風呂完成
スタインウェイとスレイニ族の兵士たちがチョウコ村を離れてから五日後、長らく待ち望まれていた風呂がついに完成を迎えた。
村の東の外れ、小高い丘を降りた先、ルナイ川沿いの小道が途中で枝分かれし、その一方が新設された湯場へと続いている。
道は踏み固められ、足元は簡素ながら平らに整えられており、途中には手製の道標が立てられていた。「男湯」「女湯」とそれぞれの文字が墨で書かれ、木材で矢印が取り付けられている。
風呂場は男湯、女湯に分かれ、それぞれに素朴ながらしっかりとした造りの脱衣場が併設されていた。
屋根は木の梁に粗削りの板が渡され、雨露をしのぐには十分。
外壁には古布と木材で作られた目隠しが取り付けられ、外からは中がまったく見えないようになっている。
湯船は大人が十四、五人入れるほどの広さで、囲いは三方向に設置されており、唯一、川側だけが開かれている。
そこからルナイ川の冷たく清らかな水を汲む必要があった。
シマは湯船の端に腰をかけ、水面をじっと見つめながら「水車でもあれば楽になるのだが」と呟いた。
だが、その機構や仕組みについては知識がなく、唯一の頼みであるヤコブに聞くも「水車……回る……うーん、よう、わからんのう…?」
シマも「うまく説明できねえ」と肩をすくめるばかりだった。
結局、技術的な限界から人力での作業に頼らざるを得なかった。
川から桶で水を汲み、風呂場の脇に設置された大釜に注ぎ入れる。
木炭をくべて火を熾し、煙が空へと昇る。
湯を適温に保つための作業は、地味ながら根気と技術を要するものだった。
炊事班が中心となって火加減を調整し、途中からはジトーやザック、トーマスら力自慢も加わって水汲みに励んだ。
互いに声を掛け合いながら、作業は一丸となって進められた。
この労苦に報いるため、シマはひとつの決まりを設けた。
――湯を沸かした者、水を運んだ者には「一番風呂」の権利を与える。
風呂の完成にあたり、誰よりも張り切って動いていたのは、言うまでもなくシマだった。
「水、あと三桶運ぶぞ! 木炭、湿ってないやつをくべろ。火は絶やすな、焦がすな。湯加減は……よし、いい感じだな!」
額に汗を浮かべ、シマは走り回った。
桶を担ぎ、釜に水を注ぎ、火床に顔を近づけて炎の強さを確かめる。
全身に飛び散った水と汗が光っていたが、それすら彼には心地よい。
「入る前にちゃんと身体を洗うんだ。浴槽は汚すなよ。湯は貴重なんだぞ」
声を張り上げながら、木桶に水を張って身体を洗い出す。
「……そういや専用の洗い場も欲しいな。次は小さい浴槽でも作るか」
この世界にも石鹸はある。
だが、それは香りもなければ見た目も地味で、固形というより粘土のような塊で、泡立ちも控えめ。
それでも、布で全身を丹念にこすり、湯をかぶっては流した。
浴槽には、五右衛門風呂のように底に金属釜が組み込まれており、直火で温める構造だ。
火傷を防ぐための簀の子が底に敷かれており、熱い湯でもじっくり入れるように工夫されている。
そして、ようやく訪れた至福の時だった。
ルナイ川沿いに新たに設けられた風呂場。
手作りの湯屋は簡素ながらも見事な出来栄えで、そこに満ちる湯気と湯音は、ただの水ではなく、日々の疲れと汚れを洗い流す「癒し」そのものだった。
シマ、ジトー、ザック、クリフ、ロイド、フレッド、トーマス、オスカー――いずれも鍛え抜かれた戦士たち。
誰もが上半身裸で、濡れた肌に筋肉が浮き上がっていた。
一方、ヤコブも後ろに控えていた。
以前に比べればだいぶ肉付きも良くなったが、それでも筋肉の山に囲まれると、明らかに非戦闘員であることが際立つ。
それでも彼は静かに自分の身体を洗い、風呂という文化に真剣なまなざしを向けていた。
