狩猟
朝霧がうっすらと漂うキョク村の大地。
夜明けとともに、シャイン傭兵団は宿屋「山鷲亭」から整然と隊列を組んで出発した。
金属と革の擦れる音、背中に背負った槍や弓のきしむ音が、まだ静かな村にわずかな緊張を孕ませる。
皆がそれぞれの武装に身を包み、重さも冷たさも馴染んだ装備が、これから向かう山での実戦を予感させていた。
その一団の中で、やや小柄な若者の肩がわずかに震えていた。ハイドだ。
初めての狩猟、初めての武装、初めての野営ではない行動。
首元の毛皮がこすれるたびに、彼の喉は乾いていく。
そんなハイドの様子を見て、隊列の中ほどからひょいと姿を現したのはフレッドだった。
「よお、ハイド。……ビビってるか?」
軽く笑いながら、肩を叩くように背中を押す。
「しょ、正直言って……ちょっと怖いかも、です」
ハイドは少し顔を伏せながら、正直にそう答えた。
「素直なのはいいことだ。でもな、あまり緊張するな。身体が動かなくなるし、体力も思った以上に持ってかれるぞ」
フレッドの声には、からかいでも嘲りでもない、どこか兄のような温かさがあった。
「不安になったら周りを見ろ。ここにいる奴らはな、幾度も戦場を潜り抜けてきた猛者ばっかりだ。お前の身体に傷一つ、つかねえように立ち回る。お前はただ、気楽についていけばいい」
その言葉に、ハイドはぎゅっと口を結び、こくんと頷いた。
「は、はい……ありがとうございます、フレッドさん!」
思い切って返した声は、少しだけ震えていたが、確かに彼の中で何かが芽吹いていた。
すぐ後ろを歩いていたユキヒョウがふと声をかける。
「防具もちゃんとしてるね」
ハイドの首元には、分厚い毛皮がふわりと巻かれている。
それは昨夜、リズが徹夜で縫い上げてくれたものだった。
彼女らしい丁寧な縫い目と、内側には小さくイニシャルが刺繍されている。
「この辺の狼や熊なんてな、そこらの犬っころと変わらねえ」
フレッドがそう言って笑うと、前後にいた団員たちが小さく吹き出しそうになる。
(お前らにとってはな)――と、心の中で突っ込みながらも、誰もそれを口にはしなかった。
ハイドを気遣っての言葉であることを、皆、ちゃんとわかっていた。
やがて、木製の門が見えてきた。
朝日に照らされ、静かにそびえるその構造物の前にはすでに人影が立っていた。
「ちょっと遅いわよ!」
そう言って両手を腰に当てて仁王立ちしていたのは、メリンダだった。
――フレッドが眉をひそめた。
「……何やってんだお前。弓まで持って?」
門のそばに立つメリンダが、堂々とした姿で弓を肩に提げている腰には小さな矢筒。
革のジャケットに手袋、足元はブーツに履き替えられており、まるでこれから山に入る猟師そのものだった。
「もちろん決まってるでしょ? 私も付いていくのよ」
メリンダはきっぱりとした口調で言い切った。
遊び半分ではない――その瞳には確かな覚悟が宿っていた。
フレッドは一瞬たじろぎながらも、目を細め、低い声で一言。
「帰れ」
短く、鋭い命令だった。
冗談ではない、これは任務だ――その言葉に込められた重みは、メリンダにも届いたはずだった。
だが彼女も引かない。
「いやよ」
むしろ一歩前に出た。
互いの視線がぶつかり合い、その場の空気がぴんと張り詰める。
「メリンダ、これは遊びじゃないのよ」
ノエルが優しくも強い声で諭すように言った。
「もちろんわかってるわ。私だって、覚悟を持ってここにきてる」
そう言いながら、メリンダは弓を構え、瞬時に矢を一本抜いて番えた。
「……門の右の支柱!」
指示と同時に、門番が慌てて横に跳ね退いた。
ヒュン――!
