変わっていく?!
夜の帳が降りた草原に、焚き火の赤い灯が揺れている。
淡く煙る火の気配に包まれながら、シマたちは静かに休息の時間を過ごしていた。
いつもと変わらぬ野営――しかし、ダグの胸中にはひとつ、拭えぬ違和感があった。
彼らが通過してきた集団、スレイニ族と名乗る人々の暮らしぶりが、それだった。
かつて、ダグザ連合国内に散在していた遊牧民たちは、常に「不足」と共にあった。
交易拠点から離れれば離れるほど、その傾向は顕著で、食料にしても布にしても、薬にしても、足りていないのが当たり前だった。
彼らの装いは質素で、革や麻を継ぎ合わせた粗末なものであったし、武器とて、骨と石を組み合わせたような頼りない代物が多かった。
それがどうだ。
スレイニ族と出会ってからというもの、目に映るものすべてが、自分の記憶とは違っていた。
布地は鮮やかで、織りも丁寧だった。
手にする武器も粗雑なものではなく、鍛えられた鉄の刃が陽光を反射していた。
ダグが「牛や鶏を手に入れたい」と口にすれば、彼らは目を細めてうなずき、「山側の部族かもっと北側の川沿いをあたるんだな」と、教えてくれた。
まるで、自分たちの持つ情報や資源を分け与えることを恐れていないかのように。
敵意もなければ、過剰な警戒もない。
もちろん、無条件に心を開いてくれたわけではない。
けれど、排斥の態度や、牙を剥くような警告の目線とは無縁だった。
――これは、自分の知っているダグザ連合ではない。
焚き火を見つめながら、ダグはそう思った。
15年前、自分が歩いたこの大地は、もっと荒んでいた。
風は乾いて鋭く、人々の瞳は渇望と猜疑で曇っていた。
彼らは隣人すら信じず、他部族を獣と同じように見ていた。
それが今、目にするのは、秩序と穏やかな共存だ。
「……変わったんだな」
その言葉は、独り言にしては少し重かった。
焚き火を見つめていたダグが、誰に言うでもなく、ただ胸の内を洩らした。
そのつぶやきに、すぐ近くに座っていたシマが目を向けた。
「何が変わったんだ?」
ダグは少し間を置いたあと、火を見つめたまま静かに語り出す。
「俺の記憶にあるダグザ連合の遊牧民はな、何もかもが足りてなかった。食い物、布、薬……あるいは火種一つでも。奪い合って、生き延びるだけで必死だった。けど、今日、出会ったスレイニ族は違った。装束は立派だし、武器も悪くない。牛や鶏の在り処を訊けば、嫌な顔ひとつせず教えてくれた。排他的でもなかった」
「ふむ……」
シマは小さくうなずいた。
「俺がダミアンから聞いた話だと、スレイニ族は荒れ地を治め、交易を安定させ、民が餓えねえように分配制度まで整えてるって話だな」
焚き火の向こうで、その話を聞いていたトーマスが口を開いた。
「スレイニ族が特別ってことか?」
「だと思うよ」
ユキヒョウが腕を組みながら応じる。
「先の戦のことを考えて見れば納得できるね。統率されて、集団で動いていた連中だ。かつてのダグザ連合国とは思えない動きだった」
「連中が集団戦術なんて、昔じゃ考えられなかったよな」
低く重い声でオズワルドが続けた。
「部族ごとにばらばらで、協力なんざ一時的なもんだった」
「お前らもな」
トーマスがにやりと笑って突っ込むと、オズワルドは鼻で笑いながら「今は違うだろ」とぼやいた。
「スレイニ族の族長が、余程優秀なんだろうね」
ロイドが焚き火に薪を足しながら言う。
その声音は穏やかで、どこか感心を含んでいた。
「そうじゃのう、交易を安定させ、民が餓えねえように分配制度まで整えてる……為政者としても優秀じゃな」
ヤコブは顎に手をやりながら、学者らしく考察する。
「人をまとめるだけじゃなく、仕組みを作っているのだろう」
ユキヒョウが頷く。
「統率のとれた軍に、安定した政。――先を見据えた政をしているってことでいいのかな」
火の粉がぱちりと弾けた。その瞬間だけ、全員の顔が赤く照らされる。
誰も、すぐには言葉を継がなかった。
草原の冷たい風が、焚き火を回って吹き抜けていく。
やがて、ダグがぽつりと呟いた。
「15年、ってやつだな……気づけば時代が動いてる。俺の知ってるダグザ連合国は、もうどこにもねえのかもしれねえ」
風は相変わらず冷たく、草の匂いも、土の感触も、あの頃と変わらないはずなのに。
変わったのは人の心か、社会の構造か。
あるいは、自分自身なのかもしれない。
15年――たったそれだけの年月で、人はこれほど変わることができるのか。
焚き火の炎が、静かに揺れていた。
話題が途切れ、しばし皆がそれぞれの思案に沈んだとき、ロイドがぽつりと口を開いた。
「……どんな感じの人物なんだろうね、スレイニ族の族長って」
語るというよりは、自分の中でふと湧いた疑問をそのまま言葉にしたような、そんな声音だった。
ロイドの目は焚き火ではなく、どこか遠く――暗い草原の先を見つめていた。
