出自
部屋に重く垂れ込めていた沈黙の中で、フレッドがゆっくりと椅子の背にもたれかかる。
「……声のトーン、瞳孔の揺れ、目線の動き……」
僅かに息を吐いて、視線を逸らさずに言った。
「……噓は吐いてねえみたいだな」
ベガの額には、じんわりと浮かんだ汗がひとすじ流れている。
それでも目は、真正面を見据えたまま逸らさなかった。
その静かな姿勢に、トーマスがやや表情を緩める。
「……お前、一人だけなのか? 他に仲間はいねえのか?」
問われたベガは、一度だけ頷く。
「俺ひとりだけだ。情報屋ってのは、案外狭い世界でな。横の繋がりがある。――でも、組むことは少ねえ。信用より競り合いが先に立つ職業だ」
そして、ようやく自らの名を口にした。
「それと……俺の名前は“ベガ”。ベガって呼んでくれ」
その声に、ロイドが静かに頷く。そして、一同を見回すようにして、口を開いた。
「……ベガさん。あなたを仲間に入れるかどうかを決めるのは、団長のシマだ」
その名を出したとき、空気が微かに動く。
この場にいない者の名が、ここに確かな重さで存在していた。
「これから言うことは、僕の見解だよ」
ロイドは背筋を伸ばし、視線をベガに定めた。
目の奥にあるのは、団員を預かる者の、迷いなき責任感。
「正直に言って……情報を扱える人材は、喉から手が出るほど欲しいと思っている」
その一言に、ベガの眉が僅かに動く。ロイドは構わず続ける。
「ベガさんが裏切らない集団を望んでいるように、僕たちもまた――裏切らない人間であることを、祈っている…強さも、信用も、時間をかけて確かめるものだと思う」
ロイドの声には、迷いはなかった。
その静けさが、かえって力強く響いた。
しばらく沈黙が流れたのち、ベガが少しだけ口角を上げた。
「……つまり、“これからの働き次第”ってことで……ついて行ってもいいってことか?」
その問いに、即座にトーマスが一歩踏み出し、声を低くして言った。
「妙な真似はするなよ? おとなしく、ついて来いよ?」
その言葉に込められたのは、警戒心と、だが同時に――一縷の信頼の予感。
続けてフレッドが、ぐいと顎をしゃくる。
「責任者はロイドだ。次いで、俺たちがそれぞれ面倒を見る。指示には――従えよ?」
その言い回しは粗雑だが、温度がある。
仲間として受け入れることを、遠回しに示していた。
ベガは静かに、だがはっきりと頷いた。
「了解だ。とりあえずは……仮の入団ってことだな」
彼の顔には、安堵と、それ以上の決意がにじんでいた。
仮とはいえ、歴戦の猛者たちに囲まれ、彼はついに一歩を踏み出した。
「シマとメグの出自、出身について――聞かせてくれるかしら?」
ノエルが静かに口を開いた。
声は穏やかだったが、その奥には確かな意志があった。
団員たちの目が一斉に、向かいのベガに注がれる。
ベガはその圧を正面から受け止め、少しだけ背を正す。
「……あまり大きな声では言えん。……驚くなよ?」
そう前置きしたその声音は、冗談めかすことなく――真に慎重なものだった。
その瞬間、ユキヒョウが静かに立ち上がり、周囲の団員たちに目配せを送る。
「集まってくれ。ロイドを中心に、輪になる」
無言のまま、皆が自然と席を移し始めた。
椅子の擦れる音だけが、静かに部屋に響く。
見計らったようにロイドが小さく頷き、合図を送る。
ベガは一息だけ深く吸い込み――そして、語り始めた。
「……カルバド帝国。その東部、港湾都市を有する『ロートリンゲン領』。かつてそこを治めていたのが――ユーマ・フォン・ロートリンゲン伯爵。そして、その息子と娘が……団長とその妹だ」
一拍置いて、全員の視線が一斉に集まる。
空気が変わった。凍てつくような沈黙がその場を包む。
ノエルの手がわずかに動く。
フレッドの眉がぴくりと跳ね、マリアの表情が静かに固まる。
「今でこそ“反逆の貴族”と呼ばれてる……だが、俺が調べた限り、ユーマ伯とその奥方――クラリッサ・フォン・ロートリンゲンの評判は、むしろ真逆だった」
ベガは淡々と語る。しかしその語り口の端々には、対象への敬意と複雑な思いが滲んでいた。
「夫婦仲は周囲から揶揄われるほど良かったそうだ。“惚気けすぎ”って笑われるほどだったらしい。――奥方は元は平民出身。美しい人だったそうだ」
