気圧
夕日がルナイ川の水面を赤く染め、やがて空が群青に沈んでいっても、作業の手は止まらなかった。
厩舎と馬車停留所の骨組みが組み上がったのは、日がとっぷりと暮れた頃だった。
木材は残らなかった。……そのすべてが寸分の無駄もなく使い切られた。
オスカーが図面に目を落としながらつぶやいた。
「…これで最低限の雨除けは完成だね」
厩舎は簡素な寄せ棟型の屋根を持つ、吹きさらしの建屋だった。
柱と梁で支えられ、四方は開放。
だが、密に張られた蜜蝋布が風雨を防ぎ、地面には厚く敷かれた落ち葉と藁が、湿気から馬の蹄を守ってくれる。
隣には馬車が十数台入れるスペースを確保し、同じく屋根を張った。
雨天時にも荷下ろしや整備ができるよう、地面には玉砂利を撒いて滑りを防ぐ工夫もされていた。
さらに、バンガローに入りきらなかった者のために張られた十数張のテント。
その上にまで、オスカーたちは簡素な屋根を設けた。
木材と麻縄を使い、テントを潰さずに浮かせた形で、上から布を張る構造。
これにより、直接テントを打つ雨を防ぎ、内部の湿気も最低限に抑えることができた。
だが、真価を発揮したのは、シマたちが地面に施した雨水対策だった。
「水が流れ込みそうなところを見つけろ」
シマが一声かければ、家族たちはすぐに周囲の地形を読み取り、盛り土と側溝掘りに移る。
「ここは5センチ高く、あっちは20センチ低いな」
ザックが鋤を振るい、ロイドが土を掘る。
テントの外周と厩舎周辺には幅20センチ、深さ20センチの側溝が掘られ、雨水が自然と流れるよう傾斜もつけられた。
側溝には、余った小石や木の皮を詰め、泥流れを抑える。
まるで水の道を知っているかのような作業だった。
「クリフ、馬たちの餌は大丈夫か?」
「もうすぐ干し草が乾く。グーリスたちが手伝ってくれて助かった」
日中、広場の隅で天日干しにされていた草束が、藁縄で束ねられて運ばれる。
フレッシュな青草も混ぜて、栄養バランスを整える。
刈り取った草は、かまどのそばで軽く乾燥させていたため、夜露にも晒されず、すぐ使える状態に仕上がっていた。
また、持ち帰った干し豆や穀物を砕いて作った飼い葉は、麻袋に詰めて馬ごとに小分けされて並べられた。
餌桶の代わりには、丸太のくり抜きや木箱が応用されていた。
夜の静けさと焚き火の灯りの中で夜はとっぷりと更けていた。
雨はまだ降らないが、空気は明らかに湿って重い。
だが、その中で、シマたちが作った拠点は、灯りと人の声に満ちていた。
焚き火の明かりに照らされた厩舎の骨組み、テントの屋根、側溝に並んだ石たち。
整然と並ぶ干し草の山と、ゆっくり草を食む馬たちの姿。
「……ああ、これで……ようやく、明日を迎えられるよ」
オスカーが深く息を吐き、そっと背筋を伸ばした。
雲ひとつない澄んだ空に、星が無数に瞬いている。
小さな焚き火を囲み、シャイン傭兵団と「灰の爪隊」「氷の刃隊」、グーリスの面々がそろって腰を下ろしていた。
パチパチと薪のはぜる音が心地よく耳をくすぐる。
「……シマよ、本当に明日は雨が降るんじゃろうか?」
彼の声は柔らかく、それでいて誰もが待っていた疑問をそっと代弁していた。
その言葉に、ギャラガやユキヒョウ、団員たちも焚き火越しに顔を上げ、どこか不安げに空を見上げた。
満天の星。
それでも、彼らはシマの直感を信じつつ、どこか納得しきれずにいた。
「――間違いなく降るわ」
メグがはっきりと断言する。
背筋を伸ばし、夜風に舞う髪を押さえながら、迷いのない声で。
「……な、何故……わかると聞いてもいいかの?」
ヤコブが眉をひそめつつ問えば、火の明かりに照らされた数名の顔が真剣になる。
「風がね、運んでくる匂いがまるで違うのよ」
ケイトがそっと目を細めて、鼻を鳴らすように風を感じる。
「そうよね。湿った空気、それから……耳がこう、キーンって鳴る?妙に張りつめた感じがするのよ」
ノエルが自分の耳を軽く押さえながら言う。
シマが静かに頷いた。
「気圧の変化だな」
「気圧……とは何じゃ?」
ヤコブが興味津々に身を乗り出す。
「うーん……うまく説明できねえが……」
シマが焚き火の枝をくるくるといじりながら言葉を選ぶ。
「……空気にもな、重さがあるんだ」
「空気に重さ……?いやいや!空気に重さ?!」
グーリスが思わず大きな声を上げる。
「んなもん感じたことねえぞ?」
「まあ、そうだよな。普通に暮らしてたらわかんねえし、意識もしねえだろうな。でもな、実際にはあるんだよ。空気が、地面とか人間とか、全部を上から押してんだよ。その力を“気圧”って呼ぶんだ」
シマの声に、周囲が静まり返る。
「その気圧が下がる時、体に色んな変化が起きるんだ。たとえば、雨が降る前に頭が痛くなったり、古傷がうずいたり、節々が痛んだり……体調が妙に悪くなったり、な」
「……あっ!」
一人の若い団員が声を上げた。
「思い当たることがあるかもしれねえ。俺、昔、左腕を折ってさ。雨が降る前の日って、なんていうか……疼く?って言えばいいのか、ズキズキしてくるんだよ」
