歓迎会の前に3
午後3時頃、陽が斜めに差し込む風呂施設の玄関口。
温かな湯気が微かに漏れ出す中、マークが堂々と扉を開けて中へと足を踏み入れた。
その後ろには、少しばかり緊張した面持ちのグーリス、ライアン、デリー、マルク、ルーカス、マックスら鉄の掟傭兵団の中心メンバーと、彼らに付き従う四名の団員が続く。
脱衣場に一歩足を踏み入れれば、すでに内部では準備が進んでいた。
壁際の棚に整然と並んだ清潔な布や石鹼、リンス。
空気は木の香りと仄かな湯の匂いが混ざり合い、外とはまるで別世界のような静けさと清潔さが漂っている。
その中で、作業中の二人の男がいた。
一人は髪を後ろで束ねた中肉中背の男アーベ。
もう一人は、手先の器用さが光るズリッグ。
二人は湯船の下の木炭を丁寧に組み替えていた。
一定の温度を保つために、湯の熱源管理を欠かさないのがこの施設の特徴だ。
「アーベ! ズリッグ!」
マークが声をかけると、二人が同時に振り返った。
「お、マークか…って、そっちは……おお……グーリスさんたちじゃねえか!」
アーベが笑顔を浮かべる。
ズリッグも軽く顎をしゃくって頷いた。
「団長から伝言だ。グーリスさんたちに風呂の入り方と作法を教えてやってくれってさ。アーベ、ズリッグ、お前らは次、その次の案内役だ」
アーベは胸を軽く叩き
「任せとけ、きっちり教えさせてもらうぜ。最初はびびるかもしれねえが、帰るころには毎日入りたくなってるって保証する」と自信満々に笑う。
ズリッグも静かに木炭の補充を終えて立ち上がり、「じゃあここはお前に任せていいな?」
「もちろん」とマークが頷いた。
「……そういや、俺たちの後って誰が教えるんだ?」
アーベが問いかけると、「次はキジュ、メッシ。で、その後がギャラガ隊長たちだ。交代で順番に教えるって段取りになってる」
「了解、把握した。ギャラガ隊長か……後が楽そうだな、説明しなくても体当たりで理解させそうだしな」
ズリッグが口元を緩めて言うと、グーリスがくくっと笑った。
「そりゃあ、ありがてえが……こっちは慣れるまでが大仕事だ」
「まあまあ、心配することはないですよ。裸の付き合いってやつで。湯に入れば誰もがただの男ですよ」
マークが言いながら、すでに湯船に向かって先導し始める。
「じゃあ、俺たちは次の準備に回るよ。ごゆっくり!」
アーベ、ズリッグが手を振って脱衣場を出ていく。
グーリスがやや緊張した面持ちで腕を組み、振り返って部下たちに言った。
「……よし、行くか。風呂とやらを体験してやろうじゃねえか」
その一言に、部下たちは思わず身を正したが、どこかワクワクしたような表情も混じっていた。
そこに各々、着ていた防寒具や武装を脱ぎ、畳んで置いていく鉄の掟傭兵団の男たち。
彼らの身体は戦場で鍛えられた筋肉と傷痕に彩られており、寒空の下で過ごしてきた証がそのまま現れていた。
マークは手際よく布を取りながら、棚の横に並ぶ瓶を指し示した。
「こっちの石鹸はハッカ。こっちは柑橘系、あっちはラベンダー。香りの好みで選んでください。どれもシマ団長が“必要なら使え”って整備したものです。リンスも使ってみますか?」と穏やかに微笑む。
それに反応したのは、風呂初体験で少し緊張気味のライアンだった。
「……シマたちも使ってんのか?」
「いえ、団長たちは使いませんね。長髪のアーベやギャラガ隊長、あとはユキヒョウ隊長くらいです。リンスって結構、手間がかかるんですよ」
「んじゃ、俺はいいや」
グーリスがあっさり肩をすくめた。
男たちが裸足で木の床を踏みしめ、脱衣場から一歩出ると、目の前に露天の洗い場と湯気の立ち上る大浴槽が広がっていた。
周囲を取り囲むのは編み込まれた木垣と、素朴な木組みの塀。
夜風はまだ肌寒いが、湯気の中に立つと、それさえも凛とした清浄さを感じさせる。
「最初は寒いですけど、我慢してください」
言いながら、マークが湯船から手桶で湯をすくい、迷いなく頭からかぶった。
ザバーッ。
そして次の瞬間には、布に柑橘系の石鹸をたっぷりと泡立て、くるくると体をこすりはじめる。
肩、腕、腹、背中、足の裏。筋肉の谷間も、指の間も、くまなく丁寧に。
「さあ! グーリスさんたちも一緒に!」
その声に、仲間たちは少し戸惑いながらも手桶を手に取り、恐る恐る湯をかぶった。
「アチッ……熱ッ!」
「だ、大丈夫かライアン!」
「な、慣れる……慣れれば……」と歯をくいしばるマルク。
「何度か繰り返せば大丈夫ですよ。ようく身体の隅々まで洗ってください」とマークが励ます。
やがて、マークは髪に泡を揉み込みながらわしゃわしゃと音を立てて洗い、ついでに顔もこすって洗い流す。
湯船に静かに足を入れ、慎重に身体を沈めていく。
トプン……。
「……あ゛~~ァ……フゥ~……」
その吐息は、魂の底から滲み出たような、解放の響きだった。
そして次に、ライアンが身体を洗い終え、マークの前に立った。
「マーク、洗い終わったぞ……こんな感じでいいのか?」
「……まだ肩に泡が残ってますね。ちゃんと流してください」
「おう!」とライアンはバシャァッと湯を頭からかぶり、「どうだ?」
