ハイドの旅立ち
シュリ村での二日目は、昨日の祭りの賑わいをどこかに残しながらも、ゆるやかで温かな時間が流れていた。
朝の空気は澄みきっており、軒先には風に揺れる洗濯物がはためいていた。
リズの後を、ミシェルがついて回る姿は、まるで小さな影法師のようだった。
食事の支度では野菜を洗うリズの隣で、ミシェルも小さな手で葉をちぎり、鍋をのぞき込んで真似をする。
洗濯物を干す際には、重たい布を一生懸命引きずり、掃除のときにはほうきを逆に持って叱られて、でも嬉しそうに笑っていた。
「ミシェルも、いつもこうして手伝ってくれると助かるんだけどねぇ」
セリアが冗談めかして苦笑する。
「ふふ……お義母様、それは私も同じ気持ちです」
リズが微笑み、二人は目を合わせて笑った。
その合間には、リズが歌や踊りを優しく教えていた。
昨夜の宴で覚えた振り付けを、ミシェルは何度も何度も繰り返し、リズの動きを真似しては「できた?」と聞いてくる。
「ミシェルちゃん、これ、着てみる?」
そう言ってリズが取り出したのは、自分が昔着ていたワンピースだった。
「えっ……ええっ!? リズお姉ちゃんの服っ? ミシェルのにしてくれるの!?」
「うん、少し手を入れればぴったりになるわ。仕立ててあげる」
ミシェルは飛び上がって「やったーっ!」と叫び、両手を振ってその場をくるくる回った。
その午後、セリア、リズ、ミシェルの三人は座敷に腰を下ろし、針と糸を手に並んで裁縫を楽しんでいた。
時折、お茶をすすりながら、世間話に花が咲く。
「お義母様の縫い目、すごく綺麗ですね」
「リズさんの手の早さには敵わないわ。」
「ミシェルちゃん、そこは玉結びじゃなくて、もう一回くるっとね」
縫う音と笑い声が、穏やかに部屋を満たしていた。
一方その頃、ロイドとハイドは朝一番から父・ダグラスの仕事を手伝っていた。
まずは家の裏手にある畑の手入れ。
土をならし、害虫の点検、水路の確認。朝露を含んだ土が鍬に絡み、鍛えた体でもじんわり汗をにじませる作業だった。
作業を終えると、その足で村全体の畑を巡り、耕作状況を確認した。
作付けの偏り、土壌の状態、収穫予定の見通し。
さらに家々の様子、家畜の数、道具の破損状況、薬草の在庫、村の収支と出納帳の確認まで――。
「じゃあ、これを基に必要な物のリストを作ろう」
ロイドは迷いなく用紙にさらさらと書き込み始める。
その手の動きは一分の無駄もなく、まるで機械のようだった。
「す……すごいな……! そんなに早く計算できるのか?」
ダグラスが目を見張る。
「に、兄さん……これ、ホントに全部あってるの……?」
隣で見ていたハイドも半信半疑の声を上げた。
「うん。一度見直したけど、間違いはなかったよ」
ロイドはさらりと言いながらページをめくる。
「この計算式は、シマに教わったんだ。僕たちはこの式を使って物資の管理や支出の計算をしてる。チョウコ村では子どもたち、大人たちにも教えてるよ。ハイドにも教えるし、ぜひ覚えてもらいたいな」
「わ、わかった……!」
ハイドは真剣なまなざしで兄を見つめていた。
兄への憧れが、また少し現実の尊敬へと近づいていた。
ダグラスとその息子たちは、村の中央にある一軒きりの商店を訪れていた。
看板には「ルミネ屋」と手書きで記され、軒先には干した薬草と古びた瓶がずらりと並んでいる。
「おや、村長じゃないの! 昨夜は楽しかったねえ~」
入口の戸を開けた瞬間、ルミネおばさんが店の奥から顔を出し、満面の笑みで迎えた。
「ダンスなんて、久しぶりに見たよ。あんたもセリアちゃんと踊ったりしてさ」
「ハハハ……たまにはいいでしょう?」
ダグラスは少し照れたように頭をかいた。
「そうだねえ、たまにはね……ロイド、来年も帰ってきてくれるんだろ?」
