目に見えない苦労?!
翌日の午前、バンガローの一角。
窓は閉じられ、わずかな隙間からそよぐ風すら遮断されている。
即席の寝台にティアがうつ伏せで静かに横たわる。
顔の下には清潔な布が敷かれ、左足首からかかとの上にかけてが露出している。
ノエルの手によって、傷口周辺には鎮痛湿布が丁寧に貼られていた。
だが、これだけでは足りない。
切開と縫合を必要とする手術だ――静脈に麻酔を流し込むには設備が足りないため、吸入麻酔に頼るしかなかった。
ヤコブは調合した麻酔薬の小瓶を慎重に器具へ移す。
木筒を加工した即席の吸入器に薬液を垂らし、内部を温めて気化させる。
管の先端はティアの口元へと伸びていた。
「ゆっくり深く吸ってね…そう、それでいいわ」
ノエルが柔らかく声をかける。
ティアの呼吸は次第にゆっくりと深くなっていった。
体格も肺活量もオズワルドとは異なる。
ヤコブは慎重に様子を観察しながら、吸入量を微調整する。
「……いけるぞい。もう感覚はないはずじゃ」
ヤコブが頷いたのを確認し、シマが動いた。
既に研ぎ澄ませたナイフ、鉗子、ペアン、針、糸、それらはすべて熱湯で煮沸消毒され、白布の上に並べられている。
ヤコブが布をめくると、ティアのかかとの上部にうっすらと古傷が走っていた。
断裂してくぼんだアキレス腱の痕。
シマは無言で頷き、静かにナイフを手に取った。
薄く切開。血管を避け、筋膜を開きながら、深部に達する。
ノエルが布で滲む血を拭い、鉗子で切り口を広げていく。
やがて断裂した腱の両端が露わになった。
「やはり……かなり離れておるな。癒着もしておるのではないか?」
ヤコブが声を落とす。
「…やるしかねえ…!ティアの覚悟に応えるんだ」とシマは言う。
離れた両端を優しく剥離し、余計な瘢痕を取り除いていく。
細心の注意を払いながら腱を引き寄せ、専用の絹糸で端と端を縫いつけていく。
手の動きに一切の迷いはない。
ノエルが呼吸を整え、次の器具を差し出す。
縫合は重ね、固定し、強化する。幾重にも。
時間は過ぎていたが…皆の意識はただひとつ、ティアの足に集中していた。
やがて――
「……縫合、完了だ。あとは経過を見る」
シマが低く告げた。
空気が、少しだけ、緩んだ。
バンガローの空気はまだ手術の余韻を残していた。
窓の外では柔らかな陽光が木々の葉を照らし、小鳥の囀りが静寂に混じる。
シマは深く息を吐いてから寝台の傍にいたデシンスを呼んだ。
「やれるだけのことはやった。あとは、彼女の力を信じよう」
その声に、デシンスは無言で頷き、ティアの傍に膝をついた。
彼女の左足には包帯がきっちりと巻かれており、呼吸は穏やかだった。
「意識が戻るまで待ちましょう」
ノエルが静かに告げると、湯を沸かし、持参していた薬草でお茶を煎れはじめた。
微かに香る安らぎの香気が空気に滲む。
「ようあの状態で動き回っていたものじゃ」
ヤコブが目を細め、驚嘆の声を漏らす。
「ああ。普通は立つことすら困難だったはずだ」
シマも静かに同意した。
「力も入らねえし、踏ん張ることもできなかったはずだ」
「痛くはなかったのかしら……?」
ノエルが首を傾げながら問いかける。
「うーん、確か……神経は通ってねえはずだ」
シマが唇を引き結びながら答えたその時――ティアが小さく身じろぎした。
「ティア!」
デシンスの声が一気に張り詰めた空気を揺らす。
ティアの睫毛が微かに震え、かすかに目が開かれた。
「……おかえり」
ノエルの囁くような言葉と共に、場の空気が大きく緩む。
シマもヤコブも表情を和らげ、静かに安堵の息を吐いた。
ティアの側につききりになるデシンスを残し、シマたちはひとまず席を外す。