ユキヒョウが微かに頷く。マリアが息を呑む。
「しかも……伯爵の方から熱烈にアプローチしたそうだ。何度断られても諦めず、ついには家臣にも呆れられながら――説得して迎えた。……それくらい、情の深い人だったらしい」
言葉が続くごとに、団員たちの表情が徐々に変わっていく。
「武の方では剣の達人だった。ただの剣じゃない。彼は……“カタナ”と呼ばれる武器を扱っていたらしい。その抜き打ちは、まるで見えなかったと、ある記録にはある」
「カタナ……」とユキヒョウが小声で繰り返す。
「経済にも明るく、政治手腕も優れていた。独自の貿易船団を持っていて、ロートリンゲン領の物資を周辺の港街、国家とも直接やり取りしてたらしい。利益の分配も公平で……領民にも分け隔てなく接していた……帝国貴族としては異例中の異例だ」
ノエルが、静かに目を伏せた。
その横でロイドは表情を変えず、じっとベガを見つめ続けていた。
「そして何より、帝国では“道具”として扱われがちな奴隷たち――彼は、彼らを“人として扱った”。食事を共にし、酒を酌み交わし、名前を呼び、誕生日には小さな贈り物もしたと……」
しん……と、部屋が静まり返る。
それはただの情報ではなかった。
そこにあったのは、確かに“生きた人間”の気配だった。
「そんな人間が……なぜ“反逆者”と呼ばれたのか。……それは、俺にもまだ調べ切れていない」
ベガは最後にそう締めくくり、そっと目を伏せた。
しばらくの間、誰一人、声を発さなかった。
静けさのなかで、それぞれが胸中に思いを巡らせていた。
「……疎まれていたんじゃないかい?」
ぽつりと漏らしたユキヒョウの言葉が、部屋の空気にじわりと沁み込む。
「なんか、そんな気がするよ」
その瞳はいつになく静かで、まるで過去の自分を重ねるように細められていた。
「……あなたも、ゼルヴァリアでは異端者扱いだったものね」
隣でマリアが優しく呟く。
「独自の貿易船団を持って、幅広く交易もしていて……きっと領地も潤ってたんじゃない?」
「可能性は十分にあるな」
トーマスが頷きながら言葉を継ぐ。
「中央からしたら目障りな領主だったろうさ。貴族として型破りすぎる」
そのとき、リズが、静かに訊ねた。
「……もう、生きていないのね……?」
ベガの顔に、一瞬だけ影が差す。
「……戦死したそうだ」
彼の声は沈んでいた。
「凄まじい戦いだったと聞く。帝国正規軍と激突して――家臣一同、領軍、領民、そして奴隷たちまでもが……死に物狂いで戦った。――それでも……堰を切るように、すべてが終わった」
沈黙が重たく落ちる。
誰もが想像した。
絶望的な戦場で、シマとメグの父母が命を散らしたその日を。
だが、フレッドはなお問いを重ねた。
「……で、その“伯爵”なんとやらが、シマとメグの両親だって確証はあるのか?」
その問いに、ベガは無言で皮の旅袋を解いた。
ゆっくりと、慎重に、布がほどかれていく。
まるで神聖なものを扱うかのように、ベガの指はどこまでも丁寧だった。
慎重な手つきで中から取り出されたのは、手のひらサイズの、薄汚れた額縁だった。
時間の重みを纏ったその外観は、旅と年月を潜り抜けてきた証のようだった。
最後の布を取り除いたその瞬間――色褪せた一枚の肖像画
描かれているのは、一組の男女。
長身の男は鋼のような眼差しを持ちながらも、口元には優しげな笑みを浮かべていた。
隣の女性は柔らかな栗毛の髪を揺らし、頬を寄せるようにして微笑んでいる。
その瞳にはどこか強さと温かさが同居しており、並んだ二人の姿からは――絵を超えて伝わってくる、確かな絆があった。
ベガは、それを静かにロイドへ差し出した。
ロイドの目が見開かれる。
「……!!っ……シマ……?! ……メグ……?」
声が震えた。
「……っ! 瓜二つじゃねえか…!」
フレッドが覗き込み、思わず声を上げる。
皆が顔を寄せるようにして、その肖像を覗き込む。
リズが、震える声で訊ねた。
「……どこで、これを手に入れたの?」
ベガは、かすかに息をつきながら答える。
「……『港湾都市ブリューク領』――昔の名は、港湾都市ロートリンゲン領だ」
ベガは、静かに語り出す。
「――ユーマ・フォン・ロートリンゲンと、その妻クラリッサ・フォン・ロートリンゲン。……この肖像画は、俺が年老いた奴隷の男から受け取ったものだ」
