行くしかないでしょ!
乾いた朝の空気に。
まだ陽が高く昇る前、チョウコ村には、整然と並ぶ馬車二十台と、それを支える三十頭の馬たちの姿があった。
馬車には帆布で覆われたものもあれば、荷台を開け放ち荷物を積み込む最中のものもある。
車輪がわずかに軋む音が、旅立ちの気配を高めていた。
その中央――出発の号令を前にして、堂々と立つのはジトー。
彼の横には、すでに旅支度を整えた面々が揃っていた。
クリフ、ザック、フレッド、ミーナ、ケイト、ドナルド、キーファー――
そして、9家族を代表する者たち。
その中には、ギャラガとその一家の姿もある。
ギャラガの妻アンジュは、明るい色のスカートに身を包み、旅に心を躍らせていた。
傭兵たちはもちろん、家族も混じる一行。
だからこそ、その規模は100名にも及んだ。
そして――
「それじゃあ、気を付けてな」
シマの声が、静かに響いた。
馬車の脇で腕を組みながらも、その目には確かな信頼と責任の色が浮かんでいた。
「アンジュさん、楽しんできてくださいね!」
サーシャが笑顔で手を振りながら声をかけると、アンジュは元気よく「ええ!ありがとう」と返す。
「ブーツに使う革製品は“コンガ商会”から仕入れてね、ミーナ」
エイラが念を押すと、ミーナは荷台の帳簿を片手に小さく笑った。
「昨日も聞いたわよ、エイラ」
「……あら、そうだったわね」
エイラが照れ笑いを浮かべ、周囲からもクスリと笑い声が漏れる。
その時だった。
風が吹く――。
その風を受けて、ジトーが天を指さすように叫んだ。
「シャイン傭兵団、出発!!」
「おおおー!!」
若者たち、古参の傭兵たち、家族連れ――声が重なり、朝空に響き渡る。
そして。
急ごしらえとは思えぬほど立派に仕上がった団旗が、馬車の先頭で高く掲げられる。
鮮やかな紺と金を基調とし、中心には堂々たる意匠――「獅子」の姿。
威厳に満ちたその獅子は、前足を掲げ、咆哮するような姿で描かれている。
牙をむき、鬣をなびかせるそれは、まるで今にも飛び出してくるような迫力を宿していた。
風にはためく旗が朝陽に照らされるたび、獅子の輪郭は煌めきを放ち、進軍する一団を象徴していた。
それは、力強さと誇りの象徴――彼らが「シャイン傭兵団」であることを告げる、ひとつの魂だった。
馬車が軋みながら進み出し、砂を巻き上げてゆく。
旅立ちの音と共に、団旗は堂々と風を裂きながら揺れ続けた。
――チョウコ村の空は晴れ渡り、風が心地よく吹いていた。
作業の休みに入ったシャイン傭兵団の本隊は、広場の一角でちょっとした練習を始めていた。
「団長、早速、練習してみますか?」
馬の手綱を整えながら笑みを浮かべるのは、スーホ。
彼は馬の扱いにも慣れており、どこか誇らしげに声をかけた。
その声に、軽く肩をすくめながらシマは言う。
「……傭兵団の団長が馬に乗れないってのも、格好つかないからな」
その言葉に、周囲から軽い笑いが漏れる。
団員たちは、普段の戦闘ではあまり馬を使わない。
だが、これを機に乗馬を覚えようと、皆が集まっていた。
乗馬訓練、開始――。
広場には5頭の馬が並べられ、団員たちが代わる代わる乗っていく。
最初は誰もがぎこちなく、バランスを取りながら鞍に腰を下ろす。
だが、数分もしないうちに――
「おお、ノエル! うまいじゃねえか!」
「ふふっ、こういうの、好きなのよ」
「エイラ、楽しそうだな」
「これ、けっこう気持ちいいわよ? 風を切って走るの、すごく爽快」
「シマ!見て見て!すっごく楽しい―」
女性陣たちは軽やかに馬を乗りこなし、時折、笑い声まで上げていた。
馬たちも、なぜか彼女たちには従順に歩を進める。
一方、男性陣はというと――。
「……ダメだな。馬がバテちまう」
馬の横で額に汗を浮かべたシマが、肩で息をしながら言った。
全身の筋肉が重さとなって馬にのしかかり、馬ははっきりと疲労の色を見せていた。
「君たちは身体がでかいからねえ……」
ユキヒョウが苦笑しながら言う。
彼も体格はいいが、そもそも馬に乗ろうともしていない。
「俺たちなら、馬に乗らなくても普通に走った方が速えからなあ」
そう言ったのは、トーマス。
「持久力も僕たちの方があるしね」
オスカーも穏やかに続けた。
その言葉に、オズワルドは額に手を当てるようにしてため息をつく。