奥にいたルミネおばさんが商品棚から顔を出し、やさしくロイドに声をかける。
「アンタが教えてくれたジャガイモ、本当に助かってるよ。もう村の主食だよ」
「ルミネおばさん、ありがとうございます。お役に立てて嬉しいです」
ダグラスはそのタイミングで一枚の用紙を差し出した。
「これは、村の共同財産として必要な物をリストアップしたものです。ご確認いただけますか」
「ふむふむ……なるほど」
ルミネは細かく目を走らせ、帳簿と突き合わせるようにしながら頷いた。
「そしたら、アタシの店では調味料を多めに仕入れておくといいね。塩、胡椒、砂糖、油、干し香草。あとは布生地も必要そうだね」
「そうですなあ……嗜好品についてはどうしますか?」とダグラスが尋ねる。
「お酒は欠かせないねえ。煙草は最近あんまりだけど、小麦の備蓄はあるのかい?」
「はい。備蓄分は現時点で足りていますが、不作を見越してもう少し……」
「だったらお酒を少し多めに仕入れておくよ。災害の時なんか、気が滅入るもんさ。酒一つで人の心が和らぐってこともあるしね」
「……いつもより“少し多めに”でお願いできますか。贅沢でなく、備えとして」
ダグラスの言葉にルミネは静かに頷いた。
「そうさね、それくらい慎重にしといたほうがいい。いざという時のために、ってね。アタシの店は儲けよりも、村人の暮らしを守る方が大事なんだよ。じゃ、小麦も少し仕入れとくわ」
「助かります」
ダグラスが丁寧に頭を下げると、ロイドも続けて頭を下げた。
そのとき、ロイドがふと思い出したように口を開いた。
「……ルミネおばさん。明日から、半年間だけど……ハイドは僕たちと一緒に行動することになったんです」
「へえ……そりゃまた、どうしてだい?」
ルミネが意外そうに目を丸くした。
「……自分探し、というか……何かを得るため、かな。将来この村のために自分が何ができるかを見つけたいって」
ハイドが自分の言葉で答えた。
まだ声は少し震えていたが、目だけは真っ直ぐだった。
ルミネはしばらくハイドを見つめて、やがてふっと目を細めた。
「アタシは、あんたはよくやってると思うけどねぇ。子どもたちをまとめてるじゃないか。あれだけでも、十分に立派なことさ」
「まあ、可愛い子には旅をさせよ――って言いますからな」
ダグラスが苦笑いしながら言う。
「短い期間ですが、何かを得て、戻ってきてくれればと思いまして」
「ふふ……頼れる兄もついてるとは言え、気をつけて行ってくるんだよ、ハイド」
ルミネは棚の奥から小さな革の袋を取り出して、そっとハイドの手に握らせた。
「お守りだよ。」
「……ありがとう、ルミネおばさん」
店の戸が開くと、涼しい風が店内に流れ込んできた。
それはまるで、ハイドの新しい旅立ちの幕開けを祝うような風だった。
朝露がまだ地面に残る頃、シュリ村の入り口には人だかりができていた。
木々の間から差し込む陽光が、馬車の幌を照らし、荷台に積まれた荷物の一つ一つが旅の始まりを告げていた。
「……ロイド、リズさん、他の方々の言うことをちゃんと聞くんだぞ」
ダグラスの声は、いつもより少しだけ低く響いていた。
肩に手を置かれたハイドは小さく頷きながら「うん……分かってる」と返す。
その横で、セリアがハイドをそっと抱きしめた。
「身体に気を付けてね……絶対に、無事に帰ってくるのよ……」
そして顔を上げ、ロイドとリズに向き直る。
「ロイド……リズさん……あの子のこと、お願いね……」
「お義母様、ご安心ください。責任を持ってお守りします」
リズが微笑み、ロイドも静かに頷いた。
「家族として、しっかり面倒を見るよ」
そのやり取りの横から、小さな声が響いた。
「リズお姉ちゃん! また歌と踊り、教えてね!」
