深淵の森4
月は高く昇り、深淵の森の夜は静寂に包まれていた。
風が木々をゆるやかに撫で、虫の鳴き声がかすかに響く。
火もすでに消え、皆はそれぞれの棟に分かれて就寝の準備をしていた。
ロイドたち男性陣は、粗削りながらも堅牢に作られた木造の「男性棟」に集まっていた。
床にはリズが縫い上げ、詰め物に羽毛を用いたふかふかの布団が敷かれている。
温もりに包まれながら、どこか誇らしげにそれを見下ろすロイド。
その隣ではフレッドが勢いよく布団にダイブし、満足げに腕を広げてうめくように言った。
「やっぱ、最高だな……この布団は……」
ユキヒョウも布団に身体を沈めていた。
彼の呼吸はすでに深く、穏やかで、目を閉じてからほんの数分で寝息を立てていた。
ロイドはその様子を横目で見ながら、柔らかな声でつぶやく。
「……相当疲れてたんだね、きっと。特に精神的に」
トーマスも頷きながら、手を枕代わりにして壁にもたれる。
「そりゃそうだ。深淵の森なんざ、俺たちにとっちゃ日常でも、あの二人には一歩一歩が気の張りっぱなしだろうな」
「常に周囲を警戒して、音に耳を澄ませて、風を読む…そんな生活が当たり前になるなんて普通じゃないよ」
ロイドの言葉に、フレッドがふっと笑う。
「ま、俺らはその“普通じゃねえ”日常に、どっぷり浸かっちまってるわけだがな」
トーマスが腕を組み、ぽつりと呟く。
「歩法、気配の消し方、探りの勘、夜目の利き方……五感が全部“常時離れしてるもんな、俺ら」
「言われてみればさ――」フレッドが天井を見上げながら言う。
「この森の狼、他の地方のより明らかにでけえよな?」
「……確かに」とトーマス。
「あれが普通だと思ってたけど、あれ、おかしいよな?」
ロイドは小さく笑って頷いた。
「以前、グーリスさんが言ってたよ。“この森は禁域だ”って。やっぱり、僕たちが住んでる場所自体が異常なんだよ」
「なのに俺ら、爺さんに何度言われてもあんま実感してなかったなぁ……」
フレッドがぼやくように言う。
「俺たちの“普通”は、世間から見りゃとんでもなく特殊だってことだよな」とトーマス。
ロイドはふと表情を引き締め、焚き火の名残を見つめながら静かに言った。
「でも……それを卑下する必要はないと思うよ。むしろ、誇るべきことだ。生きる力があるってことは、守る力があるってことだから」
「……だな」
「そうだな」
フレッドとトーマスが、真面目な顔で頷いた。
軽口を叩きながらも、彼らなりにこの場所と仲間を大切に思っている証だった。
一方、女性棟。
こちらもまた、木造ながら丁寧に整えられた空間に、羽毛の布団がふっくらと並べられていた。
夜の静けさの中で、マリアは布団に入るとほとんど同時にスッと目を閉じ、ものの数分で寝息を立て始めた。
その様子を見ていたリズが、そっと笑みを浮かべて呟いた。
「マリアったら……ふふっ……すぐ寝ちゃったわね」
彼女の口調にはどこか、労わるような優しさが混じっていた。
ノエルも肩をすくめながら、マリアの寝顔に視線を落とす。
「余程疲れてたんでしょうね。……もっと配慮すべきだったわね、私たち」
リズはわずかに首を横に振った。
「……難しいところよ。マリアにだって矜持がある。自分は傭兵団の一員として、ちゃんと役に立ってるって思いたいはずよ」
「……そうね。でも――」
ノエルは小さく息をつき、マリアの布団に毛布をもう一枚掛けてやりながら、静かに言った。
「きっと、わかってくれると思う。私たちが彼女を気にかけるのは、“大切な仲間だからこそ”って……」