「……馬より速いって……ハア。お前らにはなれたつもりだが……」
「俺はちょっとやそっとじゃ、もう驚かねえぞ」
なぜかドヤ顔で言い切るのはダグ。
「お前それ……別に威張って言うことじゃねえだろう」
横からすかさず突っ込むデシンス。
周囲はどっと笑いに包まれた。
馬たちはすでに軽く汗をかきはじめ、ヒヒーンと鼻を鳴らしている。
交代しながらの練習だが、筋骨隆々の面々にはさすがに荷が重かったようだ。
馬と風と、笑い声と、草の香りと。
小さな広場は、一時の平和を噛みしめるように、ゆるやかな時間に包まれていた。
チョウコ村、北側。昼下がりの陽射しがやわらかく小高い山を照らす。
空は晴れ渡り、練習を終えた馬たちは穏やかに鼻を鳴らしていた。
シャイン傭兵団の数名は、乗馬に慣れさせるため、馬を引きながら村の北側へ足を伸ばしていた。
サーシャが乗る馬を引くシマ。
サーシャは鞍の上で背筋を伸ばし、落ち着いた表情をしているが、足元はまだややぎこちない。
「ゆっくり進もう。ここ、段差がある」
シマが声をかけ、手綱を軽く引き締める。
彼の歩幅に合わせて馬も自然と速度を落とした。
ノエルの馬を引くのはトーマス。
「慣れてきたな、ノエル」
「ええ、トーマスが引いてくれるから安心できるの」
彼女は穏やかに笑い、風に揺れる金髪が光を反射していた。
トーマスはやや照れ臭そうに、けれど誇らしげに胸を張る。
リズはロイドに導かれて。
リズの馬は少しだけ他の馬より背が高く、歩調がやや速い。
「リズ、少しだけ手綱を締めてみて」
「こう?」
「そう、それでいい。落ち着いてるね」
「……ん。ちょっと緊張してたけど、楽しくなってきた」
ロイドの穏やかな声に、リズがうっすらと微笑む。
メグの馬を引いているのはオスカー。
「風が気持ちいいわねえ、オスカー」
「うん。こういうの、いいよね。たまには」
オスカーは自分のペースで馬を導き、メグの楽しそうな様子に何度も目を向けていた。
ふたりの距離は、歩幅と歩調と共に自然に寄り添っていく。
エイラの馬を引くのはマリア。
「……あなたに引かれるのって、なんだか少し不思議な気分だわ」
「ふふ、たまにはこういうのも悪くないでしょ?」
マリアの歩みは安定しており、エイラはその背中に安心を預けていた。
一行は村の北側へ進み、馬車一台分の丸太橋が架けられている小さな堀を越える。
木々の合間から差し込む陽光の中、橋はきしみながらも問題なく通過できる。
その先には、少し小高い山を越えるとなだらかな丘陵が続いている。
丘を越えると草原地帯が広がっていた。
柔らかな緑が地平線まで続き、ところどころに風になびく白い野花が咲いている。
「……あの向こうがダグザ連合国か」
シマが立ち止まり、遠くを見つめながら呟いた。
「幾つもの部族がいるって話だったな」
「いずれ、どこかしらの部族と交易することになるでしょうね」
シマは足元の草を踏みしめながら辺りを見渡す。
「で……ダグザ連合国の主な産業って、何だ? 知ってる奴いるか?」
「俺がいたところでは酪農が盛んだったな。周りは牧草地でな」
答えたのは、ダグだった。
「おお、それはいい情報……え?……お前がいたところ?」
と、振り返るシマ。
「ああ、言ってなかったか? 俺は元々ダグザ連合国出身でな。もっと正確に言えば、ホルン部族の生まれだ」
その言葉に、周囲がざわめく。
「ダグが……ダグザの……?」
「名前そのままじゃないの……?」
「ダグってのはな、ダグザ連合の中じゃありふれた名前だ。一つの部族に一人はいると言っていい」
と、ダグは笑う。
「『〇×部族のダグ』『〇△部族のダグ』『△□部族のダグ』ってな具合に。どこに行っても『ダグ』がいて、名前だけじゃ呼べねえから、部族名込みで呼ぶんだ」
「それ、ややこしくない?」
メグが首をかしげる。
「まあな。でもその分、どこの出身かを名乗るのが誇りでもある。」
「なるほどな……」
シマは感心したように頷く。
風が草原を滑るように吹き抜け、緩やかな丘の上でシャイン傭兵団の面々は足を止めていた。
その風景を眺めながら、ユキヒョウが何気なく口を開いた。
「ダグ、君の部族って、ここからどれくらいの距離にあるんだい?」
少し黙って風に髪を揺らしながら、ダグが答えた。
