何とかする男?!
昼食時――。
大きな布を広げただけの簡素な野外食卓には、温かな煮豆と干し肉のスープ、薄く焼いた穀物のパンが並べられていた。
皆が思い思いの場所に腰を下ろし、湯気の立つ器を囲むなか、ノエルがそっと立ち上がり、シマの側へと近づいた。
彼女は腰をかがめ、周囲に聞こえぬように小さな声でささやく。
「シマ、少し気になることがあるの。炊事班にいた……デシンスさんの妹、ティアさん……足を引きずってる。かなり酷いわ。もしかしたら――腱が切れてるんじゃないかしら」
スープの器を持っていたシマは、手を止め、静かに目を伏せる。
「……そうか。よく見てくれていたな、ノエル」
「気になって、ずっと。……でも、本人は隠そうとしてるみたいで」
そこへ、別方向からやってきたのはオスカーだった。
彼もまた、スープを片手にしながらシマに耳打ちする。
「シマ。こっちも一つお願い。梁の固定と屋根の仕上げ作業、今の人手じゃ時間がかかりすぎるし危ない。今日中に何とか仕上げておきたいんだけど」
「わかった」シマは即答した。
立ち上がり、声を少し張る。
「ジトー、トーマス、ロイド、クリフ」
四人が振り返る。
「屋根の作業、手伝ってやってくれ。オスカーの指示に従ってくれ」
「了解!」
「任せとけ!」
シマは続いて、ギャラガへ視線を向けた。
陽光の下、黙々と飯をかきこむ槍使いの男。
「ギャラガ」
「ん?」
「堀の作業、少し遅れる。俺が行くまでは、お前が指揮を執ってくれ」
ギャラガは眉一つ動かさず、あっさりと頷いた。
「了解だ。飯を食ってからな」
「頼む」
シマはゆっくりと立ち上がり、歩いていく。
「ヤコブ、ノエル、デシンス、ティア――話がある。」
その言葉に、一瞬空気が凍ったように周囲の視線が動いた。
一斉に集まる目線。訝しむ者、驚く者。
デシンスが眉をひそめ、ティアは少し戸惑った表情でうつむいた。
そして一同がシマの前に立つと、彼はみなの前で、あえてはっきりと告げた。
「隠しても仕方がないことだ。割り切って言うぞ」
言葉を切り、視線をティアに向ける。
「ティアの左足――引きずっているな。その足、もしかしたら――治せるかもしれん」
ざわり、と小さなどよめきが起こる。
周囲にいた者たちは思わず顔を見合わせ、ティアは驚いてシマを見上げた。
「……え?」
彼女の声はかすれていた。
「完全にとは言えん。だが、腱の損傷なら施術次第で改善する可能性がある。今のまま放置していれば、いずれ歩くことも困難になる。だからこそ、早めに判断せねばならん」
沈黙の中、ティアの兄であるデシンスが口を開いた。
「……それは、本当なのか?」
「ヤコブの知識とノエルの手、そして俺の判断。三人で確かめたい。できる限りのことはする」
そんな中、場を切り裂くように低い声が響いた。
「……治るだろう。俺と同じ様な傷が原因ならな」
声の主はオズワルド。
彼は黙って右肩の衣を掴むと、ためらうことなく脱ぎ下ろした。
露わになる右の肩口――そこには、深々と袈裟に斬り裂かれた傷跡が走っていた。
肌をえぐるようなその痕跡は、血で肉が裂けた日々の凄絶さを物語っている。
「先の戦で負った傷だ。知ってる奴もいるだろうが……俺の右腕は、全く動かなくなった」
重々しく落とされた言葉に、静寂が広がる。
そこにこだまするように、オズワルドはゆっくりと右腕を持ち上げ、軽く握って見せた。
「――が、今ではご覧の通りさ」
逞しい腕が、しっかりと力を宿して動く。
指先も、拳も、まるで何事もなかったかのように。
「……シマと、ヤコブと、ノエルの手によって、ここまで戻った」
誰かが息を飲む音が聞こえた。
ティアも驚いたように目を見開き、肩を小さく震わせている。
だが、そこにまた別の声が割って入った。
低く、静かに、確かな調子で――ユキヒョウ。
「……ティアは足に、矢を受けた。たしか……一年ほど前だったか」
その隣から、やや躊躇いがちに口を開く一人の若者――元・氷の刃傭兵団の団員。
「ああ。あれは……俺たちがバルムート公国に向けて物資を売りに行った時だ。買い付けも兼ねてたんだけど、途中で……野盗どもが襲ってきてさ。あいつは……ティアは、その時……」
