深淵の森から出てこれた?!
深淵の森を抜ける帰路は、行きとは異なる静けさに包まれていた。
湿った木の匂い、ざわめく枝葉、遠くで鳥が羽ばたく音――全てが森の息遣いだったが、今回はどこか穏やかに感じられる。
最大の理由は、途中で一度も狼や熊と出くわさなかったことだった。
もっとも、それも“ただの幸運”ではなかった。
一行は静かに前進していたが、突然、ノエルが足を止めた。
「……来てるわね」
彼女の瞳が鋭く細まり、背中の超強弓に手をかける。
二人の弓手が息を合わせるように矢をつがえると――「今……!」
ノエルの放った矢がひとつ、枝の上を滑空する鳥の翼を正確に貫いた。
直後、リズの矢が別の鳥の首を射抜く。
ふたつの影がバサッと地面に落ちる。
辺りに羽毛が舞い、鉄のような生臭い匂いが漂い始めた。
フレッドがすぐに駆け寄る。
鳥の喉を裂き、血を皮袋に受けると、すばやく周囲の木肌や草地にその血を塗り始めた。
「これで嗅覚のいい奴らも混乱するはずだ」
フレッドは手際よく、倒木や岩の陰、獣道の分岐点に血を撒いていく。
濃い匂いが風に乗り、広範囲に広がっていく。
「リズ、ノエル。こっちの枝道に足跡だけ残してくれ。あっちは迂回ルートに使う」
「了解」とリズが小さく頷き、足元の湿った土にわざと足跡を刻む。
ノエルも同様に、木の幹に薄く触れて匂いを残す。
「痕跡の拡散、完了」とノエルが報告した。
フレッドは満足げに頷いた。
「これで奴らも、何がどこにいるのかわかんなくなる。俺たちは裏手から抜ける。余計な戦闘はなしだ」
鳥の死骸は一部をそのまま残し、一部は持ち帰るためにリズが素早く処理を進める。残った内臓や羽は、意図的に別方向へと引きずっていき、痕跡を分散させる。
「……よし、撤収だ。しばらくは追ってこられねえ」
全ての準備が整うと、一行は再び静かに移動を始めた。
森に潜む捕食者たちが惑わされ、血と痕跡の錯綜に困惑していた。
嗅覚の優れた狼も、匂いを辿れば辿るほど道が絡まり、やがては他の獣と争う始末。
熊に至っては、血の臭いを警戒し、自ら進路を変えた。
ユキヒョウとマリアは、熟睡することこそ叶わなかったが、緊張の質が明らかに行きとは異なっていた。
――彼らがいる限り、自分たちは簡単には死なない。
そんな安心感が、目を閉じても襲ってこなかった恐怖を薄らがせていた。
(ありがとう、フレッド……)
(本当に、感謝してる……)
声に出すことはなかったが、ユキヒョウとマリアは心の中で何度もその名を唱えた。
そして二日目の午後、森を抜けると、急に眩しい光が彼らを包み込んだ。
木々の密度が一気に薄れ、視界が開けた。草の香り、虫の声、空の青さ――命の感触が身体に満ちる。
「……生きて出てこれた……!」
マリアがぽつりと呟いた。
涙こそ見せなかったが、その声には全てが込められていた。
「……ふぅ~……陽射しが……眩しい……」
ユキヒョウも肩の力を抜き、陽光を浴びながら目を細めた。
目の下に残るわずかな隈は、長く張り詰めていた緊張の証だった。
「野営地に着いたら、ユキヒョウさんとマリアさんは見張りに出なくていいですからね。ゆっくり休んでください」
ロイドの優しい声に、ユキヒョウが小さく会釈する。
「……すまない。お言葉に甘えさせてもらう」
「助かるわ……本当に」
マリアもまた、素直にその言葉を受け取った。
一行はそのまま、ノーレム街へと続く街道を歩き出した。
行きよりも足取りは軽く、空気は明るい。
森を抜けた開放感が皆を包み込んでいた。
とりわけユキヒョウとマリアは、妙にテンションが高かった。