矢が風を裂いて飛び、言葉通り、門の右支柱の真ん中に吸い込まれるように突き刺さった。
「おおおっ……!」
門番たちが驚きの声をあげる中、ベガが腕を組みながらつぶやく。
「ほぉ……お見事。動かねぇ的なら悪くねえな」
「メリンダ、実戦経験は?」
リズが確認するように尋ねる。
メリンダは少し口元を引き締め、だが目は逸らさず答えた。
「……初めてよ」
瞬間、隊の視線が一斉にロイドへと集まった。
リズもノエルも、フレッドすらロイドの返答を待っている。
「……何を言っても退く気はなさそうだなあ」
肩をすくめるロイド。
「わかりました、メリンダさん。午前中だけですよ」
メリンダは軽く微笑み、頷いた。
「ええ、わかったわ。今日は午前中だけにしとく」
マリアが静かに言う。
「実戦は、想像以上に体力を消耗するわ。賢明な判断ね」
「じゃあ……フレッド、よろしく頼むよ」
そうロイドに言われて、フレッドは深くため息をついた。
「……ちっ。しょうがねえなあ」
彼の言葉は呆れながらも、どこか諦めと優しさを孕んでいた。
いつもの調子だが、仲間を危険から守るその覚悟と責任は、口数の少ないその背中に滲んでいた。
こうして、シャイン傭兵団の狩猟――新たな同行者を加えて、山へと足を踏み入れることとなった。朝の澄んだ空気を切るように、ロイドたちは静かに山へと踏み入った。
キョク村の東に広がる山林地帯。
太陽は昇り始め、木々の隙間からまだ柔らかい光が斜めに差し込んでいる。
ロイド隊は左回り、フレッド隊は右回り――こうして村を挟むように分かれて進む。
ロイドが先頭に立ち、斥候として前方を警戒する。
その五十メートル後方を、ユキヒョウが追随する。
獣のように気配を殺し、足元の枝一本も踏まない。
さらにその後方、隊全体を率いるリズが、落ち着いた歩調で進軍の指示を出していた。
「焦らないで。やるべきことだけをこなせばいいわ」
そう言ったリズの声は静かで、しかし凛としていた。
ハイドの隣にはシオンがついており、彼の背負う荷物のバランスを整えてやったり、小声で周囲の状況を説明していた。
山に入って三十分――
ロイドが背をかがめ、片膝をついた。
前方、およそ百メートル先。
木立の合間に、四頭の鹿が身を寄せ合うようにして立っている。
その瞬間、彼の右手が素早く動いた。
『三方向から迫れ』『自分は奥に回る』ハンドサイン。
ユキヒョウがすぐさま『了解』のサインを返し、ほとんど音を立てずに後方へ移動する。
木々の陰に溶け込むように進みながら、リズの隊列の前に姿を現す。
ユキヒョウの指示を受けたリズは、手早く指示を出す。
『右に四人、ユキヒョウと共に』
『左に四人、シオンと共に』
『残りの二人とハイドは、私の三十メートル後ろに』
団員たちがそれぞれ『了解』とサインを返し、リズの指示通りに静かに散開する。
その手際の良さ、迷いのなさ――一糸乱れぬ動きに、思わずハイドも息をのむ。
隣の団員が小声で言った。
「大丈夫だ。リズ嬢についていけば、何の心配もいらないさ」
隊は音を殺して、獲物を囲むように三方から接近していく。
地面の落ち葉一枚すら踏まずに進むその姿は、まるで森に棲む影のよう。
――風が止む。
それを合図にしたかのように、リズが弓を引いた。
巨大な弓に張られた弦がきしむ。
そして――バスン!
