不可侵条約
温かい香りが広がり、豪勢な料理が並べられていく。
熱々の羊肉のスープに、手打ちの麵がたっぷり浮かび、香草とともに湯気を立てていた。
これを見た瞬間、シマの目がふっと輝いた。
「……麵か」
誰に言うでもなく呟くその声には、確かな喜びが滲んでいた。
「麵好きだったのかい?」
ロイドが肩越しに声をかけると、「ん、まあ、嬉しいな」
シマは短く答えたが、そのトーンが明らかに弾んでいた。
次々と運ばれてくる料理――
潰したての羊のマトンは骨付きでじっくりとローストされ、外は香ばしく中はしっとりとジューシー。
厚切りのバターがとろけるパンに、山盛りのチーズ、焼きたての卵料理。
そして、少し酸味のある馬乳酒が卓上にずらりと並ぶ。
ハンは笑顔で言った。
「どうぞ、遠慮なく召し上がってください。」
その一言に、シマ、ロイド、トーマスの三人が同時にニヤリと笑った。
「あー……言っちまったな」とダグ。
「後悔しても知らねぇぞ」
トーマスが悪戯っぽく言う。
ハンはきょとんとしながらも、皆が手を伸ばすのを見てほほ笑んだ。
が――その後、彼は目の前で繰り広げられる「食の戦場」に、ただただ圧倒されることとなる。
シマは無言で次々と麵をすする。
あれだけ冷静沈着な男が、まるで子供のように幸せそうな顔をして、麵を啜っている。
ロイドはパンと肉を交互に頬張り、トーマスはチーズをパンにのせ、さらにマトンを包み込み、もはやサンドの域を超えた塊にして豪快にかぶりついていた。
ヤコブとユキヒョウ、そしてダグとオズワルドは、苦笑を浮かべながら静かにフォークを進めていた。
「……想像の五倍は食べるな、あいつら」とオズワルド。
「しかもまだ酒に手をつけておらんのにこのペースか……」とヤコブ。
シマは酒を一切飲まず、食事に集中していた。
だが、食べる量と速度は誰よりも貪欲だった。
ハンたちの顔には次第に驚きが浮かぶ。
料理人の数人は慌てて次の皿の準備に走っていた。
スタインウェイが腹を抱えて笑う。
「ガッハッハッ! いいぞいいぞ、もっと食え! こりゃ愉快だ!」
その隣では、まだ若い護衛の一人が呆然と口を開けて見入っていた。
ぽつりと、その男が言う。
「……怪物……」
「ん?」とトーマスが手を止めた。
「怪物……?」
「ッ……あ、いやっ! ち、違うんだ! そ、その、悪気はねえ! 言葉のあやっていうか!」
慌てて弁解する護衛に、ヒルが鋭い目でにらむ。
「余計なことを言うなって言っただろうが……!」
ハンが笑いながら手を挙げて止める。
「大丈夫、気にしないで。フフ……実は僕たちの中では、君たちのことを“怪物”とか、“軍神の一団”とかって呼んでいるんだ。」
その言葉に、オズワルドが素直にうなずく。
「間違いねえな。」
「だが、まだまだ認識が甘いぜ」
ダグが指をチッチッと振る。
「共同生活をして初めて知ることもあるってことさ」
ユキヒョウが静かに付け加えた。
空気が和らぎ、皆が思わず笑い合うなか、ハンがふと真面目な顔で言う。
「そういえば……ゼルヴァリアでも屈指の《灰の爪傭兵団》、《氷の刃傭兵団》が、シャイン傭兵団に加わったんだよね。」
「お前らのことも調査したからな」
ヒルが言い添える。
その時だった。
オズワルドが低く問いかける。
「……《大嵐傭兵団》も加わった、という情報は?」
「!……そんな情報は掴んでねえ!」
驚いたようにヒルが答える。
直後、シマたちが一斉に笑い出した。
「知らなくて当然だな」と、トーマス。
「オズワルドとマリアだけだからね」
ユキヒョウが軽く肩をすくめる。
「《大嵐傭兵団》は――お前らに壊滅させられたんだよ。スレイニ族軍に。」
静まり返った空気の中で、ダグが淡々と、しかし確かな重みを持って言い放った。
その声は大声ではないのに、全体に染み込むように響く。
笑いの余韻が消え、ハンや護衛たちの表情が一瞬で強張る。
自分たちが過去に倒した相手が、今ここに座っている――その事実が全員の背筋をぞくりと撫でた。
だが、シマもロイドも、何事もなかったかのように食を進めていた。
空気が一変したその刹那、鋭くそれを察知したユキヒョウが、静かに口を開いた。
「僕たちは傭兵団だからね。味方になることもあれば、敵になることもあるよ。」
その言葉は、場に重く響く緊張を和らげるようでいて、真実の重さを突きつけるものであった。
続けてダグが、肩をすくめて言う。
「ただし、俺たちは安くはねえぞ。」
鋭くもどこか誇らしげなその言葉に、スタインウェイが愉快そうに笑い声を上げた。
「ガハハッ! 言うようになったなあ、ダグ!」
「実際その通り…いや、それ以上の戦闘力を持ってるからな」
オズワルドが真面目な顔でうなずく。
するとハンが乗るように立ち上がり、目を輝かせて言う。
「今すぐ、僕たちと契約を結ぼう!」
「大賛成だ!」
即座に叫ぶヒル。
(冗談じゃないよ…! シャイン傭兵団が敵に回ったらなんて…考えたくもない)
(こんな怪物たちを相手にしてたら命がいくらあっても足りねえ!)