「今はどうなんだ?」
ギャラガが腕を組んで、鋭い目でその男を見た。
「……確かに……今も、うずくっていうか、痛い感じがする」
「俺の母ちゃんもな、天気が崩れる前になると寝込むことが多かった。理由はわからなかったが……今思えば、あれも“気圧”ってやつのせいだったのかもな……」
別の団員がぼそりとつぶやくと、皆が静かに頷いた。
ユキヒョウが、火に照らされた瞳を細めて言った。
「……明日になれば、答えは出るさ」
風が、少しだけ湿り気を帯びて吹き抜けた。
空の星はまだ光っていたが、確かにその匂いは“雨”のそれだった。
シマが周囲を見回し、小さく息を吐く。
「明日、雨が降ったら作業は中止だ」
その言葉に、あちらこちらで気の抜けた安堵の吐息がもれた。
体の痛みに顔をしかめていた者たちも、少しだけ表情を和らげる。
「それと……今のうちに、ギャラガたちをバンガローに運ぶぞ」
「おう!」
誰からともなく返事が飛び、皆が立ち上がる。
シマは静かにギャラガのそばへ歩み寄り、肩を差し出す。
「立てるか? 薬は飲んだか?」
ギャラガはゆっくりと息を吸い、苦笑しながら答える。
「……なんとか、な……あたたっ……! ……こんな姿、嫁さんや子供たちに見せられねえなあ……」
重く湿った空気の中、ギャラガの痛々しい声がぽつりと響いた。
シマは黙って、彼の腕を自分の肩に掛ける。
その傍らでは、ロイドがユキヒョウの脇に回り、体をしっかりと支えていた。
「ユキヒョウさん、大丈夫ですか?」
「すまない。世話をかけるね……」
ユキヒョウの声には、気遣いとわずかな照れが混じる。
だがロイドはにっこりと笑いながら言った。
「僕たちはもう――仲間であり、家族じゃないですか」
その言葉にユキヒョウが目を細め、ふっと小さく笑う。
「……君たちの団は、面白いな」
荷物の整理をしていたトーマスがひょいと顔を出して言う。
「酒も運んでおくか?」
「飲みすぎない程度にな」
シマが即座に釘を刺す。
「そうだ! シマ、明日はどうせ雨で暇だろ? リバーシを貸そうよ」
オスカーが思いついたように言えば、「んじゃあ、お前がルールを教えてやってくれ」
「了解!」
笑い混じりの軽いやりとりが交わされる中、周囲では準備が進められていた。
ギャラガとユキヒョウのほか、筋肉痛や関節の痛みを訴える団員たち、総勢約40名が、作られたばかりのバンガローに向かって移動を開始する。
湿った空気のなか、バンガローの丸太の香りがかすかに漂う。
雨対策のため、屋根には防水布と簡易な雨どいが取りつけられていた。
建物の内部はまだ未整備だったが、乾いた敷物と布がいくつか敷かれ、数人ずつが横になれるだけのスペースが確保されていた。
団員たちは仲間の身体を支えながら、交代で肩を貸し、静かに、しかし確かな手つきで休息の場へと彼らを運び入れていく。
重たい体を横たえるたびに、布の擦れる音と、誰かの「ありがとう」の声が夜の空気に溶けていった。
部屋の中央にある囲炉裏には小さな火がともされ、じんわりと室内を温めていた。
トーマスが運んだ酒樽は隅にそっと置かれ、リバーシの駒と盤は、馬車の荷台から取り出されて小さなテーブルの上にそっと置かれた。
「じゃ、ゆっくり休んでくれ。」
シマの声に、バンガローにいた全員がうなずいた。
テントに戻るとヤコブが問いかける。
「ジトーよ、リバーシとはなんじゃ?」
彼の問いにジトーは、黒い駒を指でつまみながらにやりと笑った。
「説明するより、やってみた方が話は早えな」
言いながら地面に盤を置き、手際よく並べはじめる。
八×八のマス目の中心に、黒と白の駒を交互に置くジトーの手つきはどこか懐かしさを感じさせた。
その様子を見て、リズがふっと笑った。
「……私たちも、久々じゃない?」
ミーナも隣で頷きながら、手を頬に当てる。
「そうそう人前に出せない商材だからね。」
「でも、いいよね。思考と読み合い。剣じゃなくて、知恵と指先で勝つ感じがね」
ミーナが目を細めて駒を一つ手に取る。
そのやりとりを聞いていたザックが、顔を上げた。
「よーし、明日はリバーシ大会だな!」
大きく伸びをしながら、思わず声を弾ませる。
その声に視線が集まり、あちこちでくすくすと笑いがこぼれる。
「面白そうじゃな。わしも参加してみたいぞ」
ヤコブが白髪をかきながら言えば、
「おお、爺さんがハマったら徹夜でやりそうだな」
ジトーが笑い返す。
「徹夜でも構わぬ。学問とは集中の持久戦じゃからな」
「そしたら優勝商品を考えねぇとなあ……」
トーマスがぽつりと呟くと、
「勝ったら、果実酒、飲み放題とか?」
「それ最高!」
「えっ、それみんな本気になるやつじゃん」
「私には意味ないじゃん」
メグが頬を膨らませる。
笑いが弾け、駒が盤の上でカチンと鳴る音が夜気に混じって響く。
外では、木々がざわざわと風に揺れていた。
雨はまだ落ちてこない。
けれど、その分だけこの穏やかなひとときが、より深く団員たちの心に沁みわたっていた。




