秘密を知る
月が高く昇る頃、熱気に包まれていた宴は静かに終息へと向かっていた。
かつての戦火を思わせるほどの歓声、酒の回し飲み、肉の焼ける匂いと歌声が響いていた場所は、今や焚き火の爆ぜる音と虫の声だけが残る、穏やかな夜の一角へと変貌していた。
スレイニ族軍の兵士たちは、さながら戦い抜いた勇者のように、次々とその場に倒れ伏して眠りについた。
酒に顔を赤らめたまま、地面にごろんと転がり、こっくりこっくりと舟をこぐ兵士、必死に目をこすって眠気と戦う者、半分意識を飛ばしたまま空の盃を持ち上げる者……それぞれが自分なりの限界と戦い、ついには脱落していく。
「……やっぱ、無理だぁ……おやす……み……」
隣の兵士にもたれかかった兵士が、力なく目を閉じ、鼻から寝息を漏らす。
ジトーとトーマスはそんな兵士をそっと支え、ひょいと担ぎ上げた。
「よいしょ……この人、よく食ってよく飲んでたな。」
バンガローの方へ歩みを進めていく。
ザックとフレッドも、酒比べで意気投合したスレイニの兵士たちを両脇に抱え
「こいつら、最後まで粘ったな……」
「へへっ、飲み仲間としては合格だな」
と笑いながら運んでいく。
クリフやロイド、オスカーたちは、自分たちの酒席から静かに立ち上がり、酔いつぶれた者に肩を貸しながら、整然と後片付けを始めていた。
気づけば、焚き火の近くではヤコブがまだ目を輝かせながら、スレイニ族の文化や薬草の使い方について、数人の兵士たちと語り合っている。
広場の隅、子供たちは既に疲れ果てて眠りにつき、布に包まれて運ばれていく。
ジーグやシンジュらの寝顔はまるで天使のようで、先ほどまでの喧騒がまるで幻だったかのように、静かな安らぎに包まれていた。
奥方たちも徐々に場を離れ、自宅へと戻っていく。
アンジュはふふふと笑いながら「さて、明日に備えて私も寝よっか」
と静かに場を後にし、サーシャやエイラもその背を見送りながら、落ち着いた声で話す。
「楽しかったけど、やっぱり一番は…子供たちが楽しそうだったことね」
「そうね。あの笑顔、見てるとこっちも元気になれるわ」
残った者たちは、焚き火を囲みながらぽつぽつと語らいを続けていた。
シマ、ギャラガ、ダグ、ユキヒョウ、デシンス、オズワルド、ドナルド、キーファー、スタインウェイら歴戦の猛者たちは酒杯を交わしながら、今日一日の騒がしさと平穏を振り返っていた。
「……やっぱ、平和ってのはいいもんだね」
そう呟いたのはユキヒョウ。
焚き火の光が彼の横顔を照らし、表情を少しだけ柔らかく見せた。
傍らではサーシャ、エイラ、ケイト、ミーナ、メグ、ノエル、リズ、マリア、ティア、コーチンたち女性陣も集まり、食器の片付けや子供の寝具の準備を手分けしてこなしていた。
「明日も忙しくなりそうね」
「でも、こんな日が続くといいわ」
そして、カノウ、コウアン、メイテンの三人は、やや離れた場所で、火の扱いや土の練り具合について熱心に語り合っていた。
「やっぱり火は生き物だよ。窯の温度はこいつの呼吸を感じないと……」と語るカノウ。
「この泥、もっと水を引いてから叩いたらもっと締まると思う」と言うコウアン。
それを見て、メイテンが記録帳にびっしりと図を書き込んでいた。
焚き火の明かりから離れた厩舎のそばで、スーホ、リットウ、ノーザの三人は静かに馬のたてがみを撫でたり、蹄を確認したりしていた。
馬の世話を終えると、自然と話題は次に迎える牛や鶏の飼育へ移る。
「牛は広い牧草地が必要だな」「鶏は小屋と餌の管理が鍵になる」
とノーザが真面目に語れば、リットウは「卵が毎日取れたら嬉しい」と笑う。
スーホは焚き火の方を見ながら「動物たちにも居心地のいい場所を作ってやりたいな」と小さく頷いた。
宴の終わりに、音もなく訪れる静けさ。
だがそこには、酒に酔って眠る者たちの安堵と、焚き火のぬくもりに包まれた希望と、仲間たちの深い絆が確かにあった。
やがて、喧噪のすべてが静けさへと変わっていった。
杯を交わす声も、子らの笑い声も、土を踏む足音すら遠のいて、夜は深く、穏やかに降りてくる。
風は凪ぎ、焚き火の煙がまっすぐ空へとのぼる。焔のはぜる音が、かえって静けさを際立たせた。
空を見上げれば、そこには満ちた月がある。
どこまでも丸く、どこまでも澄んだ光をたたえ、この世界のどこにも届くような優しさで辺りを照らしていた。
それは、かつて記憶の中にあった世界で見上げた月と、何ひとつ変わらなかった。
この空もまた、あの空と繋がっているのだろうか――。
夜気はひやりと肌を撫でる。冬の足音がすぐそこにある。
澄んだ大気は、都市の喧騒や排気の影など一切知らない。
透明な冷たさの中、空はどこまでも遠く高く、そして近くに感じられる。
手を伸ばせば、あの月が指先に触れそうな気がした。
ありえぬ幻想と知りながら、それでもそう思わせるだけの静けさと美しさが、確かにそこにあった。
シマがふと手を伸ばしたその瞬間――まるでその指先が、澄んだ夜空に浮かぶ満月へと触れんとしているかのような、幻想のようなひととき。
「手を伸ばして……何をしているの?」