「矢を受けたのは、左足の後ろだった」
今度はデシンスが続ける。
妹をかばうように前に出た彼は、ぎゅっと拳を握りしめながら言った。
「俺が引き抜いた……急いで。止血も、布を巻いただけだった。傷口は深かったが、骨には届いていなかったと思う。ただ……」
「その後、どう処置した?」
シマの声が落ち着いて響く。
「……きちんとした消毒、処置なんて出来なかった。その後は膿んだこともあった。だが、命に関わると思って……薬草で熱だけは下げた」
シマは頷き、何も責めずに言う。
「それで十分だ。その場で生かすための判断としては正しい」
ヤコブが、木箱から帳面と小筆を取り出して記録しながら問う。
「足を引きずるようになったのはいつからじゃ?」
「……傷が癒えたあと……力が入らなくて、歩き方が変になって、足首が曲がりづらくなった。今では、まっすぐに足を上げることができないの」
傍で聞いていたシマが言う。
「まだこれからだ。まずは患部を見せてもらうが、施術を行うかどうかは診た後に判断する。無理はさせない。だが、希望があるなら、それを掴む覚悟も必要だ」
ティアは震える手で自分の足に触れ、小さく、でも確かに頷いた。
「……お願いします」
その声に、周囲の誰もが黙って頷いた。
再び希望が灯った場所に、午後の陽光が優しく降り注いでいた――。
バンガローの中は静まり返り、外の喧噪がまるで嘘のように遠ざかっていた。
ティアは緊張した面持ちで床に腰を下ろす。
ノエルがそっと寄り添い、ズボンの裾をまくり上げた。
左足のかかとのすぐ上――そこに、不自然にうねるような傷跡が見えた。
かつて矢が深々と刺さったことを物語る古傷。
だが、その傷跡以上に異様なのは、足首からふくらはぎへと続くラインに、通常なら浮き出るはずの筋――アキレス腱――がまったく確認できないことだった。
「……アキレス腱が断裂してるな」
膝をつき、指先で丁寧に触れながらシマが言う。
声は冷静で、どこか祈るような静けさを含んでいた。
「本来ここには、張った弓のように硬い筋が浮き上がっている。だが、切れてしまってる場合は、それが消えているんだ」
ヤコブとノエル、デシンス、ティアも真剣な面持ちで頷く。
バンガローの空気は、まるで重い水の中に沈んでいるようだった。
沈黙が長く続いたあと、ヤコブが口を開いた。
「時間が経ちすぎているのう。けれど……不可能ではないのじゃな?」
年老いた学者の声は柔らかくも、確認するようにシマの方を見据えていた。
シマは静かに頷き、ティアの瞳を真っ直ぐに見つめて言った。
「……不可能ではない。だが――当然、リスクはあるぞ」
その言葉に、すぐさま声を上げたのはデシンスだった。
妹を庇うように、ひときわ強く。
「……リスクとは?」
代わってノエルが、静かに、しかしはっきりと答えた。
「命を落とす危険があるということです」
重い言葉だった。
その瞬間、空気が凍りつくような沈黙が部屋を支配した。
デシンスの拳がゆっくりと握られる。兄としての想いが、彼の言葉を押し出す。
「……それなら、今のままでもいいんじゃないか? 生きていけるじゃないか……」
それは、愛情から来る本音だった。失いたくない。ただそれだけの、切実な願い。
しかしその静寂を破ったのは、ティアだった。震える声で、彼女は口を開いた。
「……こんなこと言うのはおこがましいけど……私は、みんなを守りたかった。助けたかったの」
涙が一粒、頬を伝って落ちる。
「でも……それが逆に、みんなの足を引っ張るなんて……悔しくて、情けなくて……」
声が詰まりながらも、彼女は言葉をつむぐ。
「それでも、団のために出来ることは何でもやった。やってきた……けど……」
唇を震わせ、彼女はついに心の奥底に隠していた本音を吐き出した。
「……でもね……もどかしかったの。苦しかった……心の底から、笑えなくなったの」
静かに、けれど確かに涙が頬を伝い続ける。
顔を伏せたティアが、必死に涙をぬぐいながら頭を上げる。
「だから――シマ団長、ヤコブさん、ノエルさん……お願いします」
