防水加工
シマはバンガローの出入り口で立ち止まり、彼らを見渡した。
「《骨煙草の煎じ液》、忘れずに塗っとけよ。それと《香煙玉》もちゃんと飲んどけ。寸動鍋は後で団員たちに回収させる」
「おう、世話になるなぁ」
ギャラガが、片手を軽く上げて応じた。シマが踵を返そうとしたその時――
「それと、次来るときは酒も頼む。できれば甘いやつな」
「……ちゃっかりしやがって」
シマは軽く肩をすくめてから、笑いを押し殺すようにバンガローを後にした。
テント群の方へ歩き始める。クリフとロイドが横に並ぶ。
「なあ、重度の筋肉痛って……一日や二日で治るもんか?」
不意に投げかけたシマの問いに、クリフが目をしばたかせた。
「知らね」
素っ気なく答えたクリフに、ロイドが苦笑する。
「僕たちは、そもそも筋肉痛になったことがないからねえ」
そこへ、ジトーやトーマス、オスカーも戻ってきた。
皆に同じ問いを向けてみるが、返ってくるのは首を傾げる反応ばかりだった。
「わからんなあ」
「…どうなんだろうなあ…?」
シマは歩みを緩めて、ふっと息をつく。
「俺の前世の記憶の中じゃ、筋肉痛ってのはそんな簡単に治るもんじゃねえ。そもそもオズワルドの斬撃で負った傷だって……」
思い返すだけで、不気味なほど早い治癒だと感じた。
筋肉や皮膚の損傷、細胞の再生速度、それらが桁違いに見えた。
「でも、医療技術はすごかったんでしょ?前世の世界って」
オスカーが問いかける。
「ああ。比べもんにならねえくらいだな。道具も、薬品も、治療法も全部だ。今のこの大陸の水準じゃ想像もできねえレベルだった」
「でも、そのお前ですら驚くってことは……相当効いてるってことだな?」
クリフが片眉を上げる。
「そういうことだ」
シマは短く頷いた。
ジトーが腕を組み、空を見上げるようにして言った。
「俺たちは、お前のその“前世”ってやつの話も、色々聞いたけどな。いまいち実感が湧かねえんだよな」
「想像もできない世界だよね……空を飛ぶ金属の鳥とか、光の板で会話するとか」
ロイドの言葉に、皆が頷く。
「まあ、なんだ。なれるしかねえだろ、そういうもんだと思ってよ」
トーマスが、手を後頭部に回しながらぽつりと呟く。
「そうだな……考えても仕方ねえ」
シマも、軽く目を閉じて応じた。
その時、オスカーが少しだけ声を落として言った。
「ねえ、シマ。ギャラガさんたちにも……その“前世の記憶”って話、してもいいのかな?」
シマは一瞬黙り、そして静かに、しかしはっきりとした声で答える。
「いや……暫くは伏せておいてくれ」
「了解」
オスカーは短く答え、シマもまた黙って歩き出した。
どこか現実離れした記憶と、目の前の現実。
二つの世界のあいだを歩くような、その不思議な沈黙が、昼下がりの静かな雨風に溶けていった。
テント群の中央に並べられた即席の布台の上に、寸動鍋からよそわれた温かいスープが湯気を立てていた。
木椀に満たされた熊のスープの芳香と、少し硬くなったパンの素朴な香りが空腹を誘う。
シマたちは腰を下ろし、ゆっくりと食事を始めていた。
「体調はどうだった?」
サーシャがシマに顔を向ける。
唇の端に優しい笑みを浮かべながら。
「明日には動けそうだ……それと、ギャラガたちから“後で果実酒を持ってきてくれ”だとさ」
シマは匙を木椀の縁に置きながら、やれやれといった風にため息まじりで言った。
「私たちの分がなくなる……」
ケイトがわざと拗ねたような表情を見せると、周囲から小さな笑いが漏れる。
「そう、よかったわ!」
リズが嬉しそうに両手を合わせた。
「ね、40名以上の人手が増えるのは大きいわ」
サーシャがパンをちぎりながら言葉を継いだ。
「やるべきこと、山ほどあるもの」
「ねえ、お兄ちゃん」
隣に座っていたメグがスープを口に運びつつ、ふと顔を上げて尋ねた。
「さっきヤコブさんから聞いたんだけど……堀を掘るって本当?」
「ああ」
シマは頷きながら、パンを手で割る。
