ついて行けない?!
陽が真上に差しかける頃、シャイン傭兵団は山間を抜け、チョウコ村の姿を眼下にとらえた。
かつて人の暮らしがあったはずのその村は、今は無音の廃墟だった。
点在する二十棟ほどの家屋は、いずれも屋根が崩れ、壁板が剥がれ、土埃を纏って朽ちかけている。
所々には倒れかけた柵や石積みがあり、荒れた地面には雑草が生い茂っていた。
中心にある井戸を囲んで、数名が試しに桶を下ろす。
だが、引き上げられた水はわずかに濁っており、藻のにおいが鼻をついた。
「……まずは腹ごしらえだな」
シマが言うと、団員たちは草地に腰を下ろし、簡素な携行食を広げた。
木陰に敷いた布の上でパンをちぎりながら、サーシャが笑う。
「にしても、ジトーの杭打ち、迫力あったわよね」
「トーマスもな。あの腕で叩かれたら、熊でも一撃で倒れそうだぜ」
クリフがからかえば、トーマスはむしろ満更でもなさそうに鼻を鳴らす。
しかし、和やかな空気の中で、シマの目は遠くの木立に向いていた。
その視線に気づいたサーシャが、わずかに眉をひそめる。
「気づいたか」シマはパンを口に運びつつ、低い声で言った。
「狼がいた。数頭な。距離を取って様子をうかがっていた」
談笑の声が止み、団員たちがわずかに緊張を帯びる。
「焦るな。問題はない。今のうちに、やるべきことを伝える」
シマは立ち上がり、周囲の団員たちに声を張った。
「まず、井戸だ。濁りがある以上、何度も汲んで捨てる必要がある。担当は三名。代わりながらでいい、気長にやれ」
「了解!」
若い団員たちが立ち上がり、桶と縄を手に井戸へ向かった。
「次に、使えない家屋を撤去して整地する。作業人数は三十名。指揮はグーリスに任せる」
「おう!」
グーリスが一歩前に出て、鋭い目つきで周囲を見回した。
「山狩りに出る組もある。西ルートはサーシャ、ケイト、ミーナが先行。50メートル後方にギャラガと二十名がつく」
「東ルートはオスカー、メグ、ノエル、リズが先行。同じく50メートル後方にユキヒョウと二十名。目標は周囲の脅威を排除し、食糧確保だ」
「了解」
静かに応じるユキヒョウと、軽く頷くギャラガ。
いずれも鋭い眼光をしていた。
「次に、東側に流れるルナイ川までの道を切り拓く。俺、ジトー、トーマス、ザック、ロイド、クリフ。それに残りの約四十名で行う」
シマは手を掲げ、遠くに流れる川の方向を指さした。
「獲物は速やかにこちらに運べ。血抜き、皮はぎ、解体はルナイ川の浅瀬で行う。俺が担当する」
ジトーが、うなずきながら口を開いた。
「道の確保と柵の設置も急務だ。川べりで作業している間に熊が出る可能性もある」
「その通りだ」とシマ。
「だから、全員に伝えておく。万が一、村の中に狼や熊が現れても――慌てるな。落ち着いて対処しろ。スリーマンセルで行動し、何かあれば速やかに俺たちに知らせろ」
沈黙の中、団員たちは一人、また一人と頷いた。
冗談ひとつ飛ばさないその空気が、この地の厳しさを語っていた。
「さあ、始めるぞ」
その一言で、チョウコ村が再び、人の手によって動き出した。
枯れた地に、命が打ち込まれていく。
鬱蒼と茂る木々の間を縫うように、西回りの山道を進むサーシャたち一行。
その先頭で歩を進めていたサーシャは、一度立ち止まり、振り返って全員に目を配った。
「これから先、獣の領域に踏み入ることになるわ。いい、これだけは守って」
彼女の声は、囁くようでいて確かな力を持っていた。
「無駄口は慎むこと。気配は殺して、足音は立てない。これは基本中の基本よ。できるわね?」
ギャラガ以下二十名の男たちは、口々に「了解」と応じたものの、山狩りに不慣れな彼らの顔には微かな不安が浮かんでいた。