その瞳には、かすかな迷いもなかった。
痛みも、恐れも、すべてを越えた意志の光が、そこにあった。
ティアの言葉が静かに空間に染み込んでいく中、デシンスは拳を震わせていた。
己の無力さが胸に刺さる。
気を配ったつもりだった、寄り添ってきたつもりだった。
けれど――妹の心は、何一つ救えていなかった。
涙を流し、想いを吐露するその姿に、ただただ打ちのめされる。
唇を噛み締めながら、デシンスは深く頭を下げた。
「団長、ヤコブさん、ノエル……俺からも、頼む。どうか……ティアを、助けてくれ」
その声には、兄としての悔いと願いが滲んでいた。
真昼の陽光が斜めに差し込む堀を作る作業場。
乾いた土と汗の匂いが立ち込める中、鍬を振るう手を止めてダグがぼそりと呟いた。
「……これでティアの足を治してしまったらよ……」
その声に、隣で手を動かしていたマリアが顔を上げる。
「あいつが嘘をついてるとでも言うの? オズワルドの腕がまた動くようになったの、見たでしょ。シマたちのおかげよ」
「い、いや……そういうわけじゃねえんだけどよ」
目をそらしつつ言い訳をするダグの声は、どこか戸惑いを含んでいた。
「……規格外だからな。シマたちは…何とかしちまうのかもしれねえな」
少し離れた場所で土をならしていたギャラガが、低い声でそう言った。
その噂は作業の手を止めぬまま、各地へと静かに広がっていった。
木材集め作業場では、丸太を運んでいた男が仲間に声をかける。
「なあ、あの子の足……ホントに治せるのか?」
「さあな。でもあの団長がやるってんなら、もしかしてって思っちまうよな」と返す相棒。
手を動かしながらも、その表情には微かな希望が浮かぶ。
炊事班では、鍋をかき混ぜていた女たちが調味料の棚の前で立ち話している。
「聞いた? ティアちゃん、施術するんだって」
「怖くないのかしらね……でも、ノエルがついてるならきっと大丈夫よ」
なめし作業場ではサーシャが黙々と皮を叩いていたが、近くで手を動かす青年がぽつり。
「俺たちが手も出せなかった傷を、あの人たちは治そうとしてる……すごいよな」
その言葉に、サーシャの手が一瞬止まる。
「なんて言ったって、私たちの団長だし……」
呟くように続けた後、ぽつりと加える。
「……私の……彼氏だし」
言った途端、顔が真っ赤になり、慌てて口を押さえる。
「キャー! 何を言わせんのよ!」
叫びながら、青年の背中を勢いよくバシィンッ!
「うおっ!?」
という声と共に、青年は吹っ飛び、作業場のすぐ側を流れるルナイ川へ――バチャン!
飛び散る水しぶき。
川面から顔を出した青年が唖然とする中、サーシャは顔を真っ赤にして、身体をくねらせていた。
針仕事場では、一緒に作業をしている婦人たちにリズが言った。
「シマに任せとけば大丈夫ですよ。本当に…何とかしちゃうんだもの」
窯作り場では子どもたちの声が遠くに響く中、保護者の一人がぽつりと。
「先生たち、ホントに何でもできるんですね……あの足も、きっと……」
蜜蝋塗り作業場では、エイラが一人が囁いた。
「奇跡じゃない。積み重ねよね。きっと、ティアさんのことも、そうやって……」
陽射しが斜めに差し込む建築作業場。
土と木材の匂いが混じる中、柱を組み上げながら、ユキヒョウがぽつりと呟いた。
「動かなくなった手や足が、元通りに動くようになるなんて……本当にあるんだろうか?」
その言葉に、一瞬だけ手を止めたロイドが笑みを浮かべて言う。
「それをなんとかしちゃうのが僕たちの団長さ」
ドン、と槌音を重ねてジトーが続く。
「まあ、たとえ上手くいかなかったとしても……あいつのことだから、きっと何か考えるだろうよ」
オスカーが木材の長さを測りながら、「補助器具とかね。」と静かに言う。
皆の手は止まらない。
話しながらも作業を進める姿に、そこに確かな信頼と希望があった。
シマという男の背中を、皆が見ていた。
どの場所でも同じだった。
重たい過去と不安を背負いつつ、けれどどこか胸の奥に灯る微かな光。
その名は「希望」。
それを、シャイン傭兵団が確かに村にもたらしていた。




