帰路2
朝の陽光が応接間の高窓から差し込み、重厚な木製の机と古びた旗が静かにその光を受けていた。
スレイニ族の軍宿舎の一室、応接間には、精鋭の兵士たちによって慎重に運ばれた二部の書状が置かれていた。
内容は、不可侵条約と交易の自由の承認――それぞれの独立を尊重し、互いに武力を行使しないこと。
そして、自由な物資の往来を認めること。
机を挟んで座ったシマとハンは、それぞれの筆を取り、静かに書面に名を記した。
「……これで、正式に結ばれたわけだな」
「うん。そうだね。シマ」
ハンは穏やかな笑みを浮かべながら、自然に彼の名を口にした。
「……ハン」シマもまた、ゆっくりとその名を呼び、互いに右手を差し出す。
握手が交わされた瞬間、周囲から静かな拍手が起こった。
続いて、簡素ながら温かみのあるささやかな宴が始まった。
長卓には再び料理が並べられ、昨日に比べれば控えめながらも、酒と笑いが場を和ませていた。
「シマ、ジュースでいいかい?」とハンが声をかける。
「……ああ、ありがとう」
シマは小さく笑って頷いた。
昨日の宴で自分が酒を飲まなかったことを、ハンはきちんと覚えていてくれたのだ。
何気ない気遣いだったが、確かに彼の誠意が伝わった。
「それでね」ハンが改まって口を開いた。
「僕たちの方から牛10頭と雌鶏100羽を、友好の証として贈りたいんだ。受け取ってくれるかい?」
「気持ちはありがたいんだが……」とシマが眉を下げる。
「スタインウェイさんのところから買うって話になっててな」
するとスタインウェイが豪快に笑いながら口を挟んだ。
「問題ねえよ。軍がうちから買い取った。あとは好きに使ってくれて構わねえ」
「……そうか、それならよかった」
シマは安堵し、微笑んだ。
その代わりに、とシャイン傭兵団が持参していた布地や、調味料の詰め合わせが贈答品として差し出された。
対価としては釣り合っていないものの、心のこもった品々だ。
ハンはそれを受け取り、手にしたスパイスの瓶を一つ掲げて、「これは料理担当に回しておくよ」と冗談めかして笑った。
シマは心の中でそっと胸をなでおろした。
(……これで、エイラたちの要望にも応えられるな)
移住地の再建――そこに必要な資材や物資を整えるには、やはりこうした実利を伴う友誼が何よりも強い力になる。
宴は穏やかに続き、これまでの緊張が少しずつ、確かな信頼へと変わっていく時間となっていった。
軍宿舎の応接間。条約締結と宴が一段落し、杯を手にしたまま腰を落ち着けた一同。
そんな中、ダグが無造作に口を開く。
「……ゼルヴァリアとは、今はどうなってるんだ?」
低く投げられたその問いに、少し間を置いてヒルが応じた。
「ヴァンの街を境に、国境線を築いてる最中だ。そこをひとつの線として、こっちとあっち、はっきり分けてる」
ダグが眉をひそめる。
「争ったりはしてねえのか?」
「さすがに今はねえよ」ヒルは肩をすくめた。
「戦争が終わったばかりだしな。向こうもボロボロ、余裕なんかあるわけがない。こっちも同じだ――手に入れた土地を治めるだけで精一杯だよ。幹部連中の大半は、そっちの統治に駆り出されてる」
横でワインを傾けていたヤコブが、ふむ、と頷く。
「じゃろうのう。戦争とは金がかかるものじゃ。武器、食料、兵士の維持、すべてに金がかかる。早々、次の戦は始められん。手に入れた土地、集落、村、町――そこに住む者たちを説得し、スレイニ族の領土であることを納得させ、納税を教えねばなるまい。……時間も、人手も、骨が折れる作業じゃ」
「……だな」ヒルは酒杯を軽く振ってから、にやりと笑った。
「正直な話、俺はハンの護衛隊長で助かってるよ。戦の後始末なんざ、俺には向いてねえ。戦うことしかできねえからな」
その言葉に、ダグやトーマスがふっと笑みを漏らす。
「らしいな」とダグがぽつりと返した。
スレイニ族もまた戦を終え、次なる戦い――“平時の戦”に足を踏み入れていた。
軍神の一団と称された者たちの前で、彼らもまた懸命に未来を築こうとしている。
その姿に、シャイン傭兵団の面々は少なからず、共感と理解を抱き始めていた。
場の熱気が少し落ち着いた頃、ふと沈んだ声でオズワルドが呟いた。
「……だが、これからが大変だな。ゼルヴァリアの戦士だった俺が言うのもなんだが……あいつらがこのまま黙ってるわけがない」
その言葉に、応じるようにヒルが口を開く。
「かかってくれば、蹴散らしてやるさ。あいつらは“軍”と“個”の違いってもんが分かってねえ。頭数ばっか揃えて満足してる」
「そう言われると耳が痛いな」
オズワルドが苦笑いで肩を竦める。
すかさずダグが、口の端を上げて問う。
「“化け物”対策は考えてんのか?」
「――そこなんだよな、問題は」