その奥の机で、使用済みの器具を片付けながら手術の振り返りを始めた。
「やはり麻酔薬の量は、前回のオズワルド殿の時とは違うの」
ヤコブが記録用紙を片手に呟いた。
「もし前回と同じ量を吸わせてたら……意識が戻らねえ可能性もあった」
シマの顔がわずかに曇る。
「麻酔薬の吸入は慎重さが求められる、ということね」
ノエルが静かに補足する。
「それとな……器具が足りねえ」
シマがやや苛立った様子で続けた。
「今回は癒着してた箇所を剥がすのに随分手間取った。鍛冶師でもいりゃ、もう少しマシな器具が用意できたんだがな……」
「それでも、概ね上手くいったように思うがのう」
ヤコブが控えめに言うと、ノエルも微笑む。
「なければないなりに、私たちで工夫するしかないわ」
「そうじゃのう……」
ヤコブは頷き、「さて、そろそろ昼食の時間じゃな。腹が減っては記録も書けぬ。あとで一気に纏めるとしようかのう」
三人は一度、ティアとデシンスに視線を向け、静かにバンガローを後にした。
外の空気は、どこか晴れやかに感じられた。
村の中央広場に、シマたちが戻ってきたころには昼の陽が高く昇り、作業場に散っていた人々も一人、また一人と手を止めて集まってきた。
誰からともなく自然と輪ができていく。手に汗と土をつけたまま、木槌を持ったまま、鍋にかき混ぜ棒を差したまま。
家族たち、仲間たちが、不安と祈りの眼差しでシマの言葉を待っていた。
「意識は戻った。術後の経過も落ち着いている。歩けるようになるかはまだ分からないが、まずは一歩前進だ」
シマの静かな言葉に、張り詰めていた空気がふっと緩む。
どこからともなく小さな拍手が起こり、それに笑みが重なる。
あちらこちらで肩を撫で下ろすような声が上がり、ぎこちないながらも和やかな空気が広がっていく。
そんな空気の中、炊事班が準備していた昼食が配られ、みな自然と切り株や丸太に腰を下ろした。
即席のテーブルに湯気の立つシチューと焼きたてのパンが並び、子どもたちの笑い声が戻ってくる。
「今日中に新たにバンガロー三棟、完成予定だよ」
オスカーがパンを頬張りながら言った。
「ジトー、トーマス、ロイド、クリフが午後から手伝ってくれれば、仕上がる見込みだね」
「頼む。バンガローの建築が終わったら、次は個人宅に取り掛かってくれ」
シマの指示に、男たちが一斉に頷く。
「了解!」
元気よく声を上げたオスカーが、辺りを見渡して尋ねた。
「ギャラガさん、家庭持ちのみなさん、なにか要望はありますか?」
「別に、屋根があればいいだろ」
「寝られればどこでもいいよな」
「雨にさえ濡れなきゃいいって、な?」
口々に気楽な声を上げる男たち。
オスカーが「はは、まあ、そんなもんすですか」と苦笑したその時だった。
「駄目よッ!!」
怒声まじりに割り込んできたのは、奥様方。
「オスカー君、部屋は三つは欲しいわ。子ども部屋と、夫婦の寝室と、それからもう一つね」
「家の中に調理場、ちゃんと確保してちょうだい。外じゃ冬に凍えちゃうわ」
「どうせ建てるならこんな形の家が素敵よ」
「部屋の間取りはこうしてくれないかしら、壁はここで仕切って……」
次々と詰め寄られるオスカー。
「え、あ、はい……ええと、順番にどうぞ、順番に!」
集まった奥様方の熱気と要望の嵐に、ロイドとクリフがそっと後ずさる。
ギャラガが「建築班、頑張れ」と肩を叩き、ジトーが小声で「ご愁傷様」と笑うなか、オスカーの奮闘の昼が始まった。
村の広場の一角では、今まさに奥様方に囲まれて押し問答を繰り広げるオスカーがいた。
「三部屋!調理場!日当たり!」と次々飛び出す要望に、彼は「は、はいっ、えーと、メモします…!」と顔面蒼白で図面に走り書きをしていたが、それを横目に、シマは落ち着いた声で仲間たちに向き直った。