ハンとヒルの脳裏に同時に浮かぶ、冷や汗混じりの本音。
だが、当のシマはあっさりと肩をすくめた。
「…うーん、契約と言ってもなあ。」
「今、僕たちは村を再建している最中なんです」
ロイドが説明を添える。
ハンは軽く頷きながらも眉をひそめる。
「君たちがシンセの街に入ったところまでは足取りをつかめているんだけど…その後の情報はまだ入ってきていないんだ。」
それを聞いたトーマスがニヤリと笑い、問いかける。
「そんなにベラベラ喋っていいのか?」
ハンは真っ直ぐに彼を見つめ、静かに言った。
「信用してもらうには、包み隠さず話した方が得だよ。」
数秒の沈黙の後、シマが小さく息を吐いて告げる。
「……《チョウコ村》だ。」
その言葉が落ちると同時に、場の空気が再び動いた。
ハンのもとに秘書官がすっと近づき、耳元で何事かを囁く。
ハンは少し目を見開き、手元の資料に目を落とすと、驚いたように呟いた。
「……放棄された村?ここからも、そう遠くない……三、四日で着くって言ってるけど、本当かい?」
問いかけられたシマは、グラスを置き、静かにうなずいた。
「ああ、本当だ。道さえ間違えなければ、それくらいで着く」
「そんなもんだな」とダグが肩をすくめ、「よく調べてるな」とオズワルドも感心したようにうなる。
「それで、牛や鶏が欲しかったわけか」
言ったのはスタインウェイ。
ダグがニヤリと笑いながら言う。
「まぁ、そういうことだ」
「再建中なら、これからもいろいろと入り用だろ?」とヒルが続けた。
するとヤコブが杯を置いて、柔らかな声音で言葉を挟む。
「まずは交易相手として、友誼を深めていってはどうかの。共に助け合える関係を築いていくのが肝要じゃ」
その提案にハンは一瞬考え、目を細めて小さく笑った。
「……それも悪くない。でもね、君たちだけは、絶対に敵に回したくないんだよねえ……」
その言葉に、一同が少しばかり笑いをこらえる空気になった。
スタインウェイが呆れたように言う。
「お前ら、どんだけ恐れられてんだ?」
「親父は、戦場でこいつらを目の当たりにしてねえからなあ……」
ヒルが肩をすくめる。
すると、近くに控えていた数人の護衛たちも、しみじみと頷いた。
その様子に、シマたちは苦笑いを浮かべる。
そして次の瞬間、ハンが真顔でぶっ飛んだ一言を放つ。
「いっそのこと、僕たちも……シャイン傭兵団の傘下に加わろうか」
その場が一瞬、静まり返る。誰もが冗談かと見たが、ハンは真面目な顔をしている。
その顔を見て、トーマスが吹き出した。
「冗談にしちゃ、顔が本気すぎるぜ……!」
一同がどっと笑いに包まれる中、どこか本気を孕んだハンの瞳が静かに揺れていた。
「不可侵条約でどうだろうか――それだけでは味気ないから、交易の自由を認める一文も足しておこう。」
ハン・スレイニは真剣な眼差しでゆっくりと頷く。
「なるほど……互いに独立を尊重し、侵略行為を行わないこと……と解釈してもいいのかな?」
シマは淡い笑みを浮かべながら答えた。
「その理解で間違いない。俺たちの間では自由に交易路を通し、村だろうと都市だろうと、行き来できるようにするんだ。」
ハンは少し視線を落とし、考えるように眉を寄せる。
「同盟までは……さすがに、まだ難しいですね…」
静かな吐息とともに顔を上げ、灯りに照らされた表情は真摯だった。
「たとえ“共存共栄”という目的は同じでも、お互いまだ何も知らない。規模も、状況もまるっきり違うだろう?俺たちは村ひとつ。でもお前たちは、ダグザ連合国の中でも大きな勢力だろう?だからこそ、まずは信頼の礎を築く必要がある。不可侵と交易の約束を交わし、お互いの実力と誠意を示してから、次の段階――同盟や協力体制へ進むかどうかを判断しよう。」