その静けさを破らぬよう、サーシャがそっと尋ねる。
夜気に溶けるような、柔らかな声だった。
「あなたの“前世の記憶”では、人類が月に到達したって言ってたわね」
横からエイラが言葉を重ねる。
驚嘆というよりも、どこか詩的な響きを帯びた語り口だ。
「空を飛ぶだけじゃなくて……月まで行くなんて……信じられないわ」
ケイトが夜空を見上げながら、ぽつりと呟いた。
その目には、月の光が淡く映り込んでいる。
「月に行こうなんて言い出す奴は、まともじゃねえな」
クリフが肩をすくめる。
口調はぶっきらぼうだが、言葉に嘲りの色はない。
むしろ少し、感心しているようにも聞こえた。
「それを言ったら、空を飛ぶことだってそうじゃない?」
ミーナが静かに言う。仄かに笑みを浮かべながら。
「何でそんなこと考えたんだろうね?」
ロイドが首を傾げながらつぶやく。
理解を越えた発想に、純粋な興味を隠せない。
「お前が言う“前世の記憶の人間”って、変な奴ばっかりなのか?」
フレッドが怪訝そうに眉を寄せて尋ねる。
隣でザックが、「シマも変だしな」とすかさず付け加える。
「お前ら、ひどくね?」
ジトーが苦笑しながら割って入る。
「もうちょっと言い方ってものがあるよ」
オスカーも肩をすくめてフォローを入れる。
「はっきり言いすぎだろ」
トーマスが呆れたように言いながらも、どこか楽しげだった。
「私のお兄ちゃんが奇人変人だって言いたいわけ!?」
メグが頬をふくらませて抗議する。
顔は真剣なのに、どこか微笑ましい。
「奇人変人……って、そこまでは言ってないでしょう?」
ノエルがなだめるように言葉を選ぶ。
「いや、何気にメグが一番酷いこと言ってない?」
リズがクスクスと笑いながら突っ込むと、場が和やかな笑いに包まれる。
そしてその輪の中で、ヤコブが目を細めながら、
「ほっほ、ワシも祖国では“変人”と呼ばれておったよ。常人には理解できぬことを好むと、のう……」
と得意げに語り、まるでその称号を誇りにすらしているようだった。
誰もが空を見上げ、丸い月に思いを馳せていた。
冗談を言い合いながらも、心のどこかで、その月に触れたいと――願っているのかもしれなかった。
月や空の話にわき立っていた輪の外、しばらく黙って聞いていたギャラガがぽつりとつぶやいた。
「……な、何を言ってるんだ……?」
その声はまるで夢から覚めかけた者のように、現実に引き戻そうとする響きを帯びていた。
「空を……飛ぶ? 月……月に……到……達?」
その横で、ダグとドナルドも目をしばたたかせながら、同じように呟いた。
彼らにとって、それは突拍子もないどころか、理解の埒外にある話だった。
少し離れたところにいたオズワルドが腕を組んで、じっとシマたちを観察していた。
マリアは眉をひそめ、キーファーは唇をかすかに歪めている。
「……こいつら、大丈夫か……?」
彼らの目には、まるで神がかりの妄言でも聞かされたような、微妙な不安と困惑が浮かんでいた。
デシンスは、呆気に取られたように口をぽかんと開けたまま、言葉も出ない。
まるで子どもが初めて空を飛ぶ夢を見た時のような顔をしていた。
そんな中、ただ一人、ユキヒョウだけが興味深げに目を細めていた。
そして、シマの表情をじっと見つめると、にやりと唇の端を持ち上げた。
まるで、謎が解けたとでも言うように。
シマは皆の前で、切り株に腰を下ろした。
冷えた夜気が頬を撫で、満月の白い光が彼の背を照らしていた。
その静寂の中で、彼はぽつりと語り出す。
「俺には、前世の記憶がある」
一瞬、空気が張り詰めた。
「信じろとは言わねえ。でも、俺の中にはもう一つの世界がある。生まれるよりも前……どこか遠くて、この世界とはまるで違う文明の中で、人々が暮らしていた世界だ」
言葉は静かで、だが確かな重みを持っていた。
「その世界の人間たちは、空を飛ぶための鉄の鳥を作った。海を渡り、山を越え、空へと舞い上がった。そして……地を越えて月にまで辿り着いた」
ギャラガが眉をひそめ、ダグは頭を抱え、ドナルドが「まさか」と呟く。
マリアは半信半疑のまま目を逸らし、キーファーは地面をじっと見つめている。
だが、ユキヒョウだけが頷いた。
「……なるほどね。そういうことか。君の持ってる、あの妙な知識や感覚……全部、その“前世”ってやつから来てたんだね」
他の者たちが驚きの視線を向ける中、ユキヒョウはただ、楽しそうに笑った。
「誰も知らない事を知ってたわけだ。妙に実戦的で無駄のない発想……妙に理屈っぽい思考……ようやく腑に落ちたよ」
シマはかすかに笑みを浮かべて、夜空を見上げる。
「信じても、信じなくてもいい。ただ、俺はこの世界で、あの記憶を少しでも生かしてやりたい。それだけだ」
再び空を見上げる者、まだ戸惑いを拭えない者、黙して考える者――
誰もが、その言葉の意味を、それぞれの胸に刻んでいた。
夜は静かに、更けていった。
月は、ただそこにあった。
シマが語った通り、かつて人がその足で立ったという、ありえないほど遠く、手の届かない場所に。