「マリア、ご機嫌ね」
ノエルが笑って声をかける。
「そりゃあそうよ! 深淵の森の奥深くまで行って、帰ってこれただけでも偉業よ! これ、誇っていいわよ。ほんとに!」
大きな声で言い切るマリアに、後ろで肩をすくめたユキヒョウが苦笑い。
「……まあ、そうは言ってもロイドたち、特にフレッドには頭が上がらないけどね」
するとすかさずフレッドが口を開く。
「そう思うんなら……娼館をおごってくれてもいいんだぞ?」
「……一回分くらいならおごってもいいよ」
「マジか?! ……言ってみるもんだなあ!」
フレッドが嬉しそうに笑うと、周囲からも笑いが漏れた。
そんな中、ユキヒョウがふと、にやりと笑みを浮かべて口を開いた。
「それに、ノーレム街に着いたら……僕の武器が――ふふっ……楽しみだよ」
その言葉にマリアが少し眉をひそめる。
「……そう言えば武具って、自腹じゃないのね? 団が出してくれるの?」
「基本的にはそうね」と答えたのはノエルだった。
「でも、例外もあるわよ…とっかえひっかえされたんじゃお金がいくらあっても足りないわ。…さて、キョウカさんがどう答えを出したのかしらね……」
森を抜けたばかりの陽射しの下、シャイン傭兵団の一行は、次なる目的地へと意気揚々と進んでいった。
野営地の中央に、テントが次々と立ち上がる。
薄く、それでいてしっかりと張られた布地は、深い緑の森に溶け込みながらも、明らかに旧来のものとは異なる存在感を放っていた。
「テントも、あっと……いう間に設営完了っと」
腰に手を当てて満足げに頷くユキヒョウが、周囲を見回しながら呟く。
「これは画期的だねぇ。骨組みがすでに組み込まれてるとは……軽くて強い。数がそろったところで売りに出すんだろう?」
「ええ、もちろんよ」リズが頷きながら、手にしたフライパンを火にかける。
「バカ売れ間違いなしね。あの材質、そしてこの構造。従来のテントの三分の一しか場所を取らないし、雨が降っても濡れない、染みこまない……誰もが欲しがるわ」
「……旅人に限らず、軍隊や商人も必須になりそう」
マリアがテントの内側を撫でながら言う。
「寝具や荷物を濡らさないで済むって、地味に一番助かるのよね」
「これも、シマの知識とオスカーがいてこそ、出来た代物ね」
ノエルが鍋の蓋を開けながら続ける。
「さあ、食事を済ましちゃいましょう。今夜は雨が降るわよ」
マリアがピクリと反応して振り返る。「……え? 本当に?」
「ふふっ、信じられない? でも私たちが嘘をついたこと、あった?」とノエルは涼しげに笑う。
トーマスが薪をくべながら口を挟む。
「俺たちが噓をついたことはねえだろう」
風が、わずかに湿気を帯びて吹き抜ける。
頭上の梢がざわめき、雲の切れ間から空をのぞけば、遠くに濃い灰色の筋がゆっくりとこちらに近づいていた。
「ロイド、明日はどうするんだ?」
フレッドが焚き火越しに訊ねる。
ロイドは椅子代わりの丸太に座りながら、軽く頷いた。
「雨が止むまで、ここで待機するよ。無理して移動することもないだろうし。」
「よかったな、お前ら。明日は一日中寝てられんぞ」
フレッドがにやりと笑い、マリアとユキヒョウの背を軽く叩く。
「やったぁ!」マリアが両手を挙げて小さく跳ねる。
「森から出たばっかりだもの、身体が休みを求めてるわ」
「寝られるうちに寝るに限るさ」
ユキヒョウも微笑む。
「夢の中で次の戦いに備えよう」
その頃には、焚き火の上でスープがぐつぐつと音を立てていた。
リズが鍋をかき混ぜながら言う。