声には敬意が滲んでいた。
「その男は、ブリューク領――かつてのロートリンゲン領の片隅でひっそりと暮らしていた。もう背中も曲がっていたし、歩くのもやっとだったが……この肖像だけは常に肌身離さず持っていた。寝る時も、食う時も、移動する時も、胸に抱いていた」
団員たちが固唾を呑んで聞き入る中、ベガは続ける。
「聞いたよ。“この人たちは、本当に素晴らしい主だった”と。“身分の壁を越えて、名前を呼んでくれた”と……俺がこの肖像に描かれた面差しは、どこかで見た気がすると――“この絵に描かれてる男女に、そっくりな奴を知っている”と言うと…“あの方たちの血を継ぐ者ならば、いつか戻って来るはずだ”……そう言って、譲ってくれた。俺みたいなよそ者にな。……そのときの手は、震えていた…」
ベガは視線を落とす。
その瞳に、微かに揺れるものがあった。
「俺はこれは……お前たちに託すべきものだと確信した」
ロイドの手に渡された肖像画。
そこには確かに――未来に繋がる、過去の光が刻まれていた。
部屋にいた誰もが、それが単なる証拠品などではないことを、
“人と人との記憶”そのものだということを、黙して理解していた。
静まり返った室内で――
誰もが、その絵の中の「真実」を前に、言葉を失っていた。
――シマとメグ。
シャイン傭兵団の核にして、誰よりも家族を守ろうとするあの二人の“始まり”に、ようやく触れられた気がした。
今しがた明かされた「肖像画の真実」を静かに受け止めていた。
その中で、ユキヒョウがふと、ベガに向かって尋ねる。
「……何故、帝国領に行ったんだい? 確証はあったのかい?」
その問いに、ベガは一つ鼻を鳴らしながら答えた。
「アンタらの団長には、一度だけ会ったことがある。……正確には、尾行しようとして、バレたんだが」
周囲の団員たちが驚いたように目を見開く。
ベガは肩をすくめ、苦笑を浮かべながら続けた。
「こっちの気配を完全に捉えて、背中で“わかってるぞ”と語るようだったな……あんな経験、後にも先にもない。あっ!ガタイの良い兄ちゃんにもバレたんだった…ま、それだけで十分に印象に残った。それに……」
ベガの目がわずかに細まる。
「……黒髪だった。混じりっけなしの、深い漆黒。あれは……この大陸じゃ珍しい。偶然目にした文献で、思い出した名があった――ユーマ・フォン・ロートリンゲン。彼もまた、純然たる黒髪を持っていたそうだ。肖像画にもはっきりと黒髪で描かれているしな……血筋を辿れば、遥か東方から来た異国の人間だという噂もある」
「……いわれてみればそうだなあ」
トーマスがぽつりと呟く。
「この大陸以外にも人が住んでる場所がある、なんて話……信じられねえがな」
ベガは苦笑しながら首を振る。
「結局のところ、俺はただの情報屋だ。足で集めた情報と、勘だけが頼りだ。……一発で引き当てちまったのは運が良かっただけだよ」
「……だがな」
トーマスが静かに言葉を継いだ。
「世界の広さを、まだ知らねえな。」
ロイドが頷く。
「僕たちはこの大陸“以外”から来た人を知ってるよ」
ベガの表情が強張る。
「……おいおい、何の冗談――……じゃねえのか?」
誰かが笑うかと思った。けれど、誰も笑わなかった。
彼らの瞳に、冗談を言う者の色はなかった。
ノエルが肩をすくめながら言った。
「まあ、実際に“そこ”へ行ったわけじゃないけどね」
「……それよりも」
リズが視線を向ける。
「出自のこと、シマとメグに話すの?」
一瞬、空気が凪いだ。
ロイドは静かに頷く。
「話すよ。……僕たちは“家族”じゃないか」
その言葉に、周囲の空気がゆっくりと温度を取り戻していく。
「出自や出身なんかよりも――もっと強い絆で、僕たちは結ばれている。過去がどうであろうと、これからの生き方は、僕たちで決める。……そうじゃないかい?」
「それな!」
フレッドが親指を立てて笑う。
「確かに」
ノエルがうなずく。
「だな!」
トーマスが拳を軽く打ち鳴らす。
「それがいいわ」
リズの声は柔らかく、どこか誇らしげだった。
灯の下に、静かに結ばれた絆の輪があった。
出自も血も超えた、魂の繋がり。
それこそが――シャイン傭兵団という“家族”の形だった。