ヒルが少し真面目な表情に戻る。
「ゼルヴァリアには、時々わけの分からねえ、とんでもねえ奴らが出てくる。あの爺さんもそうだ」
「マクレガー・ゼンのことだね」
口を挟んだのはユキヒョウ。
ヒルは頷いた。
「お前もな。たしか……武闘会? 闘技会? あの爺さんと引き分けたんだろう?」
「三年前の話だよ」ユキヒョウが薄く笑う。
「今なら僕の方が強い。あの時の僕とは違う」
「ヒュ~……おっかねえなあ」
ヒルが茶化すように口笛を吹き、場に笑いが広がった。
だが、すぐにユキヒョウが静かに言葉を続ける。
「……ゼルヴァリアとダグザ連合国の戦争を本当に終わらせる方法、あるよ」
「……なんだって?」
皆の視線が一斉にユキヒョウに集まる。
「簡単さ。シマが“総統閣下”になればいいのさ」
言葉のあまりの突飛さに、一瞬沈黙が走る。
「シマたちなら勝てるよ。戦争を止められる。シマだけじゃない、ロイドも、トーマスも。シャインの誰が出ても今の総統に勝てる。……だって僕が闘ったから分かるんだ、今代の総統閣下とね」
その発言の重みに、皆が押し黙る。
場を包むのは冗談とも真実ともつかぬ、妙な現実感だった。
ただの冗談にしては、ユキヒョウの声に確信と覚悟が宿っていた。
そして誰もが知っていた――シャイン傭兵団が、“軍”以上の力を持つことを。
陽が高く昇った昼下がり、シャイン傭兵団はスレイニ族の町をあとにし、チョウコ村へと帰路についた。道中を護衛するのは、スレイニ族軍の兵士70名と馬車15台という大所帯。
その陣列の先頭には、スレイニ族の軍旗がはためいていた。
金と赤を基調とした豪奢な旗に、通り過ぎる人たちが目を見張る。
しかし、その一行の責任者として誰が立っているのかを見たとき、傭兵団の面々は思わず声をあげた。
「おい、なんでオヤジが責任者なんだよ? 軍に属してるわけでもねえだろ?」
ダグが眉をひそめてスタインウェイを睨む。
スタインウェイは飄々と肩を竦めて言った。
「族長の命令だからな。それに…暇だしな!」
ヒルはというと護衛隊長であるため、ハン族長の傍を離れることができず、今回の行軍には参加していない。
とはいえ、スレイニ族軍が掲げる軍旗の効果は大きく、道中、どの村でも一行は手厚く迎え入れられた。スレイニ族が送った牛や雌鶏は、荷車に積まれつつも、休憩のたびに放牧され、軽く運動させられるなど、丁寧に扱われていた。
シマの指示で鶏にも風通しの良い小さな囲いが設けられ、健康状態の確認が欠かされなかった。
一行は旅の途中、いくつかの町や村に立ち寄ったが、そこでの買い物はすっかり“祭り”のような様相を呈していた。
「獣皮はまだみんなに行き渡ってねえから、買っていこうぜ」
トーマスが指さすのは、厚手の上質な毛皮。
「そうだな。防寒対策しっかりしとかねえとな」
シマが頷くと、数人の兵士がそれを荷車へ運ぶ。
「ふむう、珍しい香草じゃのう……この薬草は見たことがないぞい。うむ、この色と形……粉末にして保存も利きそうじゃな。いろいろと試さねば! シマよ、買ってくれ」
ヤコブはまるで宝石でも見つけたかのように目を輝かせる。
「分かった分かった」
シマが苦笑しながら布袋を開いた。
ロイドはというと、広げられた色鮮やかな民族衣装に目を奪われていた。
「リズがこれ着て踊ったら映えるだろうな~……おっ、あっちのやつもいいね!」
「両方買えばいいだろ」シマが笑う。
「ついでにサーシャや女性陣の分も、あと婦人方の分もな」
「おお、その方がいいね!」ロイドが満足げに頷く。
ユキヒョウは色糸で編まれた敷織物を見ていた。
「これ、各家庭に敷いておきたいね。文化の交流は、足元から始めるのがいいんだよ」
「そうだな」シマが応じ、また布袋の口が開かれる。
オズワルドが指さしたのは、干し果実に甘味を加えた菓子や、ミルクを煮詰めた濃厚なキャラメル状の甘味。
「これも買いだな。きっとみんなに喜ばれるぞ」
「そうだな」
「馬乳酒も買ってこうぜ。宴の時には欠かせねえ」
ダグが声を上げると、トーマスが応じる。
「酒はいくらあっても困らねえからな!」
「そうだな」
……気づけば、馬車の荷台は旅の土産や補給物資でぎゅうぎゅう詰めになっていた。
各地で買い求めた物品の量はとどまるところを知らず、配達人たちも目を丸くするほど。
そして――エイラから預かっていた200金貨の袋は、残すところ11金貨になっていた。
「……おい、誰だ、こんなに買いまくったのは」
「お前だろ、シマ」と全員が突っ込んだ。
その声にシマは肩をすくめて言う。
「……まあ、必要経費ってことで。これで、サーシャたちも喜ぶだろうしな」
シャイン傭兵団の帰還は、豊かな笑いとたくさんの荷物と共に、着実に進んでいた。