「……ええ、そうね」
二人は静かに見つめ合い、布団に身を沈めた。
どこか誇りと優しさを湛えた眼差しで、眠りへと身を任せる。
外では、深淵の森がなおも静かに呼吸を続けていた。森の夜はただ暗く、ただ静かに――それでも、そこに集う者たちの心には、確かな灯が宿っていた。
黎明の光が森の隙間から差し込み、濃く冷たい空気がまだ地を這っている。
木々の葉はわずかに霜をまとい、吐く息は白い。
ロイドたちはその静けさの中で、慎重に、音を立てぬよう動き始めていた。
男性棟では、まだ布団の中で眠るユキヒョウの寝息がかすかに聞こえる。
昨夜の疲れが色濃く残っているのだろう。
ロイドはそれを見やり、小さく指を立ててトーマスとフレッドに合図した。
彼らも黙って頷き、静かに荷物を肩に背負う。
女性棟でも、ノエルとリズが同じように配慮していた。
布団の中で眠るマリアの頬はわずかに赤らんでおり、安堵と疲労の入り混じった寝顔を見て、ノエルはそっと毛布の端を整える。
そして慎重に歩きながら、リズに目配せして「お願いね」と唇だけで伝えた。
昨夜の残り物──焚き火で焼いたパンの切れ端、干し肉の燻香が残る冷めたスープの固まり──を口に押し込み、ロイド、トーマス、フレッド、そしてノエルは出発した。
それぞれの背負い袋には、採取した苗木や香草を土ごと収納できるよう、丈夫な甕がいくつも詰められていた。
ノエルは愛用の超強弓を背に、腰のポーチには薬草類、止血用布、簡易消毒液などを入れて準備万端。
全員が水筒と燻製肉を持ち、補給と緊急時に備えていた。
ロイドたちは静かに森へ分け入り、獣道とは言えぬ細い踏み跡を踏み締めて進んだ。
途中、柔らかな斜面に群生していたブラウンクラウンやブルーベリー、ラズベリーの幼木を見つけると、根を傷つけぬように土ごと丁寧に掘り起こし、甕に収める。
山菜や香草も慎重に選別し、無駄な採取は避けて効率よく荷を増やしていく。
その間、ノエルは森の音に耳を澄ませ、ふと動く鳥影を見つけると、音もなく弓を構えた。
矢が風を切る音すら感じさせず、獲物は瞬時に絶命する。
彼女は素早く駆け寄り、器用な手つきで羽根をむしり、内臓を取り除くと、土中に深く埋める。
臭いで他の獣を引き寄せぬよう、穴はしっかりと埋め直される。
二重構造の背負い袋には血が漏れぬよう、草と皮を敷いたうえで、仕留めた鳥が丁寧に納められた。
こうして順調に採取と狩りを進めていた一行の空気が、一瞬にして張り詰める。
――『警戒』
先頭を行くトーマスがハンドサインを掲げ、ぴたりと動きを止めた。
ロイド、フレッド、ノエルが即座に対応し、周囲を警戒する。
ドドドドドッ――ッ!!
乾いた地響きとともに、茂みを割って現れたのは、一頭の巨大な猪だった。
肩までの高さは人間の腰ほどもあり、分厚い皮膚と筋肉に覆われた身体が突撃の衝撃を物語っていた。
血走った目、泡立つ口元。好戦的な性格は明白だった。
「……どうするよ?」
トーマスが困ったように振り返る。
「倒しても持って帰れねえし、毛皮をなめす時間もねえ。明日出立だぜ」
フレッドが唇の端を吊り上げる。
「だったら、力の差を見せつけてやりゃあ、突っかかってこなくなるだろ?」
「……そうだね、仕留めるまでもない。無駄な殺生はしたくないし」
ロイドも静かに同意した。
猪は低く唸り声をあげながら、真正面からトーマスに向かって突進してきた。
だが、次の瞬間──ガンッッ!!
