呼び出される?!
薄暮の時刻。
元ホルン族の地にある町の中央、兵舎と役所の間にある素朴な木造の食堂には、警備任務を終えた兵士たちが集まり、飯と酒を囲んでいた。
羊肉と根菜の煮込みから立ち上る湯気、陶器の杯に注がれた麦酒の泡。
そこには疲れとともに、どこか穏やかな日常の空気が流れていた。
だが、その一角で、ひときわ濃い眉の若い警備兵が、手にした木皿のスプーンを止めていた。
視線は遠くに定まり、皿の中の肉を刺すことも忘れている。
「……なあ、ユール」
低い声で、向かいの席にいる同僚に語りかける。
「ん? なんだよ、ヒサム」
器から骨付きの肉をかじりながら、同僚が応じる。
「今日、入ってきたあの旅の一団の中にいただろ……でけぇ大男。お前、見たか?」
「大男? ……ああ、いたな。でけぇ盾とハンマー背負ってた奴だろ? ったく、あんなもん持ち歩ける筋肉なんてどうやって鍛えるんだってレベルだったな。武器もすげぇ手入れされてた……間違いなく、ただの旅人じゃねえよ、ありゃ」
その言葉を聞いて、ヒサムの顔色がさらに険しくなった。
麦酒の杯を置き、重々しく口を開く。
「……ッ! いや、アイツ……間違いねぇ。『ヴァンの戦い』でゼルヴァリア側にいた奴だ。あの大楯と体格……あの目つき……絶対に見間違えるわけがねぇ!」
ユールが手を止め、顔を上げた。
「は? 本当かよ……?」
「俺は……あの戦いで、第三陣の前衛だった。槍を握って、震えながら備えてたんだ……。その時、前に出ていた第一陣も、第二陣も――“三人の大男”に蹴散らされたんだ。いや、吹き飛ばされたんだ……!」
その語気に、周囲の兵士たちも次第に箸を止め、二人の会話に耳を傾け始める。
「三人とも、あの大楯を振り回して……人間の体力じゃねぇって思った。俺、その一人の顔、焼きついてんだよ。忘れるもんか……その中に、間違いなく“あの大男”がいたんだ!」
ユールは絶句するように固まり、しばし言葉を失った後、低く問いかけた。
「……じゃあ、お前が見たのは――ゼルヴァリアの“怪物”の一人ってことか?」
ヒサムは無言で、重く、頷いた。
数秒の沈黙ののち、ユールが素早く立ち上がる。
「……こうしちゃいられねえな。ハン総司令官に伝えるぞ。すぐにだ!」
二人は慌ただしく木皿の代金を銅貨で卓上に置くと、食堂の戸を荒々しく開けて外へ飛び出していった。夜風が吹き込む中、食堂の空気が一瞬にして張り詰める。
“ヴァンの戦い”――あの名が、今この町に新たな波紋を呼ぼうとしていた。
スタインウェイ家の客間は、素朴ながらも居心地の良い空間だった。
手織りの敷物が床に敷かれ、壁には狩猟の槍が飾られている。
暖炉には静かな炎が揺れ、茶の香りが仄かに漂っていた。
「おう、ババア、久しぶりだな」
ダグが口を開いた。気取ったところの一切ない、どこか突っ張った言い方。
それを聞いて、スタインウェイ夫人は呆れたように眉を上げ、すぐに笑みを浮かべた。
「……相変わらず口の悪い子だね、アンタは」
言葉こそ呆れ口調だったが、その瞳には懐かしさと優しさがにじんでいた。
そのやりとりを見て、シマとユキヒョウは静かに微笑んだ。
ダグは顔を少しそらすようにして、「へっ」と肩をすくめる。
この家には、ダグが十歳の頃に引き取られたという過去がある。
だが、彼は一度も「母さん」とは呼ばなかった。
気恥ずかしさ、言葉にすれば距離が縮まりすぎてしまいそうな恐れ、そしてどこかで「本当の親ではない」という遠慮。
だが、それをスタインウェイ夫人も分かっていた。
そして、一度もそれを責めることはなかった。
「まったく、生きてるなら手紙の一つでも寄越せばいいものを」
お茶を卓に置きながら、夫人がふと呟く。
声に怒気はなく、寂しさと安堵が入り混じっていた。
「まあまあ、いいじゃないか。元気な顔を見せに戻ってきたんだ」
スタインウェイが大らかに窘めた。
ひと息おいて、彼はどこか含みを持った口調で言った。
「さっきは『とっくに死んでるもんだ』なんて言ったがな……聞いてるぞ、お前、ゼルヴァリアでも有名な傭兵団の副団長をやってるっていうじゃねえか」