「指示には必ず従って。これが今日の生死を分けることもあるから。それから――これ、簡単なハンドサイン。『待て』『進め』『散開』『狙え』『待機』の五つ、今覚えて」
サーシャは素早く指の動きでサインを示し、続いてケイトとミーナも繰り返して見せた。
団員たちは真剣にうなずきながらも、どこかぎこちない手の動きで真似ていた。
そうして隊列は再び動き出し、山の斜面を南へと下りながら、山間部の入口方面へ――
だが、静かな山中に、彼らの移動音はよく響いた。
バキッ。
誰かが枯れ枝を踏み抜いた音。
サクッ、サラサラ……。
別の団員が足元の落ち葉を蹴り上げる音。
そのたびに、サーシャたちの眉がピクリと動く。
ギャラガ自身も苦々しい顔をしていたが、山中での動きには不慣れなのが明らかだった。
慎重に歩こうとすれば歩幅が不自然になり、逆に存在感が浮き立つ。
気配を消すどころか、むしろ動く度に『ここにいます』と告げているようなものだった。
「……想定より足手まといね」
ケイトがぼそっと呟くと、サーシャも小さく息を吐いた。
「…仕方ないわ…」
やがて、サーシャが突然片手を上げ、「待て」のハンドサインを出す。
ぴたりと前進が止まり、緊張が全体に走る。
サーシャの瞳が、木立の先を射抜いた。
獣の気配――狼、四頭。
音もなく、サーシャ、ケイト、ミーナが左右に散る。
木々の間をすり抜けるようにして、各自が射線を確保する位置へと移動。
ケイトは左手の二本指で「二頭」と示し、サーシャはうなずいて自分の標的を指さす。
ミーナもまた、残る一頭を示し返した。
風向きよし。距離、およそ四十メートル。射程内。
次の瞬間――シュッ――ズンッ!
矢が放たれた。
鋭い風切り音の後、狼の額に、こめかみに、眼窩に――寸分の狂いもなく命中する。
断末魔もなく、音を立てて倒れる影。
すぐに三人は二の矢を番える。
目を凝らし、死に際のわずかな動きさえ見逃さぬように観察する。
……やがて。
「絶命確認」
サーシャが静かに告げる。
三人は倒れた四頭の狼に近づき、引きずるようにしてギャラガたちのもとへ戻っていった。
口を開いたのはケイトだった。
「これ、シマのところに持って行って。急いでね」
目の前に落とされた、体重50キロはある狼の亡骸を見て、一人の団員が思わず「……あ、ああ」と曖昧に返事をした。
「……ねぇ、もしかして道、忘れちゃった?」
ミーナが笑いながら尋ねると、数人が気まずそうに目を逸らした。
彼らはどうやら、サーシャたちについていくのに必死で、周囲の地形や帰路の記憶までは手が回っていなかったらしい。
「しょうがないわね。私が二頭持ってくわ」
ミーナは言うなり、片方の肩に狼の胴を乗せ、もう片方の手で別の狼の足を持って、軽々と担ぎ上げる。
「……すげえ……」思わず声を漏らす団員たち。
残る二頭を、四人の団員がかりで持ち上げ、ミーナの後に続く。
「ついてきて。今度はしっかり覚えてね」
ミーナがにこやかに言うと、団員たちはこくこくと真顔で頷いた。
木漏れ日の射す山道を、再び静かに戻っていく彼らの背に、木々が風でざわめいた。
木々が密に立ち並ぶ東の山道を、オスカーたちの一行がゆっくりと進んでいた。
先頭に立つオスカーは足を止め、後方に向けて手を上げる。
「これ、簡単なハンドサインです」
指を使ってサインを示しながら、落ち着いた声で説明する。
「『待て』『進め』『散開』『狙え』『待機』の五つ、覚えてください。それから――私語は禁止です。枝を踏まないように、地面はよく見て進んでください」
言い終えると、全員が軽くうなずき、緊張した面持ちで構えを直した。
「……では、いきます」
歩き出して間もなく、オスカーの顔に僅かな翳りが差す。
(まずいな……今、風上にいる)
草の匂い、湿気、空気の流れ――オスカーは即座に状況を読み取った。
