゃ、日数もかかるしね……」
ノエルが付け加える。
その場にいた全員がそれぞれの皿の上を見つめながら黙り込む。
確かに、自分たちの力で“可能”なことは多い。
だが、“今すぐに”とは限らない。――それが現実だった。
「まあ、まずは午後の狩りでローラー作戦を実行するよ」
ロイドが静かに言い切ると、全員が小さく頷き、食器の音が止んだ。
すでに気持ちは、次なる狩りへと切り替わっていた。
山間に続く道――その両脇に、密に生い茂る雑木林と下草が覆い、ところどころで岩肌がむき出しになっている。
シュリ村方面からキョク村に向かう方向で、シャイン傭兵団は見事な連携でローラー作戦を開始した。
右側の斜面、緩やかに傾く尾根に沿って進むのはマリア、団員たちを挟んで真ん中には、リズ。
中心に立つリズは、超強弓を肩に掛け、団員の動きに常に気を配っていた。
その目にはわずかな緊張すら見えず、彼女の背筋は一直線に伸びていた。
言葉少なに、手信号だけで的確に指示を出し、隊列を調整していく。
右端にはロイドとユキヒョウ。
反対側、山道の左にはシオン、団員たちを挟んで左の中心にはノエル。
弓を引く指に力を込めながら、ノエルは隊の間隔が崩れないよう、慎重に一歩一歩進む。
冷静な彼女の指示はすべての団員に正確に伝わっており、静かな中にも緊張感が走っていた。
左端にはフレッドとトーマス。
山道を覆う木々の隙間から時折こぼれる陽光が、彼らの武具を淡く照らし出している。
鳥のさえずりが消え、山は静寂に包まれていた。
まるで、大型獣たちが、この気配を察して息を潜めているかのようだった。
一方その頃、キョク村――
宿を後にしたハイド、メリンダ、キョウカの三人は、静かな村の小道を歩いていた。
地面は踏み固められ、ところどころに畑が広がる。
昼下がりの陽光が降り注ぐ。
「さ、ついてきてハイド君。今日は現実を見せてあげるわよ」
メリンダはいつになく真剣な表情で言うと、足早に歩き出す。
「げ、現実……ですか?」
思わず後ずさりそうになるハイドだったが、すぐにキョウカが背中を押す。
「今の君には、きっと必要な時間よ。ちゃんと見ておきなさい」
キョウカの言葉は柔らかいが、背筋にピンと緊張が走る。
三人が最初に向かったのは、村の東端――
そこにはかつて大型獣に襲われた畑があった。
今では、野菜が元気に育っているが、よく見ると柵の一部が真新しい。
「ここ、去年の秋に熊に荒らされた場所よ」
メリンダが指差した。
「え…この辺りで?」
ハイドが驚くと、彼女は頷き、静かに話す。
「この柵を越えて、熊が侵入したの。作物は全滅、住人は畑を守ろうとして片脚を……」
「脚を……失ったんですか?」
ハイドの声は震えていた。
「そう。家族を守るために、何年も耕してきた畑を守るために。――それが、現実よ」
ハイドは黙ってその畑を見つめた。
さっきまで自分が「可哀想だ」と思っていた熊が、この村でどんな存在か、少しずつ理解し始めていた。
「もう一つ、見せたいものがあるの」
メリンダは言い、今度は村の西側に向かって歩き出した。
静かに後に続くハイドの背中に、キョウカがそっと声をかける。
「感じて、受け止めるのが大事よ。知識よりも、体験の方が深く刺さるものだから」
午後の陽光の下、ハイドは少しずつ「覚悟」を学んでいくのだった。