それを聞いて、夫人が笑いながら付け加える。
「この人ってば、なんだかんだ言いながらアンタのこと、ずっと気にかけていたのよ。口じゃ強がっててもね。まったく、昔から素直じゃないんだから」
「……ハハ……いや、まあな……」
そう言いながら、スタインウェイは少し頬をかいた。
目をそらし、わざとらしく咳払いをする。
「ゴホンッ……お前が十八で出て行って……もう十四、五年か? あまりの変わりようで、おどろいたろう?」
スタインウェイが茶碗を手に笑う。
その姿はどこか、懐かしい父親のようだった。
「ああ……正直言って、ぶったまげたぜ」
ダグもまた、肩の力を抜いたように笑う。
暖かな笑い声が、家の中に満ちていった。
長い年月の空白が、少しずつ、確かに埋まりはじめていた。
「今、俺は《シャイン傭兵団》ってところにいる」
談笑の最中、ふとダグが言った。
「団長はこいつだ」
そう言って、隣に座っていた黒髪の青年――シマを顎で示す。
青年は立ち上がり、軽く頭を下げた。
「シャイン傭兵団、団長のシマです」
その姿勢は控えめでありながらも、どこか揺るぎない芯を感じさせた。
言葉に虚勢も、過剰な自信もない。
スタインウェイはじっとシマを見つめ、その顔にゆっくりと笑みを浮かべる。
「ほう……この若者が、団長か」
年季の入った声が低く響く。
「よく、この若者の下に付くことを選んだな?」
茶をすすりながら言うその声に、どこか感心とからかいの混ざった響きがあった。
「まあな」ダグが笑う。
「こいつは――いや、こいつらは、とんでもねえやつらでな。下手すりゃ国ごと動かすくらいの連中だ。そのうち、嫌でも《シャイン傭兵団》の名を聞くことになるぜ」
その言葉に、スタインウェイは「ふん」と笑い鼻を鳴らした。
スタインウェイ夫人もまた、どこか誇らしげな目でダグを見ていた。
「――っと、それより、オヤジ」
ダグが身体を乗り出し、声を低くする。
「牛と鶏を売ってくれよ。できれば元気なやつをな」
スタインウェイは眉を上げる。
「いいぞ。物か金次第だがな」
そう言った矢先、シマがふと眉をひそめた。
――外が、騒がしい。
かすかに馬の嘶きと、兵の怒声が風に乗って届いてきた。
「へえ……オヤジも随分と物分かりが良くなったもんだ」
ダグが笑う。
「昔は“部族の財産だ、そう簡単に出せるか”なんてほざいてたくせによ」
「時代の変化ってやつだな」
スタインウェイは言いながら、椅子の背にもたれた。
「この町も――いや、ここいら一帯も変わったのは、この2、3年のことだ」
「そうよ」スタインウェイ夫人がすかさず言う。
「あれもこれも、ハン君のおかげよね」
「そうだな」
スタインウェイが顎に手をやり、しみじみと呟く。
「ハンの小僧がここまでやるとは思わんかったが……あいつの目は、昔からなかなかだった。自分の言葉に責任を持つ男だったよ」
言葉の端々に、頑固者だった族長の、認めざるを得なかった心情がにじんでいた。
時代は確かに変わっていた。武力だけではなく、人の力で町が動くようになった。
そしてまた、外の喧騒が一層強くなる。
重く力強い音が木の扉を叩いた。
「スタインウェイさん!」
低いがよく通る声が、外から呼びかけてくる。
居間の空気が一瞬止まる。
スタインウェイ夫人が不思議そうに眉を寄せた。
「……何事かしら」
そう言って立ち上がり、エプロンの裾を軽く整えてから、扉へ向かう。
軋む床を歩くその足取りは落ち着いていたが、声の調子にただならぬものを感じたのか、内心の警戒は拭えなかった。
ガチャリと扉を開けると、そこには若い兵士が二人、きっちりと軍服を着て直立していた。
兵士の一人が礼儀正しく頭を下げる。
「ご婦人、失礼いたします。ハン総司令官より、ダグ殿とそのご一行にお越しいただきたいとの伝言です。なるべく、丁重に――とのことです」
スタインウェイ夫人は表情を崩さぬまま頷き、短く「お待ちくださいな」とだけ言い残して扉を閉じた。
居間に戻ると、夫人は皆を見回しながら落ち着いた声で言った。
「ハン君が、ダグ――あなたたちに用があるらしいわ」
「……なんだと?」
