冷やせば?
寸胴鍋から立ちのぼる湯気が、バンガロー内をほんのりと包んでいた。
いろりにかけられた鍋の中では、肉と野菜がふつふつと煮え、炊き立ての香りが室内に満ちる。
パンは籠に山盛り、香ばしい焼き色に誰の胃袋も騒ぎだす。
平皿には炙った魚、肉のグリル、添えられた蒸し野菜の湯気が立ちのぼり、視覚でも食欲をくすぐる。
木椀によそわれたスープが次々と配られ、シマたちが手際よくパンや肉を卓へと並べていく。
ギャラガたちが「おう、サンキュー」「いい匂いだ!」と口々に言いながら手を伸ばす頃──
ガラッ
引き戸の音とともに、女性陣が戻ってきた。
湿った髪にラフな部屋着、頬は湯上がりでほんのり上気している。
入室の瞬間、空気が一変するようだった。
「おお、一気に華やかになったなあ…!」
ジトーが笑って呟くと、男たちが一斉に顔を向ける。
「ちょうどいいところで帰ってきたな」
「ふふ、まずはお風呂上がりの果実酒よ」
ミーナがさらりと腰を下ろしながら、グラスを手に取った。
「お兄ちゃん、私にはジュースね」
メグが人差し指を立てて可愛らしく頼むと、シマは一瞬きょとんとし、それから苦笑いを浮かべて立ち上がる。
妹に当然のように顎で使われるその光景に、周囲から「やれやれ」「仲いいなあ」「人使いのあらい妹だな」と笑いが起きる。
シマは肩をすくめつつも、ジュースを取りに向かった。
「私はエールな」
マリアがひと声かけると、ザックが「へいよ」とばかりにジョッキを差し出す。
グラスやカップを手にした彼女たちが一口ふくみ──
「…はあ~、美味しいわ…」
ノエルが目を細めて声を漏らした。
「お風呂上がりの一杯はホント、最高ね」
ケイトが頷きながら言うと、周囲の女性陣も「ほんと」「うんうん」と相槌を打つ。
「さて、食べるわよ!」
サーシャが手をぱんと打ち、女性陣がいろりを囲むように並んで腰を下ろす。
その横では男たちが卓を囲み、既に手を動かし始めていた。
「うん! 今日のスープも美味いね!」
ユキヒョウが満足げに頷く。口元にはほのかな笑み、手には木椀とスプーン。
「スープだけじゃなく、パン、肉と魚、野菜もちゃんと食えよ」
シマが軽く注意するように言う。
「そうだぜ、俺たちは身体が資本なんだからよ」
クリフがパンをちぎりながら笑う。
「ユキヒョウさん……モグモグ……好き嫌いは……ゴク……駄目ですよ」
メグが真顔で口を拭きながら言うと、ユキヒョウは少し吹き出してしまう。
「アハハ! 分かってるさ、ちゃんと食べるよ」
女性陣はおしゃべりに花を咲かせながらも手を止めず、木椀を抱えてスープを飲み、パンをちぎり、蒸し野菜を口に運ぶ。
男たちも冗談を飛ばしながら食事を進める。
「ヤコブさんも、最初に出会ったころに比べると、だいぶ食べるようになりましたね」
ロイドがふと呟くように言う。
「うむ、そうじゃのう……若い者に触発されておるのかものう」
ヤコブが木椀を持ったまま顎を撫でるように言う。
「肉付きも良くなったしな」
ザックが笑って背中を軽く叩く。
「この間、剣をふってたろ」
フレッドが言うと──
「なんじゃ、見られとったか」とヤコブが眉を上げて笑う。
「どういう風の吹き回しなんだ」とダグが聞けば
「いやあ、先日のう、子供たちに“教えてくれ”と頼まれてのう……特にジーグにはの」
ヤコブは思い出すように遠くを見ながら語る。
「そういう年頃なんだろうなあ」
キーファーが頷いた。
トーマスが湯気の立つ木椀を片手に、ふとギャラガに尋ねた。
「で、ジーグは、剣と槍、どっちに興味があるんだ?」
ギャラガは腕を組んで少し考え込むような顔をした後、ぽつりと答える。