(このまま進めば、こちらの匂いが先に獣に届いてしまう。察知される……大きく迂回するしかない)
ちらりと後ろを振り返り、ユキヒョウたちの顔ぶれに目をやる。
(……ついてこれるかなあ、ユキヒョウさんたち)
風下へ出るため、隊は東へと大きくカーブを描きながら進む。
山中の斜面を這うように、獣道にもならないルートを慎重にたどる。
やがて、時間にしておよそ一時間が過ぎた。
足場の悪い斜面を越え、ぬかるみに足を取られながらも進み続けるオスカーたち。
しかし――
背後からは、折れる枝の音、乾いた咳、土を踏みしめる重い足音が絶え間なく続いていた。
振り返れば、ユキヒョウの部下たちは息も絶え絶え、肩で息をしている者も多い。
顔は赤く、額には玉のような汗。
唯一、ユキヒョウ本人だけが幾分余力を残しているようで、口元に静かな笑みを浮かべていた。
「一端、休憩を入れましょう」
オスカーの声に、ほっとしたようにその場に座り込む男たち。
「……あの、皆さん大丈夫ですか?」
「……僕はまだ何とかね」
ユキヒョウが小さく笑って答える。
その後ろでは、部下たちが疲労で顔を伏せていた。
少し間をおいて、ユキヒョウが口を開いた。
「オスカー、ひとつ聞いてもいいかい?」
「はい。なんでしょう?」
「……ただ山の中を歩いているようだけど、これには何か、意図があるのかい?」
その問いに、オスカーはまっすぐに答える。
「はい。僕たちは風上にいました。獣は嗅覚が鋭いので、僕たちの存在を先に察知される恐れがあったんです。なので今は、風下に立つための迂回行動をとっていました」
すかさず、メグが補足する。
「あと三十分くらい歩けば、風下にたどり着くわ」
「水分補給をして、息を整えてください」
ノエルが落ち着いた口調で促す。
「もう少しだから、頑張ってください」
リズもにこやかに続ける。
その言葉に奮起したのか、一同は再び立ち上がり、歩みを進めた。
そして三十分後、風向きが変わった。
鼻を抜ける空気の流れが、ようやく彼らの前方から吹く形に変わったことを、オスカーは確認する。
「ここです、ようやく風下に立てました」
だが、すでにチョウコ村からはかなり離れてしまっていた。
(ユキヒョウさんたちには酷かもしれないけど、ここからはスピードを上げる)
足取りを速めるオスカーたちに、ユキヒョウの部下たちは徐々に置いていかれた。
距離が広がっていく。
そして、その時だった。オスカーの目が茂みの奥に動く影を捉える。
狼、四頭。
指を素早く動かし、『散開』『狙え』のハンドサインを出す。
ノエルが一頭を狙い、リズが別の一頭、オスカーは残る二頭を一射で仕留められる位置に素早く回り込む。
シュッ、シュッ――ズンッ。
矢が放たれる。目とこめかみに、寸分の狂いもなく命中。
狼たちはその場に倒れ、痙攣することもなく絶命した。
やがてユキヒョウたちも遅れて合流。
だが、全員がぐったりとした様子で、誰一人として獲物を担ぐ余裕はなかった。
「……持って…歩けませんよね?」
オスカーが控えめに問うと、ユキヒョウの部下の一人が力なくうなだれて「……無理……!」と答えた。
「じゃあ、私たちで持っていくね」
ノエルとリズが即座に動き、手早く狼を二頭ずつ担ぎ上げる。
まるで訓練された狩人のように、しなやかで力強い動きだった。
さらにその後、足音を殺して進んだ先で――
オスカーが微かな蹄の音と草を食む音を捉えた。
鹿。二頭。
ハンドサイン『狙え』。風向きは上々。
遮蔽物を利用して近づき、矢を番える。
ズンッ――!ズンッ!
見事に心臓を射抜き、鹿は地面に沈むように崩れ落ちた。
「……今日の成果、上出来だね」
リズが肩越しに微笑むと、ノエルが小さくうなずいた。
――静まり返る山中に、オスカーたちの息遣いと、風に揺れる木々の音だけが響いていた。