「空堀にするか、用水路を引いて水を通すかは検討中だ。ただ、それだけじゃねえ。逃走経路や、はぐれた場合の集合場所の設定、子供たちの安全対策も含めて考えてる」
「……確かに街道は一本道だしね」
ミーナが少し真顔で呟いた。
「敵に襲われたら、逃げ場が少ない」
「子供たちが堀に落ちることだってあるわよ」
ノエルが真剣な表情で言った。
「しかも夜だったら……」
「注意喚起だけじゃ絶対足りないわよねえ」
ケイトが肩をすくめる。
「子供は大人が思ってる以上に好奇心旺盛なんだから」
「冒険も好きだし」
リズが頷いた。
「『ここに入っちゃダメ』って言えば言うほど、行きたがるのよね」
「思ってもみない行動を起こすことがあるからな」
やや離れた場所で食事をしていたグーリスが言葉を挟む。
重々しく、けれど共感を込めた声だった。
熊のスープを飲み干したシマが木椀を置くと、周囲の視線が自然と彼に集まった。
その視線を受けながら、シマは口元を拭い、静かに言葉を継ぐ。
「……その前に、木材集めだ。柵を作るにも、家を建てるにも、まずは材料がなきゃ始まらねえ」
「んじゃあ、これから伐採作業か?」
ザックが木椀を置きつつ身体を起こして問う。
声はやる気混じりだが、ちらりと空を仰いだ。
先ほどまで降っていた雨は細かい霧雨に変わっていた。
「雨が小降りになったとはいえ……滑りやすい場所もあるわ」
ミーナがパンを手にしながら、少し眉をひそめる。
「ああ、だから午後からは防水加工の作業に移ってもらう」
シマは落ち着いた声で続けた。
「……ああ、それがあったわね」
ノエルが思い出したように口にする。
「おお、アレか! 水をはじくやつだろ? 俺のも頼むぜ!」
グーリスが嬉しそうに声を上げると、すかさず突っ込みが入った。
「自分でやるんだよ!」
クリフが肘でグーリスの脇腹をつつくと、周囲に笑いが広がる。
「やり方は僕たちが教えるから」
ロイドが優しく笑いながら言う。
「うむ、そうじゃのう」
ヤコブが腕を組みながら頷く。
「自分でやってこそ愛着がわくというものじゃ。道具に魂が宿る、という考えもあるほどじゃ」
そのやりとりを聞いていた周囲の団員たちは、一様に「???」という顔をしていた。
「防水加工?」「それって、どうやるんだ?」という小声がちらほらと聞こえはじめる。
「オスカー、見本を頼む」
シマが軽く顎で合図する。
「了解」
オスカーが立ち上がると、自分のブーツに水をかけた。
水は、表面にふっと玉になって弾かれ、すうっと流れて地面へと落ちた。
「おおっ!!」
周囲から一斉に感嘆の声が上がる。
「水をはじいてる?!」
「こりゃすげえ!」
「……水、染み込んでねえ!」
「魔法みたいだ……」
驚きと感動の混ざった声があちこちから上がる中、オスカーはにこやかに頷いた。
「乾かす時間は天候にもよりますが、晴れていれば数時間、曇りなら少し長めに、焚火に当てながら作業をしてもいいし。布や皮にも応用できますよ。それでテントとか布製の装備にも使ってるんです」
オスカーの言葉は、実際に自分たちの装備が防水加工されるとあって、聞く者の胸に希望を灯す。
「雨が降ってるから、焚火に当てながらやってみるか……飯を食い終わってからな」
シマが、静かに言った。
その声に、団員たちが頷いて散っていく。
食事を終えると、いよいよ作業が始まった。
傍にいた団員から借りた数枚とともに、丸太に掛けて固定する。
その横では、鍋に蜜蝋を入れて温めていたオスカーとヤコブが、刷毛を何本も用意していた。
「マントは外側は二回塗り。内側は一回塗りでな。それ以上やると生地がゴワつく。ブーツは三回塗り。底もな、同じく三回。縫い目とつなぎ目は特に丁寧にやるんだ」
そう言ってシマは、刷毛を取ると一枚のマントの裾に蜜蝋を塗りはじめた。
毛の目に沿って、ゆっくりと、均一に。
「刷毛を立てすぎるな。撫でるように、滑らせるだけでいい。こうやって……」
焚火の熱で蜜蝋が柔らかくなり、布地にじわりと染み込んでいく。
水気をはじく光沢がうっすらと表れ、団員たちは感嘆の声を漏らした。