「本人はな、槍を使いたいって言ってた」
「やっぱ親父に憧れるもんなんだなぁ」
隣で笑いながら呟いたのはデシンス。
「だが、身体ができてねえうちに重いもんを持たせるのはよくねえ」
シマが真剣な面持ちで口を挟む。
「だったら軽めの槍、短槍を作ろうか?」
オスカーが静かに申し出る。
「…ああ、悪いが頼む。頼りにしてるぜ、オスカー」とギャラガが素直に応じた。
「技術もだが、心構えもちゃんと教えねえとな」とクリフが口を挟むと
「勿論だ。そこは俺がきっちり叩き込む」
ギャラガが自信たっぷりに胸を張る。
「おお~い、ギャラガがまともなこと言ってるぞ!」
ザックがどっと笑いを誘いながらからかう。
「おいおい、俺はいつだってまともだ!」
ギャラガが酒椀を掲げて笑い返すと、周囲から「それはねえな!」と笑い声が上がり、バンガローはまた一段と賑やかさを増していった。
笑い声があちこちから起こり、バンガローの中は一層にぎやかになる。
夜も更け、バンガローの中は食後のくつろぎと酒の香りでゆったりとした空気に包まれていた。
団員たちは焚火のような温もりの中で思い思いに酒を楽しみ、冗談を飛ばし合っていた。
そんな中、オスカーがぽつりと呟いた。
「だけど皆、お酒美味しそうに飲むよね……僕もちょっと飲んでみようかな……?」
その声に、すぐ隣でジュースを飲んでいたメグが、ぴくりと反応し、ちらりと彼の顔を見上げる。
オスカーも、そっとメグの方に視線を向け、探るような目をする。
「……少しだけよ」
短くも、姉のような、恋人のような、母のような複雑な色を帯びた返答。
それを聞きつけたフレッドが「よし来た!」とばかりに立ち上がり、エールの入った杯を掲げる。
「俺が飲み方ってやつを教えてやるよ、見てろ!」
勢いよくごきゅごきゅと飲み干し、最後に大きく息を吐いて、「ぷっはあああぁ!……これが、男の飲み方ってやつだ!」
大仰なジェスチャーで笑ってみせ、オスカーに杯を差し出した。
オスカーはおそるおそる受け取り、一口……ゴクリ。
少し顔をしかめて、「……うん、美味しくないかも」
苦笑いを浮かべながら、遠慮がちに言った。
「そりゃあエールはちょっと癖があるからな」
ギャラガがどっかり腰を下ろしつつ、自分の木製の酒瓶を掲げた。
「だったらこっちだ。果実酒だ。リンゴにイチゴ、ベリーにブドウ……香りを楽しみながら飲むのが果実酒の正しいたしなみ方だ」
ギャラガは妙に力説しながら、香り高い酒を小さな杯に注いで渡した。
オスカーはそれを手に取り、恐る恐る口をつける。……ごく。
「……あっ、これ美味しいかも」
目を丸くしてそう言うと、ギャラガはにんまり笑い、大きく頷いた。
「そうだろう? 俺はな、お前が味の違いが分かる男だって信じてたんだよ! よし、これで俺たちは“果実酒仲間”だな!」
得意げに肩をバンバン叩くギャラガ。その様子にクリフが呆れ顔で突っ込む。
「何だよ“果実酒仲間”ってよ……」
「周りに男で果実酒を好んで飲むやつなんて、そうそういねぇからな」
ダグが腕を組みながらぼやく。
「……余程うれしいんじゃねえのか、ギャラガ」
ドナルドが笑いながら言うと、ギャラガは顔を赤くしながらも杯を掲げ、「うるせぇ、仲間は大事なんだよ! 乾杯だ!」
と、また一杯、果実酒を注いだ。
周囲はその空気の温かさに包まれ、またひとつ、賑やかな笑い声が弾けた。
焚き火の温もりと酒の香りが漂うバンガローの中、果実酒を味わいながら談笑していた一同の中で、ふとシマがぽつりと口を開いた。
「……エールにしても果実酒にしても、冷やした方が美味いんじゃねえのか?」