ギャラガ、ユキヒョウ、ダグ、デシンス、オズワルド、ドナルド、キーファー、キジュ、メッシ、マーク、アーベ、ズリッグ……シャイン傭兵団と協力者たちが続々と列を作り、その光景はまるで兵士たちの「沐浴の儀式」だった。
そして、湯船に足を入れたシマが、ついに声を漏らす。
「あ゛~~~~~……ふぅ~~……やっぱ、風呂は最高だぜ……」
次々に湯に浸かった男たちの口から、一斉に同じような声が漏れた。
「あ゛~~~……」「うおお、こりゃ……すげえ……」
「……芯まで温まるな」「……はあぁ……しみる……」
「命の洗濯、正に言い得て妙じゃのう」と、ヤコブも感慨深げに目を細めた。
「そんなにいいのか?」
外から見ていたギャラガが問う。
「……ああ、これは入った者にしかわからねえな」
ジトーが真顔でうなずく。
と、そのとき――
「プカ~……」
ザックが湯面に仰向けに浮かんでいた。
全身の力を抜き、まるで水の妖精か何かのように。
「チ○コ隠せよ!」
即座にトーマスが叫んだ。
「汚ねぇもん見せんな!」
フレッドが湯をぶっかける。
「シマ、こういう行為はアリなのかい?」と、困ったように尋ねるロイドに対し、「迷惑にならなけりゃな」とシマは応じる。
「どう考えても迷惑だな……」と、クリフが断言する。
「……なんだよ……せっかく人が気持ち良く浮かんでたのに……」
ザックが不満げに沈み込み、湯の中にぷくりと泡が浮かぶ。
それを見た一同が、わはは、と大きな声で笑った。
しかし確かな喜びを伴って湯に浸かる。彼らの表情は、一様にとろけていた。
「オズワルド、木炭を足してくれ」
湯から出ることなく、シマが声をかける。
「次に入るやつのことを考えて、湯を熱くするんだ」
「なるほどね……お湯が減っているからね」
ユキヒョウが納得したように頷き、背後にいたメッシが黙って薪を運ぶ。
空には雲がゆっくりと流れ、ルナイ川のせせらぎが静かに響く中、湯煙に包まれた男たちの笑い声と満足そうな吐息だけが、ほんのひととき、この小さな村の空気をやさしく揺らしていた。
湯気の向こう、川のせせらぎが静かに響く。
囲いの向こうからは、女湯の方からも控えめな笑い声が聞こえた。
この湯場は、ただの風呂ではない。
仲間たちが力を合わせて作り上げた、小さくも確かな「癒しの場」。
明日からの新しい生活に向けて、ささやかだが大きな一歩であった。
ランタンの明かりが静かに揺れるバンガローの中。
天井には乾かしかけのタオルや薄手の上着がかけられ、木の床にはまだほんのり湯気を帯びた足跡が残っていた。
小さなテーブルには、いつものエールと簡単なつまみが並び、囲炉裏のそばではロイドが静かに干し魚をひっくり返している。
一同は思い思いの姿勢でくつろいでいた。
床にあぐらをかく者、背もたれに寄りかかる者、毛布にくるまる者――そのどれもが、まるで「家」に帰ってきたように、緩んだ表情を浮かべていた。
「でさぁ、お前らの方の風呂、どうだったんだ?」
フレッドが湯上がりで顔をほんのり赤く染めたまま、女湯組に問いかける。
「最高だったわよ」
ケイトがまず満面の笑みで答える。
「湯に浸かるって、こんなにも気持ちいいものなのね」
「ねえシマ、本当にありがとう。あんな素敵な浴槽、作ってくれて」
そう言ったのはサーシャだった。
彼女の声には、ほんのりと湿り気を帯びた感謝がにじんでいた。
「ん……」
シマはちょっと照れたように眉をひくつかせつつ、そっけないようで温かい声で返す。
「俺は作っちゃいねぇよ。作ってくれたのはオスカーたちだ。ちゃんと感謝の言葉、あいつらに言ってやってくれよ」
「ふふっ、ドヤ顔してるくせに~」と、ミーナがからかうように笑い、
「でもほんと、すごく気持ち良かったわ。ありがとうね、オスカーにもちゃんとお礼言うわ」
「あの簀の子?っていうのすごく、良かったわ。熱くなくて!」