スタインウェイが椅子から身を乗り出す。
「ダグ、お前……ハンの小僧と顔見知りなのか?」
「いや」
ダグが即座に首を横に振った。
「会ったこともねえ」
「では、どうやってお前の名前を知ったんだ……?」
スタインウェイが眉間に皺を寄せ、思案深げに呟く。
シマも、無言で外の気配に意識を向けていた。
周囲の騒がしさには、明らかに警戒心が漂っている。単なる来訪とは思えない。
「外にいた奴らは、なんと言ってきたのだ?」
スタインウェイが夫人に向かって訊く。
「“ハン総司令官から丁重にお連れするように”って。それ以上のことは何も言われなかったわ。……あの子たちも詳しいことは知らないみたい」
「なるほどな……」
スタインウェイは立ち上がり、重い体をどっこいと持ち上げた。
白髪交じりの髪が揺れ、がっしりとした体が再び堂々たる存在感を示す。
「ならば――ワシもついて行こう」
「えっ?」と夫人が振り向く。
「あなた、いいの?」
「こうなりゃ放ってはおけん。ハンの小僧がどんな了見でダグを呼びつけるのか、ワシ自身の目で確かめたい」
「ありがたいが……大丈夫かよ、オヤジ」
ダグが少し眉をひそめる。
「心配するな。お前が出ていったあと、ワシはただの老いぼれにはなっておらんぞ」
にやりと笑って、スタインウェイは自分の上着を羽織り、腰に一本の短剣を差した。
その仕草に、若かりし頃の族長の気迫が一瞬よみがえる。
やがて、シマ、ダグ、ユキヒョウ、そしてスタインウェイは戸口へ向かう。
外にはまだ兵士たちが待っていた。
町並みを抜けて歩くことおよそ十分。
街灯がまばらに照らす石畳の道を進みながら、シマたちは無言の兵士たちに先導されていた。
「……なんかピリついてるね」
ユキヒョウが眉をひそめ、周囲を見渡す。
歩哨の立ち位置、軍の制服の皺ひとつない整備、すれ違う兵士の視線。
どれも、ただの来訪者への態度ではない。
「俺たち……警戒されてるな」
ダグが低く呟く。
背中に感じる視線が、まるで弓の弦のように張り詰めていた。
「お前ら、何か問題でも起こしたのか?」
スタインウェイが鋭い目を向ける。
昔ながらの威圧感が、ほんのりとにじむ。
「心当たりが……まったくないですね」
シマが首を傾げる。
ユキヒョウも肩をすくめ、ダグは「そもそも町に入って一日目だ」と呟いた。
スタインウェイは一つ大きく息を吐くと、いつものように豪快な調子で言った。
「まあ、あのハンの小僧が“丁重に”なんて言葉を使ったってんなら、そう悪い話にはならんだろうよ」
とは言え、道中に感じた異様な緊張感は拭えず、皆の足取りは自然と慎重になる。
やがて軍の宿舎へと辿り着く。
頑丈な煉瓦造りの建物。
鉄の門が開かれ、衛兵たちが鋭い目つきでシマたちを一瞥する。
内部は整理整頓され、廊下の床は磨かれて光を反射していた。
いかにも、軍人の管理する場所といった風情だ。
無言の兵士が無造作に手を振り、応接室へ案内する。
扉が重々しく開かれた瞬間、そこには――
「おう!」
「来たか!」
先に通された広い応接間には、すでにロイド、トーマス、オズワルド、そしてヤコブの姿があった。
部屋は高い天井と大きな窓を備え、壁には地図や作戦図が掲げられている。
中央の長机にはまだ茶器すら並んでおらず、招かれたというよりは「呼び出された」雰囲気が色濃かった。
「どういうことだ?」とダグがつぶやく。
「さっき、急に“お迎え”が来てね」
ロイドが立ち上がりながら言う。
「無理矢理って感じではなかったけど……なんか変なんだ」
「俺たち、何かしたか?」
トーマスがトーンを落としながら聞く。
「まだ分からねえ。でも、ただの挨拶じゃねえだろうな」
オズワルドが腕を組み、じっと廊下の方を睨むように見る。
ヤコブは無言でノートを膝に載せ、眉間にしわを寄せていた。
ペン先は止まっており、思考が完全に別のところに向かっている。
「ま、いいさ」
スタインウェイが一番奥の椅子にどっかりと腰を下ろしながら言った。
「ハンの小僧がどんな面して出てくるか、見てやろうじゃねえか」
やがて、廊下の奥から、規則正しい足音が近づいてくる――。