「……そうだな、二日、三日くらいじゃねえか。まっすぐ行ければの話だが、今もあるかどうかはわからねえがな。前に戦ったあいつらに、俺のいた部族も、もしかしたら吸収されてんじゃねえか。」
「…スレイニ族? だって言ってたね」
オスカーがそっと補足する。
「ああ、ダミアンがそう言ってた」と、トーマスが頷く。
「でも……あっさりしてるのね」
ノエルが不思議そうにダグの横顔を見る。
ダグは鼻で笑ってから、肩をすくめた。
「俺がいた頃から、あそこは『イケイケドンドン』の気質だったんだよ。とにかく突っ走る、勝ちにいく、強え奴が上に立つ、それが当然。部族の名なんて、強い方に飲まれりゃあコロッと変わる。そんなのザラだ。誰もそれを恥とは思わねえ。」
その口調は軽いが、どこか鋭さがある。
その土地で育った者にしか持ち得ない現実の重みがあった。
ふと、デシンスが尋ねた。
「じゃあ、もしホルン族がスレイニ族に吸収されてたら……お前はなんて名乗るんだ?」
ダグは少しだけ口元を歪めて、乾いた笑みを浮かべた。
「そうなりゃ……『元ホルン族のダグ』って名乗るんだよ。“どこの出だ?”って聞かれたら、それが一番しっくりくる」
「……名前の中に歴史があるのね」
エイラが静かに言った。
「ああ。俺たちにとっては、名前ってのはただの記号じゃなくて、“どこから来たか”を示す足跡みたいなもんだからな。時にはそれが武器にもなるし、重荷にもなるが……」
遠く、草の海がさざめいている。
そこにかつてあったかもしれないホルン部族の名残。
今はもう、風と共に散ったのかもしれない。
けれどその風景を前にして、ダグの立つ姿は微動だにせず、しっかりとその足で大地を踏みしめていた。
彼の名は――ホルン族のダグ。
そう名乗ることで彼は、過去を誇り、未来を歩いているのだった。
遠く風が吹き抜け、草原の先に無数の可能性が見える。
酪農、交易、部族との交渉、未知の文化――。
ダグザ連合国の方角を見やりながら、シマがぽつりと呟く。
「牛や鶏が欲しいな。交渉次第ではいけるか?」
その言葉に、すぐさま隣で立っていたダグが肩をすくめるようにして答えた。
「物によるんじゃねえか? 俺がいた頃は……まあ、普通だな。他の部族よりは恵まれてた方じゃねえか?少なくとも、毎日腹を空かせてた記憶はねえ」
「畜産もしているのかしら?」
興味深そうに尋ねるエイラ。
ダグは頷きながら、遠い記憶をたぐるように言葉を続けた。
「鶏は結構いたな。毎朝コケコッコーとうるさかったぜ。あとは馬も飼ってた。軍馬ってほどじゃねえが、頑丈なやつらだ。」
「チーズ、バター、ミルク、卵……」
サーシャが呟いた瞬間、女性陣たちの目がキラリと光る。
「……欲しいわね」
その一言を皮切りに、明らかに空気が変わった。
「行くしかないでしょ!!」
エイラが拳を握りしめ、まるで戦地へ向かうかのような表情を見せた。
「エイラの言う通りよ!」
メグが即座に同意し、「絶対に行くべきね!」とリズが強い語気で続ける。
「何がなんでもね!」
ノエルまでが意を決した表情で宣言する。
あまりの勢いに、ダグは思わず一歩引いた。
「……ど、どうしたんだ……お前ら……?」
困惑の色を隠せないまま、女性陣の真剣な目線を受け止めきれずにたじろぐ。
そんなダグに、彼女たちが声を揃えて叫ぶ。
「プリンよ!!!!」
突如としてその場の空気が爆発するかのように、一同が圧倒される。
「……え、えっ、プリン……?」
「そうよ、プリン…だってあの味が……もう一度食べられるなら、行くしかないじゃない!」とサーシャ。
「冷やして、とろける甘さ……」
エイラが夢見るように言えば、「あのなめらかな食感……ほんのりと香る卵の匂い……」とリズが陶酔したように語る。
「あれを超えるデザート、私はまだ食べたことがないわ!」とノエル。
「というわけで、ダグさん!頼んだわ!」
メグが強引に頼みこむ。
ダグは呆気に取られたように、ぽかんと口を開いたまま、それ以上何も言えなかった。
一方、男性陣の数人がぽつりと呟いた。
「でも確かに、あれ美味かったもんな……」
「うん、一度食べたら、忘れられないよね…」
そんな中で、ヤコブが顎に手を当てながら独り言のように呟く。
「つまりこの交渉は、プリンを巡る冒険の始まりというわけじゃな……」
草原を渡る風が再び吹き抜ける。
その風の向こうに、まだ見ぬ家畜と交易、そして――
プリンの未来が、待っていた。