「ええ、大丈夫ですよ」と頷くマーク。
それを確認したライアンは一気に湯船へと身を沈めた。
ザブンッ!その瞬間——「はぁあああ~~~~……っっ!!!」
男の呻きにも似た声が、静かな浴場にこだました。
「こ、これは……すごい……なんだ、この……全部が解けていく感覚……!」
そしてその声に触発されたように、次々と仲間たちが湯に身体を沈めていく。
「し、染みる……命が……命が満たされていく……っ」
グーリスが呟くように言い、目を閉じたまま湯に沈み込む。
「肩の力が……全部抜けていく……。ああ、これは駄目だ……俺……出たくない……」
デリーがまるで魂を湯に委ねたように脱力し、湯面にふうっと息を吐いた。
「湯の中ってこんなに……静かで、気持ちいいのか……」
ルーカスが呆然としながら言う。
「やばい、足先がなくなるくらい軽い……!」
マックスが両足をじたばたさせながら浮かべる笑顔は、まるで子供のようだった。
彼らの表情からは、長年背負ってきた鎧のような緊張や警戒がゆっくりと剥がれ落ちていき、代わりに湯の温もりが全身を包んでいく。
誰もが無言になり、湯気の立つ空間で、ただ静かに呼吸を整えていた。
夕陽に照らされた、まだ雪が残る景色と、露天の木の香り。
——鉄の掟傭兵団の面々は、この瞬間、自分たちが「生きている」ことを、しみじみと実感していた。
湯の中で蕩けたような表情を浮かべていたグーリスたち。
肩まで湯に浸かり、どこか虚ろな目をして、まるで極楽にでも来たかのような静けさだった。
そんな彼らの前で、マークはふいに背筋を正す。
「では、次は大事なことをお伝えしますね」
「……ん?」とグーリスが顔だけで反応する。
「今、皆さんが入っているこの湯、減っています。これを継ぎ足さないといけません。ルナイ川から水を汲んで、湯船に足していきます」
「……ってことは、湯がぬるくなっちまうな?」
マルクが湯面を手で撫でながら言う。
「はい、そこで“木炭”を加えていきます」
「木炭?……あそこにある真っ黒な塊のことか?」
グーリスが指差したのは、露天洗い場の脇に積んである漆黒の炭塊。
「そうです。木炭は燃焼効率がいいんです。焚き火と違って煙も少ないし、長くじんわりと燃え続けます」
マークは慣れた手つきでトングを持ち浴槽の下にくべていく、炭を二つ三つ、中へと。
「では、木炭を加えていきますね」
シュウゥ……と小さく音を立て、炭が温まり、熱気がふわりと浴場全体に立ちのぼる。
「なるほどな……熱くなったところで水を足して、ちょうどよくするってわけか。で、次に入る奴らのために湯をいっぱいにしておく……そういうことか」
ライアンが言いながら顎に手をやる。
「その通りです」マークは笑みを浮かべる。
「……確かにな。次に入る奴が湯がなきゃ困るしな」とデリー。
「おお? なんか……じわじわ熱くなってきたな」
ルーカスが肩まで浸かり直しながら声を漏らす。
「じゃあ、水、汲んできますね」とマークが立ち上がる。
「おう、俺たちも手伝うぞ」とグーリスが声をかけると、「了解!」
鉄の掟の団員たちが次々と湯船から立ち上がり、甕を手に取った。
ルナイ川の冷たい水を汲み、何往復かして湯船へと注ぎ込んでいく。
やがて、風呂を存分に満喫した第一陣の面々が湯船から上がっていく。
濡れた髪を手拭いで拭き、軽く整えながら脱衣場に戻ったマックスが言った。
「いやあ! サッパリしたなあ!」
両手を天に伸ばして背筋を鳴らすデリーが続く。
「……なんか、生まれ変わったような感じだな」
「シマ団長が言うには、風呂は“命の洗濯”だって言いますね」
マークが笑いながらつぶやく。
「上手いこと言うじゃねえか、あいつ」
ライアンが鼻を鳴らして笑った。
裸足のまま、足ふきのマットに立ち、各々が着替えを終えると、マークが声をかける。
「……でも、お楽しみはこれだけじゃないんですよ。さあ、バンガローに行きましょう!」
「お、なんか続きがあるのか?」とマルクが目を輝かせる。
バンガローの中は、あたたかく、やわらかな灯りに照らされていた。
天井は高く、丸太で組まれた梁がむき出しになっている。
中央には囲炉裏があり、囲うようにして座布団と木製の低卓が並ぶ。
卓の上には湯気を立てる陶器の壺や、陶杯が並んでいた。
その一角で、ザックが背もたれにもたれかかりながら顔を上げた。
「おっ、帰ってきたな」
彼の声に反応して、周囲にいた仲間たちが一斉に振り向く。
そして、口々に「おう」「いい湯だったか?」と声をかけながら、全員がどこかニヤニヤと笑っている。
グーリスが怪訝そうに眉をひそめた。
「……なんだ? お前ら……なんでニヤけた面してんだ」
すると、囲炉裏の脇にいたギャラガが立ち上がり杯を一つ、差し出してきた。
「喉、渇いてるだろ。ホレ、これを飲んでみろよ」
受け取った杯。
手に伝わる冷たさに、グーリスは少しだけ眉を動かす。
「……冷てえな、こりゃ」
「グイッといけ! グイッとな!」とダグがけしかける。
一瞬、周囲を見渡すグーリス。
「……あーもう、くそっ」
杯を傾ける。
ゴキュ……ゴキュゴキュゴキュッ――!