「午後からは、いくつかの作業を入れ替える。全部じゃない、少しずつだ」
「え? なんでだよ。せっかく慣れてきたとこだぜ?」
キーファーが不満げに眉をしかめた。
「効率は確かに落ちるな」
シマは認めた上で、続ける。
「だが、作業の本質は数をこなすことじゃない。他の作業に目を向けることも必要だ。――何気なくこなしている作業であっても、そこには目に見えない苦労がある。それを知ってほしい」
静かに耳を傾けていたユキヒョウが、腕を組んだまま呟いた。
「他の作業の苦労を知るためかい」
「そうだ」とシマはうなずき、「力仕事だけが“仕事”じゃねえってことだな」と、ダグがぽつりと言った言葉にも「その通りだ」と答える。
シマは全員を見渡し、ひと呼吸置いた。
「……前にも言ったが、疲れたら休め。独自の判断で休憩しろ。逆に、休んでいる仲間を無理に働かせるな。それが仲間を信じるということだ――シャイン傭兵団、団長として命じる」
言葉の重みに、場が一瞬静まる。
そして、うなずく者、敬礼をする者、互いに目配せして頷く者が現れ、空気が引き締まっていく。
「キーファー隊は、なめし作業へ。俺が手本を見せる。キーファー、準備はいいか?」
「ああ、いつでもやれる」
「サーシャ」シマが声をかける。
「今、なめし作業に従事している者たちを率いて、堀を掘る作業に加わってくれ」
「了解、怪我をしないよう気をつけさせるわ」
サーシャは軽く笑いながら敬礼した。
「次に、フレッド隊とドナルド隊を入れ替える。」
「了解だ!」と、フレッドが力強く答え、ドナルドも無言で拳を胸に当てる。
「そして、氷の刃隊と泥レンガ作り班も交代だ。道具の扱いは誰かが教えてやれ、無理はするな」
指示が次々と飛び、団員たちが散っていく。
混乱はなく、流れるように動きが切り替わっていく様は、まさに“軍”であり、家族であり、信頼で結ばれた集団だった。
「っと、そうだ。デシンスとティアにご飯を持って行ってあげないと」
ユキヒョウが立ち上がりながら言った。
昼食の賑わいの中、その一言にシマが振り返る。
「二人にはそのまま休んでいろと伝えてくれ」
「了解だよ」
軽く笑って手を振ると、ユキヒョウは炊き出し場へと足を向ける。
なめし作業場では、川のせせらぎと皮を叩く音がリズムのように響いていた。
入れ替えで新たに参加したキーファー隊の中には、マークの姿もあった。
「キーファー隊長、熊の毛皮の話、聞きました? バンガローに置いてあるんです。今度、手が空いたらリズに名前の刺繍を頼むつもりでさ」
「へえ、そうか。マントにでもすんのか?」
キーファーが聞くと、マークは顔をほころばせた。
「いやぁ、悩んでるんですよ。マントもいいし、敷き物にも、寝具にもなる。でもちょっと重たいかなーって。まあ、それはそれで贅沢な悩みってやつです」
にこやかに話すマークだったが、すぐに作業へと戻る。
手に持った皮を絞りながら、シマの指示を仰いだ。
「よし、絞ったら、そのまま柵にかけとけ」
シマはマークの手元を確認しながら、別の束の皮を手に取って鼻を近づける。
「……で、こっちの皮は、まだ匂うな。水に漬けて叩け。もっと脂を落とさねえと使いものにならねえ」
「了解!」
マークが頷き、桶に皮を漬けながら叫んだ。
「キーファー隊長! とにかく根気よく叩いてください! 獣脂が抜けきるまで!」
「お、おう……根気か……!」
慣れない手付きながらも、キーファーは叩き棒を握り直し、桶の中の皮に力を込めて振り下ろす。
水が跳ね、腕に飛び散るが、それにも構わず叩き続けた。
こうして、彼らの手によってまた一歩、村の暮らしが形を成していく。