「なんとなく、お前に似てね?」
唐突にトーマスが言った。
皆が一斉に焚き火の向こうにいるシマへと視線を向ける。
その視線の中心にいる――シマは、火を見たまま顔だけをわずかに向けて眉をひそめた。
「は? 何言ってんだお前」
少し苛立ち気味に、シマが口を開く。
「向こうは軍を率いる立場だし、街も村も部族も纏めてんだぞ? 俺とはスケールが違ぇよ。全然似てねぇだろ」
その言葉に、トーマスは肩をすくめた。
「そうか? 似てると思っただけだよ。何となくな」
シマはもう一度、火に目を戻す。
納得していない様子で、唇をわずかに尖らせた。
そこに、ゆったりとした口調でヤコブが口を挟む。
「今はの……確かに立場は違うかもしれん。しかし――考え方は、似ておると思うがのう」
「……考え方?」
「うむ」ヤコブは火を見つめながら、指先で顎をなぞった。
「己の属する集団を守り、導く責任を自覚している者。分をわきまえつつ、他者に手を伸ばす勇気を持つ者。民を飢えさせぬために、仕組みを考え、動く者……」
「それ、スレイニ族の族長の話だろ?」シマが言う。
「ふむ、そうじゃな」ヤコブは少し笑った。
「じゃが、シャイン傭兵団の団長――シマ、お主もまた、その責を果たしておる。表立って名乗りこそせぬが、やっておることは同じじゃよ」
しばらくの沈黙のあと、ロイドが柔らかく笑う。
「うん、やっぱりちょっと似てると思うよ。背負ってるものが、ね」
シマは眉間に皺を寄せ、火に目を落としたまま、何も言わなかった。
ただ、薪がはぜる音だけが、夜の静けさに混じっていた。
風が一陣、草原を駆け抜けた。揺れた火影が皆の顔に踊る。
仲間たちはそれぞれに微笑み、誰も深くは踏み込まず、また静かに夜の会話へと戻っていった。
ダグザ連合国内――かつて戦と飢えの痕が色濃く残ると聞かされていたこの地は、予想に反して、どこか穏やかな空気を湛えていた。
シャイン傭兵団一行は、草原をゆっくりと進みながら、いくつかの部族や村に出会った。
どの集落も、大小の違いはあれど独自の文化と秩序を保っていた。
簡素な柵で囲まれたテント群の村もあれば、木造の家々が並び、煙突から穏やかな煙を上げる小さな街もある。
山林の麓近くで立ち寄ったその街などは、思った以上に発展していた。
交易路の要衝なのだろう、獣皮や香草、金属製の道具などが並ぶ市場があり、牛や羊、鶏に馬までが売られていた。
「……思ったより、ずっと普通だな」
広場の脇で立ち止まり、シマが呟く。
「奇異な目で見られはするが……敵意って感じじゃねぇな」
トーマスが辺りを見回しながら言う。
「うん。どこも構えてくる様子がない」ロイドが頷く。
「拍子抜けだな」オズワルドが肩をすくめると、ユキヒョウが「まぁ、殺伐としてる方よりかはマシだろう」と微笑んだ。
「……予想と違っているということは、我らが過去の印象に囚われていたということでもあるの」
ヤコブが静かに付け加える。
いずれの村や街でも、一様に共通していたのは、スレイニ族の紋や、風習を基盤にしているという点だった。
部族間で差異はあるものの、全体として同じ文化圏に属していることは明白だった。
「スレイニ族の影響力、広いな……」
ダグが驚きをもって言った。
広場の市で、シマが足を止める。
「……おおっ、これは……!」
目を輝かせて近寄ったのは、色鮮やかな敷織物だった。
草原の空や、羊、祭具、神話的な文様が織り込まれたそれは、見る者の目を引きつける力を持っていた。
「すげぇな……全部手織りか? この色、草木染めか? こっちは山鳥の羽まで使ってる……」
シマが目を輝かせて見入っている横で、ロイドやトーマス、ユキヒョウも品定めを始める。
ヤコブは香辛料の露店に惹かれ、ダグとオズワルドは民族衣装に足を止めていた。
屋台に並んでいたのは、干し果実と発酵乳を練りこんだ菓子や、ミルクを煮詰めて作る濃厚な茶色いキャラメルのような甘味、そして――特に目を引いたのが、地元の特産品「馬乳酒」だった。
「馬乳酒……? これ、飲んでいいのかい?」
戸惑いながらも一口飲んだユキヒョウは――
「……うわっ、酸っぱい! けど……クセになるかも……!」
苦笑交じりに周囲を見回すと、トーマスやロイド、オズワルドが興味津々で杯を受け取っていた。
「これは……体が温まるな」
オズワルドが珍しく満足げに言うと、ロイドが「でも癖強いね、これ」と苦笑した。
こうして、争いとは無縁のひとときが過ぎていった。
旅の道程で出会った村も、街も、放牧地の民も、すべてが今や“スレイニ族”のもとにまとまっていた。
その統一された文化の根底には、確かに秩序と知恵、そして民を飢えさせないための工夫があった。
それが、ダグザ連合の「今」の姿だった。
そして一行は、ここまで来たからには元ホルン族の地に足を延ばすことにした。