「すげえ……染み込んでいくのがわかる」
「これで雨でも濡れることはなくなるのか……!」
一方、別の焚火の周囲でも、同じような光景が広がっていた。
リズは器用にブーツの縫い目をなぞり、ミーナがマントの裾を手で押さえて固定する。
ジトーはじっと作業の様子を見つめ、時折「そっち、塗り残しがあるぞ」と仲間に声をかける。
サーシャは団員のブーツを膝に乗せて、念入りに底部を塗っていた。
「オスカーが言ってた通り、こことここ、縫い目に水が入りやすいんだってさ。ちゃんと埋めるわよ」
ヤコブが、刷毛を手にして得意げに口を挟んだ。
「蜜蝋を溶かして、刷毛でぬ〜って塗っていくんじゃよ。しっかり染み込ませるようにな」
雨は弱まりつつあったが、冷気と湿気は依然として辺りに漂っていた。
だが、焚火のぬくもりと、仲間たちの息遣い、作業に集中する手の動きが、不思議な一体感を生み出していた。
焚火の赤い光が、蜜蝋を塗られたマントやブーツを照らすたび、それらは静かに水をはじく防壁へと変わっていく。
地道だが確かな手仕事。
その中に、傭兵団として生きる術と、互いを守る温もりが滲んでいた。
「まあ、雨に濡れて風邪ひくよりは、こうして工夫して備えたほうがいいってことだ」
頷き合う団員たち。
「シマ、ギャラガやユキヒョウたちも呼ぶか?」
トーマスが焚火の傍で問いかける。
シマは手を止めて空を見上げ、小さく頷いた。
「そうだな……一緒に仕上げちまった方がいいだろう。ついでに、寸動鍋の回収もな」
「おう、任せとけ」
トーマスは素早く立ち上がると、近くにいた団員ふたりに声をかけて連れ立ち、雨足が弱まった草地を踏み分けて、ギャラガたちの泊まっているバンガローへと向かっていった。
しばらくして、複数の足音とともに、テント群に新たな気配が加わった。
団員のひとりがそれに気づき、ぱっと顔を上げる。
「あっ、団長!」
その声にギャラガは少し眉をひそめたが、口元にはどこか照れくさそうな笑みを浮かべる。
「……俺はもう“団長”じゃねえって言ったろうが。…で、何やってんだ? 焚火囲んで妙な作業してんな」
駆け寄ってきた団員は、手にした刷毛を振りながら興奮気味に言った。
「団…隊長! これ凄いんですよ! 防水加工?っていうやつなんです!」
「防水……? 加工?」
ギャラガが不思議そうに眉をひそめた瞬間、シマが口を挟む。
「ここに来るまでに濡れちまったか。……ちとブーツを脱いでくれ」
ギャラガは無言で頷き、雨に濡れたブーツを脱ぐ。
シマは乾いた布を取り出し、丁寧にブーツの表面と底の水気を拭き取ると、焚火のそばにそれを立てかけた。
「よく見てろ」
そう言って、シマは蜜蝋が溶けた鍋に刷毛を浸し、手早く、だが丁寧に塗りはじめる。
ブーツの甲から縫い目、かかと、底部にいたるまで、刷毛の先で滑らかに、そして確実に。
「この蜜蠟を、こうやって塗っていくんだ。熱で染み込ませながらな。つなぎ目は特に念入りにな」
ギャラガは腕を組んで黙って見ていたが、作業が終わった後、シマが自分のブーツを取り上げたのを見て目を細めた。
「出来上がるとな……こうなる」
シマは無造作に水甕を手に取り、自分のブーツにざぶりと水をかける。
水は、ブーツの表面を流れるようにはじかれ、一滴も染みこまなかった。
「……水を……はじいているのか?!」
驚きと敬意が入り混じったような声を漏らすギャラガ。
彼の背後では、他の元団員たちも目を丸くしてその様子を見ていた。
「そうだ。防水加工ってやつだ。やっておけば、雨でも足が冷えねえし、マントも重くならねぇ。……後は任せていいか?」
シマは団員に刷毛を手渡しながら、軽く問いかける。
「任せてくれ!」
その団員は胸を張って、元団長のギャラガの方を向いた。
「俺が、団……隊長に教えますよ!」
「……お、おう。教えてくれや」
照れたように笑うギャラガと、それに張り切って答える団員。
そのやりとりを見守る周囲の団員たちの顔には、雨の夜にも関わらず、どこか温かい火が灯っていた。