「スープ、多めに作っておいたわ。明日も温めればすぐ食べられるから」
立ちのぼる湯気には、ブラウンクラウンの実を煮込んだ甘く香ばしい香り、刻まれた香草の緑の香り、そして獲ったばかりの野鳥の出汁の深みがあった。
夜の帳が降りはじめ、空に最初の雨粒がぽつりと落ちる。
しかし一行はそれすらも予測していたかのように、すでにテントの中へと移り、焚き火のそばには小さな屋根が掛けられていた。
雨脚は、夜半を過ぎてから一層強まった。
葉を打ち、地を叩く水音が森全体にこだまする。
しかしその音は、恐怖でも不安でもなく、むしろ穏やかな子守歌のように、旅人たちを包み込んでいた。
設営されたテントは三つ。
新型の簡易式テントは、従来のものとは比べ物にならない防水性と気密性を備える。
中には大人三人がゆったりと横になれる広さが確保されていた。
もっとも、トーマスだけは例外だった。
彼の体格は群を抜いていた。
肩幅は一抱えあり、身長は軽く2メートルを超える。
「……おいトーマス、頼むからはじっこに行って寝ろって……」
「……悪い、寝ぼけてた」
「……デカすぎんだよお前は……」
とはいえ、雨音が彼らの会話をやわらかく包み込み、やがてフレッドも再びまどろみに落ちていった。
別のテントでは、ノエル、リズ、マリアの三人が眠っていた。
女性陣のテントは、香草を編み込んだ小袋を吊るし、焚きしめた香りが残る落ち着いた空間になっていた。
マリアは先に、まるで石のように沈み込むように眠ってしまった。
深淵の森での緊張と疲労が一気に解けたのだろう。雨音にすら意識を持っていかれることなく、彼女は静かに呼吸を続けている。
ユキヒョウはロイドと同じテントにいた。
夜の間、ユキヒョウは何度か目を覚ましかけたが、ロイドの整った寝息を聞くたびに「……まあいいか」と言って再び目を閉じた。
雨は一向に止む気配がなかったが、彼にとっては、それがむしろ良い休養になった。
「……生きてるって、こういうことか……」
そんな独り言を最後に、ユキヒョウも眠りへと沈んでいった。
翌朝も雨。野営地は濃密な湿気に包まれていた。
木々の葉には水滴がびっしりとつき、地面には薄い水たまりが広がっている。
ノエルが鍋の蓋を開けると、昨日の残りのスープがすでに温められていた。
リズが火を起こしておいたのだ。
そこへ、香ばしく焼けた燻製肉を添えて、小さな食卓が完成する。
パンはまだ柔らかく、ほのかに小麦の香りを残していた。
冷たい雨の朝には、何よりの贅沢だった。
ロイドは焚き火のそばでマントを暖めながら言う。
「今日はこのまま待機だね。」
「……ユキヒョウさんは?」
とノエルが振り返ると、「ぐーすか寝てる」とフレッドが笑う。
ユキヒョウとマリアは、朝食にも起きてこなかった。
完全に身体のスイッチを切ったかのように、深い眠りに落ちている。
「無理もないさ」
とロイドが言った。
「この雨が、逆にいい休養になってる」
ようやくマリアが寝ぼけ眼でテントの端から顔を出す。
「……おはよう……まだ降ってるのね……」
「ええ、でもご安心を」
リズが湯気の立つスープ椀を手渡す。
「パンもまだ柔らかいわ。どうぞ、温まって」
「……ありがとう……私、食べたらもうちょっと……寝るわ」
スープを手に持ったまま、マリアはテントへ戻っていった。
ユキヒョウも同じように、遅れて起きてきて、スープを飲むとまた静かに横になった。
野営地では、そうしてゆったりと流れていく。
雨音が地を叩き、焚き火がぱちりと音を立て、誰もが何も急がない、静かで濃密な時間が続いた。