その瞬間、空気がぴたりと止まり、周囲の団員たちが一斉にシマの方を見た。
視線が集まりすぎて、まるで矢の雨のようだった。
「な、何だよ……?」
「何でそれを早く言わないの?!」
サーシャが眉を吊り上げて叫ぶ。
「それ、前世の記憶ね? ね?」
エイラが冗談めかしてもはや確信めいた顔で迫る。
「え、いや、俺、酒飲まねえし……興味もねえから……な?」
戸惑いながらシマが肩をすくめると、オズワルドが腕を組んで唸る。
「今まで冷たい水入れてみたことはあったけどなあ……味が薄くなるんだよな」
そこで、シマがふと、ユキヒョウの持つ杯に目を留める。
「その杯、銅板だよな……寒い季節、雪が降る土地なら……冷やすのなんて簡単だろ?」
ユキヒョウが眼を細め、いたずらっぽく言う。
「君なら……いや、“シマ”なら簡単にできるってことで解釈していいのかい?」
「……まあ、そうだな」
それを聞いた瞬間――
「作れ!!!」
「作りなさい!!」
男女問わず、団員たちの怒涛の圧が一気に押し寄せた。
シマはたじろぎながら手を上げて制し「……わ、わかったから、ちょっと待ってろ!」
そう言って、バンガローの隅に置かれていた陶器の大甕をふたつ抱えて外へと足早に出ていった。
一同は耳をそばだてて待つ。
「……もうできたのか?」
扉が開き、シマがすぐに戻ってきたことで、皆が声をそろえる。
「いや、まだだ。もうちょっと待ってろ」
そう言って甕を置くシマ。
甕の中をのぞき込めば、そこにはふわふわの新雪がぎっしりと詰め込まれていた。
シマは腰を下ろし、塩甕から取り出した塩をひとつまみ、雪の中へ振りかける。
「塩を入れると雪の融点が下がって、急冷できるんだ……よし、混ぜるぞ」
木べらでぐるぐると攪拌しながら、シマが真剣な顔で呟いた。
シマは雪をたっぷりと詰め込んだ甕の中に、エールの注がれた銅杯をそっと沈めた。
指先に集中し、慎重に杯をゆっくり回す。
酒がこぼれぬよう、角度と速度を絶妙に調整しながら、冷気が杯全体に均一に伝わるように。
静かな白の世界の中、杯がくるくると踊る。
団員たちは思わず身を乗り出した。
「こぼれないか?」「おい、見ろよ…」
誰もが息を呑んで見守る中、時間にしてわずか二、三分。
「よし、できた」
そう言ってシマが杯を甕から引き上げ、手近にいたジトーに渡す。
銅の表面にはほのかに霜がつき、冷気が掌に伝わる。
「……の、飲むぞ」
ジトーがごくりと唾を飲み込み、杯を口元に運ぶ。
ゴキュ…ゴキュゴキュゴキュ…「ぷっはあ~~~っ!!!」
大きく息を吐いたジトーの目がまん丸になる。
「……俺が今まで飲んでたエールは……一体なんだったんだ……?」
その呟きは、まさに時代の終わりと始まりを告げる言葉のようだった。
「次は俺だ!」
「私が先よ!」
「待ってらんねえ!!」
声が飛び交い、誰かが叫ぶ。
「空の甕を探せ!!」
「おう!!」
「了解!!」
皆がわらわらと動き出し、空の甕を抱えて雪を取りに外へ飛び出していく。
再び甕が増え、エールや果実酒が次々と冷やされ、試されていく。
十数分も経たないうちに、団員たちは次々と冷えた酒を口にし――
「くうっ、うめええ!!」
「冷たいのに香りが立ってる!」
「これが本物の飲み方だったのか……」
そして、誰かが叫んだ。
「――革命だ!!」
その言葉に、皆が杯を掲げ、笑い声が夜の空気に弾ける。
シマは焚き火のそばで肩をすくめながらも、少し得意げに火の粉を見つめていた。
氷と雪の夜、傭兵団の酒文化に小さな革新が生まれた瞬間だった。
今宵の宴は、さらに一段と賑やかに、華やかに続いていくのだった。