ミシェルが駆け寄ってリズに抱きつく。
「もちろん。また一緒に踊りましょうね」
「お兄ちゃん! お土産、買ってきてね!……服がいいわ!」
ミシェルの一言に、村人たちから笑いが起こった。
「…考えておくよ」とハイドが苦笑しながら頭を撫でる。
そんな見送りの輪から、あちこちから声が飛び交う。
「ロイドー! 来年も帰って来いよ! ってか、いつでもな!」
「また酒を酌み交わそうぜ! 今度は俺が振る舞うからよ!」
「シャイン傭兵団の皆さん、また一緒に飲みましょうねー!」
「ユキヒョウさん! 私のこと、忘れないでね……っ!」
「フレッドが……今、名残惜しそうに私のこと見たわ……!」
「なに言ってんのよ、私のこと見てたんだから!」
「どっちでもいいけど、また来たら飲もうねー!」
村のあちこちから名残惜しげな声が次々に飛び、別れの空気の中に、笑いや熱気が混ざり合う。
「ロイドー! 道中気をつけてなー!」
「ハイド! 頑張ってこいよー!」
村人たちの声援が、遠ざかる馬車の後ろ姿に追い風のように続いていた。
旅立つ一行の中で、ロイドはふと振り返る。
見慣れた村の屋根、揺れる木々、人々の笑顔。
そのすべてを胸に刻み、再び前を向いた。
――シュリ村を出発したシャイン傭兵団。
夕刻、日が傾き始める頃。
小高い丘の木立の影に、シャイン傭兵団の一行は今夜の野営地を定めていた。
「……まずはテントの設営からだな。ハイド、手伝えるか?」
「う、うん……!」
初めての野営。
ハイドの手は、やや震えていた。
何をするにも勝手がわからず、どこに立っていればいいかさえ不安げだ。
そんな様子を察した団員たちは、一つ一つ丁寧に指導していった。
「ポールはこう差し込む。ほら、手で抑えながら紐を引いて――そうそう、上手いぞ」
「ペグは斜めに打ち込むんだ。垂直じゃ風で抜けるからな」
「焚き火の場所は、風向きと草の湿り気を見て決めるんだ。煙がこっちに来るだろ?」
「じゃ、次は火起こしな。こうして火打ち石を……おっ、火花出たな、もう一回」
テントが張られていく過程は、ハイドにとってまさに未知の連続だった。
だが、団員たちの指導は一様に穏やかで、威圧感は一切ない。
「普通はな、もっと手間取るもんなんだ。テントを張るだけで日が暮れることもある」
ロッベンがぼやきながら、それでも手は休めない。
「でも、うちは違う。これは“組み立て式テント”ってやつでな。シャイン傭兵団だけが持ってる代物だ」
シオンが誇らしげに胸を張った。
「大陸中探してもどこにもない。いずれ売りに出す予定だが、それまでは内緒ってことで」
「は、はい!」
ハイドは緊張で声が上ずった。
「そんなに緊張すんなって」
横から、ベガがくしゃっと笑いながら肩を叩いた。
「俺もな、ついこの間に入団したばかりなんだ。仮だけどな。仲良くしようぜ、ハイド」
「お前ら、ハイドをいじめてんじゃねえだろうな?」
その声とともに、後方からフレッドが現れる。
腕を組み、鋭い目つきで一同を見回す。
「お、おいフレッド、そんな恐ろしいことできる訳ねえだろ!」
「殺されるわ、マジで……」
とロッベンとシオンが揃って頭を振る。
「ははは……まあな、誰がヤバイっていうより、うちの女性陣が特にヤベえぞ」
フレッドが冗談めかして笑いながら言う。
「……いや、お前もだろ」
ロッベンがすかさず返すと、皆が一瞬間を置いてから爆笑した。
その横で、ハイドも思わず笑っていた。
初めての野営、初めての共同作業。緊張は残っている。
だが、そこに確かにあったのは、温かな輪の中に自分が迎え入れられているという感覚だった。
まだ始まったばかりの旅。それでも、ハイドの胸の奥に灯るものは、間違いなく希望だった。