その牙がトーマスの構えたカイトシールドにぶつかり、鈍い音とともに跳ね返された。
トーマスは一歩も動かず、衝撃をまるで地面に逃がすように踏みしめる。
猪はその場で転がり、数秒間、地に伏せて動かなかった。
脳震盪を起こしたのか、頭をぶるぶると振ってから、よろよろと立ち上がる。
すると、トーマスが一歩、ゆっくりと前に踏み出した。
――その一歩が、全てを決定づけた。
猪は悲鳴のような声を上げ、踵を返して一目散に森の奥へと逃げていった。
木々の葉が跳ね、地鳴りのような音だけを残して、やがて静寂が戻る。
「……お見事」
ノエルが静かに言った。
「おいおい、あいつ絶対“二度と近づきません”って顔だったぜ」とフレッドが笑い、「さすがはトーマスといったところだね」とロイドが軽く肩を叩く。
「……俺、なめられてると思ってたんだけどなぁ……」
トーマスは照れ臭そうに頭をかきながら、小さく笑った。
静かな森に、仲間たちの笑い声が少しだけ溶けていく。
再び背を向けて、彼らは作業に戻った。
朝の光がまばらに差し込み、静かな森の拠点にもゆっくりとした時間が流れていた。
女性棟では、リズが音を立てぬよう気を配りながらも、台所で作業に追われていた。
パン生地をこねる手は力強く、それでいて繊細だった。
こねる度に生地が台にぶつかり、くぐもった音が部屋に響く。
布団の近くではマリアがぐっすりと眠っている。
音に気付いた様子もなく、深く穏やかな呼吸を繰り返していた。
(……よほど疲れてたのね)
リズはそっと微笑み、成形した生地を木製の器に移して布をかけ、窓辺に置いて発酵させた。
その間に水汲みの桶を持って外へ出て、清流で冷たい水を汲み、戻ると今度は昼食の下ごしらえに取りかかった。
ザクザクと野菜を刻む音。小鍋に湯を沸かし、切り分けた野菜を入れていく。
森で採れたブラウンクラウンの乾燥キノコも、たっぷりと。じんわりと香りが立ちはじめ、家の中にほのかに滋味深い匂いが広がっていく。
(……これならマリアも食べやすいはず)
彼女の手は決して止まらず、寝ている仲間を気遣いながらも、淡々とすべきことを進めていった。
やがて昼が近づいた頃――「ただいまー……っと」
先に戸を開けたのはフレッドだった。
重そうな袋を背負っているが、表情は明るい。続いてロイド、トーマス、そしてノエルが続く。
「パンのいい匂いだな、リズ」
「おかえり。……みんな怪我はない?」
「順調そのものさ」
ロイドが軽く頷いたその時、「……う……ん……」
布団の中で、マリアがようやく身じろぎをし、まどろみから抜け出してきた。
「……あら、マリア?」
「うん……もう昼……?ごめんねリズ……手伝いもしないで」
マリアが目元を擦りながら、少し申し訳なさそうに笑った。
「気にしないで、ゆっくり休んでくれてよかったのよ」
そのやり取りに、後ろからフレッドがからかうように口を開いた。
「もっと寝ててもいいぞ? 寝れるんならな」
「ふっ……ありがたいが、それよりお腹が……お腹が減ってたまらないわ」
続いてユキヒョウも大きく伸びをしながら棟の入り口から出てくる。
髪はまだ少し乱れており、目元に昨夜の疲労が残っていた。
「すまない……寝過ぎてしまったようだ」
「ふふ、ふたりともおはよう」
「……僕もお腹がすいたよ」
ユキヒョウも恥ずかしげに笑いながらそう言った。
「じゃあ、ブラウンクラウンのスープでも飲むか?」
鍋の蓋を持ち上げながらトーマスが問う。
香ばしいキノコの香りが一気に部屋を満たした。
「――是非とも!」
「私も、いただくわ!」
ユキヒョウとマリアが揃って即答した。
フレッドが笑いながら食器を出し、ノエルは火加減を調整して手伝う。
ロイドは甕の中から新鮮な香草を取り出して、スープに散らす。
湯気の立ち上る鍋を囲んで、一同の顔がふと柔らかくなった。
今日の労働と休息、そして団らんの気配が、静かに流れ始めていた。