ハンは深く息を吸い、シマに視線を戻した。
蝋燭の炎が二人の影をゆらゆらと並べ、将来の地図を描くように、静かに盟約の第一歩が紡がれていった。
「明日、この条約を正式に締結するということでいいかな?」
火を灯したような眼差しで見つめるその真剣な声音に、シマは力強くうなずく。
「ああ、それでいい。明日、互いの意志を文に刻もう。」
その場に立ち会っていた面々は、互いに視線を交わし、わずかに緊張を緩める。
すると、シマがふと辺りを見回し、軽く眉を上げた。
「ところで……俺たちの馬車や荷はどうなってる?手はつけられてねえだろうな?」
それに答えたのはヒルだった。
腕を組んだまま、すぐさま安心させるように言う。
「ちゃんと兵士たちに見張らせてある。安心しろ。お前たちの荷物には誰一人、指一本触れさせてねえよ。」
ハンも笑みを浮かべ、周囲に手を広げる。
「それと、この軍宿舎――もし気に入ったのなら、寝泊まりに使って構わないよ。設備も悪くないはずだし。」
それを聞いたシマは、やや意外そうに目を見開き、すぐににやりと口元を緩めた。
「お、いいのか。なら、お言葉に甘えさせてもらうぜ。」
トーマスが「やったぜ」とでも言いたげに隣で笑い、ロイドが静かに頷く。
ヒルは頷き、すぐさま護衛の一人を呼びつけた。
「シャイン傭兵団の馬車をこちらに移動させろ。目立たない場所でも、きちんと見える位置に止めるようにな。」
護衛が敬礼して走り去るのを見届けると、ハンは背筋を伸ばし、その場の全員に向けて声を張った。
「――聞け!シャイン傭兵団は、これより我らスレイニ族の賓客として遇する! そのつもりで接するように、心得ておくように!」
その言葉に、兵たちが一斉に姿勢を正し、真剣な表情で頷く。
辺りに響くのは、暖かさと緊張がないまぜになった静寂。
そしてその中心に立つシマたちの姿は、まさしく“客”ではなく、同じ未来を見据える同志として映っていた。
シマはふたたび皿の上に目を落とし、香ばしく焼かれたマトンを一切れ、無言で口に運ぶ。
咀嚼しながら、次のパンに手を伸ばす。
まるで「まだまだ食うぜ」と言わんばかりの気迫が背中から滲み出ていた。
その様子に触発されたように、トーマスが豪快に笑いながら馬乳酒を煽り、杯を置いた瞬間、すぐさま次の杯が満たされる。
ロイドも口元に笑みを浮かべながらバターの乗ったパンを頬張り、ダグとオズワルドは無言でだが淡々と肉を切り分けていく。
一方、ヤコブはといえば、ハンの側にスッと現れ、にこやかに問いかけた。
「……ワインなど、一本いただけたりしませんかな?」
「はは、…持ってきてくれるかな、良いのをね」
ハンが笑い、秘書官に命じる。
気づけば、長卓には次々と料理と酒が運ばれ、人々の顔に赤みが差し、場の空気がなごみ始めていた。
当初は「怪物」「軍神の一団」と、遠巻きに語られ、恐れられていたシャイン傭兵団。
スレイニの兵や官吏たちも、最初は距離を取っていた。
だが、宴が進むごとに――目の前の彼らが、冗談を言い、笑い、口にソースをつけては照れ笑いする、どこにでもいる“人間”であることに気づいていく。
トーマスが笑いながらパンを吹き出せば、ヒルもつられて笑い、護衛の一人が「俺も腹減ってきた」と呟けば、ロイドが肉を一切れ分けてやる。
ユキヒョウが冷静に周囲の様子を観察しながら、「戦場以外では……こういうのも悪くないね」とぽつりと呟いた。
そう、戦場では“異物”であっても、宴の席では“同じ人間”なのだ。
その夜、杯が重ねられるたびに、恐怖は敬意へと変わり、敬意はやがて親しみへと姿を変えていった。