メグが笑顔で小さく両手を合わせると、近くにいたエイラも「設計が丁寧だったわね」と頷いた。
シマが湯呑み代わりのカップを掲げると、それに続いて各自が手にしたエールを高く持ち上げた。
その瞬間、ジトーがふと呟くように言った。
「……何だか、いつもよりもエールが美味ぇ気がするな」
「確かに。喉にするりと通るし、身体の中にしみわたる感じ」
ミーナが、カップの縁に口を当てたまま、ほんのり笑った。
「うむ……気のせいじゃろうか?」
ヤコブが隣に座るシマをちらりと見て、真剣な顔でたずねる。
「いや、気のせいじゃねぇよ」
シマが自信ありげに言った。
「風呂に入って、汗を流して、身体の水分が抜けてる。だから自然と水分が欲しくなる。エールがうまいのも当然さ」
「へぇ……」とリズが目を丸くし、「身体がきれいになって、お酒もおいしく飲めて……いいことづくめね」とケイトが言う。
「それだけじゃねぇんだよ」
シマが、少し言葉を選ぶように視線を宙に泳がせる。
「風呂ってのはな、安眠効果がある。あと、ストレス……この世界じゃあんまり言わねぇけど……嫌なこととか、張りつめた気持ちを和らげるっていうか、そういう効果があるんだ。……まあ、簡単に言えば“心が落ち着く”ってことだ」
「なるほどね……そういうの、大事よね」
エイラが真顔でうなずく。
「へぇ、とにかくいいもんってことだな」「さすが私たちの団長だな」
フレッドとマリアがエールをぐいっと飲み干して、げらげらと笑った。
と、そこへバンガローの扉が勢いよく開いた。
「――いやあ、さっぱりしたぜッ!」
先頭に立って入ってきたギャラガが、濡れた髪をタオルでわしゃわしゃと拭きながら、声を張り上げる。
「風呂って最高だな!」
ダグも満面の笑みを浮かべ、濃い眉の下で目尻を下げながら、湯上がりの火照った顔を風にさらす。
「貴族ってのはこういう贅沢を毎日してるんだろう? ちょっとだけ、気持ちがわかる気がするね」
ユキヒョウがいつもの皮肉気味な笑みを浮かべながら、頭巾を脱いで扇ぎつつ席に着いた。
「だろ?」
シマが笑いながら、足を崩して座り直し、ジュースのカップを傾けて見せた。
「だけどな、それだけじゃねえんだぜ――」
そのとき、杯を持って立ち上がったのはザックだった。
いつになく張り切った表情で、どこか得意げな仕草を見せながら、それぞれの手元にエールや果実酒を配っていく。
「ほらよ、ギャラガにはこれな。」
「お、気が利くじゃねえか。ありがとよ」
ギャラガがにっと笑って受け取り、さっそく一口含む。
「――…美味い!」
「おお、美味えな!」
続いてドナルドがエールをぐいっと飲み、素直に驚きの声を漏らす。
「……エールって、こんなに美味かったっけ?」
「まったくだ。これはちょっと……いや、かなり違うな」
オズワルドも落ち着いた声音ながら目を丸くし、カップを見つめる。
その様子にザックはニヤリと笑いながら、腕を組んで胸を張った。
「それはな――身体が水っ……分を欲しがってるからなんだぜッ!」
「……って、お前」
クリフがそばから呆れたように口を挟む。
「それ、さっきシマが言ってたやつな」
「 いやでも、俺の方が感情込めて言ったろ?」
ザックが頭をかきながら笑うと、一同から軽い笑いが起こる。
「真似でもいいさ。いいことは広めるべきだろう?」
ユキヒョウがエールを掲げて微笑んだ。
「そうだな、今夜は乾杯しようぜ。新しい風呂と……この、最高の一杯に!」
ギャラガが高く果実酒を掲げると、皆がそれに倣い、声を揃えて「乾杯!」と叫んだ。
杯が触れ合う音が軽やかに響き、再び囲炉裏の炭がぱちりと弾けた。
湯気の残り香が微かに漂うバンガローの中、仲間たちの笑い声と温かな時間が、ゆっくりと夜を包んでいった。