空気を裂く一閃。放たれた矢は唸りをあげ、鹿の頭蓋を貫通した。
獲物が一頭、その場で崩れ落ちる。
驚いた残りの三頭が一斉に跳ね上がり、走り出す。
ロイドとユキヒョウたちの間を抜けるように走り出す。ロイドとユキヒョウが即座に反応する。
茂みを蹴って飛び出したロイドの姿が、陽光の中に鋭く浮かび上がった。
両手に握られたグレートソードが唸りを上げ、薙ぎ払うように振るわれる。
風を裂いた一閃が、逃げようとした鹿の喉元を深々と断ち、鮮血が弧を描いて舞った。
わずかに遅れて、ユキヒョウが鹿の背後をとる。
無駄のない動きで腰を沈め、バスタードソードを一突き。
鋭い刃が首筋を貫き、鹿は声もなく崩れ落ちた。
残る一頭が暴れながら森を突き進もうとする。
だがその前に、盾を構えた団員二人が飛び出して進路を塞いだ。
「止めろッ!!」
刹那、怒声と共に突進する鹿の前脚が盾に衝突する。
その一瞬を逃さず、槍を持った団員が脇腹に一突き。
苦鳴を上げて膝を折ったところへ、後方からもう一人――剣を手に握った団員が飛び込み、首筋へ鋭く一閃。
静寂が戻った。
四頭の鹿すべてが、見事に仕留められた。
リズは軽く頷くと、手早く状態を確認するよう指示を出した。
団員たちは手慣れた動きでそれに応じる。
ハイドはまだ息を飲んだまま立ち尽くしていた。
だが、その顔には恐れよりも、驚きと興奮が宿っていた。
目の前で展開された、無駄のない連携、洗練された動き――それは、まさに「戦う者たち」の姿だった。
リズがこちらを向いて、少しだけ微笑んだ。
「ほら、大丈夫だったでしょ?」
ハイドは、思わず大きく頷いた。
朝の柔らかな陽光が木々の間を縫って差し込む山道に、シャイン傭兵団フレッド隊が静かに足を踏み入れた。
先頭に立っていたフレッドがふと立ち止まり、「ちと、見てくるわ」と一言。
身を翻すと、音もなく木々の奥へと消えていった。
「了解だ」とトーマスが軽く頷き、隊列の先頭に立ち直す。
「まあ、焦らずゆっくり進もうぜ」と気を緩めるように言うと、他の団員たちもそれに従って歩を進めた。
すると五分もしないうちに、山中に不穏な気配が走る。
ガサリ、と何かを引きずる音。
続いて、「ピッ!ピッ!」という鋭い指笛が二度。
トーマスたちが耳を澄ますと、現れたのはフレッド。
肩で息もつかず、一本の縄で大きな猪を引きずっていた。
「何だよ、もう仕留めてきたのかよ」と半ば呆れた声を漏らすトーマスに、「まあな。血抜き頼む」と淡々と返すフレッド。
そのまままた音も立てずに山奥へと走り去っていった。
「全くアイツは…」と苦笑しながらも、トーマスとベガが手際よく猪の血抜きに取りかかる。
ナイフの切っ先が動脈を確実にとらえ、深紅の血がしたたり落ちてゆく。
「この大きさなら、抜けきるまで一時間くらいかかりそうね」
ノエルが静かに言い、木の根元に腰を下ろす。
「じゃあ、ちょっと休憩にするか」
トーマスが提案すると、マリアがすぐさまメリンダに話しかけた。
「メリンダって呼んでもいい?」
「ええ、いいわよ。」
「私のこともマリアって呼んで。メリンダ、水筒持ってきてる?」
「あっ…忘れた」
「いいわ、私のを分けてあげる」
差し出された水筒を、メリンダは少し照れくさそうに受け取った。
一方、猪を囲む男たちの一人、ロッベンが呟く。
「トーマス、血抜きが終わったら村に持って行った方がいいんじゃねえか?」
「ここからならすぐだしな」とベガ。
「んじゃそうするか。宿屋に持ち込めばいいのか?」と団員が聞く。
「ああ、そうだな」
トーマスが頷く。
「了解だ、俺たちが持っていくぜ」
数人が猪の搬送を引き受ける。
そのとき、トーマスが眉をひそめて周囲に目を走らせた。
「…何か近づいてきてるな」
「そうね…警戒」ノエルの視線も鋭くなる。
団員たちが瞬時に身構え、武器に手をかける。
音もなく茂みを抜けて現れたのは、一頭の灰色の狼だった。
鼻を高く上げ、猪の血の匂いを追ってきたようだ。
「一頭だけみてえだな…ノエル」と静かに呟くトーマス。
既にノエルは超強弓に矢を番え、冷静に照準を定めていた。
弦が張り詰める音と共に、矢が閃光のように放たれる。
次の瞬間、狼の眉間を寸分の狂いもなく貫き、その体が地面に崩れ落ちた。
「…絶命確認」マリアが冷静に言い放ち、数人の団員が駆け寄って血抜きの準備を始めた。
空気は静かだが、緊張感と確かな技術が辺りを支配していた。
こうして、シャイン傭兵団の狩猟初日が、静かに確実に幕を開けていた。