喉が勢いよく鳴る。杯から流れ込む液体は、冷たく、湯上がりの火照った体に、心地よい衝撃が走る。
「……ぷっはああ~~~っ!!」
まるで魂が抜けたかのように天井を仰ぎ、身体から力が抜けるグーリス。
手から滑り落ちた杯が、コトン、と床に転がった。
そのまま動かない。
「おい! グーリス!! ……お前ら、何をした?!」
ライアンが思わず声を上げ、身を乗り出す。
「まあまあ、お前も飲んでみろよ」
ザックがニヤリと笑いながら、ライアンにも杯を差し出す。
「……得体の知れねえもんなんか、飲めるか!」
ライアンが手で払いのけようとした、そのときだった。
「オラァ、貸せ!!」
グーリスが杯をかっさらった。その場で再び飲み干す。
ゴキュ、ゴキュゴキュゴキュ……
「……プッハァァッ!!……クゥゥ~~~~……っっ!!」
目を閉じ、鼻から息を抜き、全身からとろけるような満足の気配が滲み出る。
そして、震える声で一言。
「……美味ぇ!!!!!」
その瞬間、室内にどっと笑いが起こった。
「な? クセになるだろ?」
ギャラガが得意気に腕を組む。
「なんだこれは……こんなもん、初めてだ……! 胃が踊ってる……!」
グーリスは立ったまま、何度も唇を舐めるようにしながら呟く。
ライアン、マルク、ルーカス、デリー、マックス、4名の鉄の掟団員たちも目を輝かせ、次々と杯を手に取っていく。
「エール、果実酒、馬乳酒……いろいろありますが、どれも冷えてますよ」
マークが笑いながら説明した。
「……なんなんだよ、この酒……!? 触っただけで手ぇ凍えそうだぞ!」
思わずライアンが叫ぶ。
「なんでこんな冷えてんだ? 」とマックス。
「いや、地下の“氷室”を使って冷やしてるだけだよ。ほら、ひとまず飲んでみろよ」
ジトーがにやりと笑う。
ライアンが恐る恐る、鼻先で香りを嗅ぐ。
「……なんか、果物っぽい匂いがするな……んじゃ、いくぞ……」
ゴク、ゴキュゴキュゴキュッ!
「……っ! プッハアアア~~~~~ッ!!!」
その場に膝をついて、両腕を広げて天を仰ぐ。
「な……なにこれ!? 冷てぇ! 甘ぇ! ……うっっっっま!!!!」
その様子を見たデリーが慌てて次の瓶を開けて一口。
「カァ~~~~ッ!! ……喉が、生き返る……!」
マルクも続く。
「ゴキュ、ゴキュ、ゴキュ……クッゥゥ~~~~……っっ!! お、おい……これ……夢じゃねぇよな?」
ルーカスは驚きのあまり、瓶を持ったままその場に座り込んだ。
「……これが……酒……!? こんな美味い飲み物が……この世に……」
マックスは馬乳酒の瓶を抱えて鼻を鳴らす。
「ふはっ……クセがあるけど……冷たいだけでこんなに違うのかよ……!」
その様子を見て、ジトーが肩をすくめる。
「お前らなぁ……それを飲んじまったら、もう“ぬるいエール”には戻れねぇぞ?」
鉄の掟団員たちは、みんな一瞬だけ真顔になったが――すぐに吹き出した。
「上等だよ! 戻らなくていい!」
「これからは“冷えてるかどうか”が基準だ!」
「ぬるいのは、もう“過去”だ!」
グーリスはぐいっと瓶を掲げる。
「この村、最高だ!!!」
杯を掲げたまま、誰からともなく声が上がった。
「「「乾杯ッッッ!!!!」」」
バンガローは歓声と笑い声に包まれ、夜の帳のなか、風呂上がりの祝祭が今まさに本格化しようとしていた――。




