手術後
一時間後、静かな室内に、かすかなうめきが響いた。
「……ん……」
寝台に横たわるオズワルドが、ゆっくりと瞼を開ける。
まぶしげに目を細め、天井を見上げると、すぐに視線が左右へ動いた。
「オズワルド……!」
ノエルが駆け寄り、すぐさま額に手を当てる。
彼の頬にほんのりと赤みが差し、体温も正常な範囲内だ。
「目を覚ましたのね……」
「おい、大丈夫か……!」
傍にいたエイラとマリアも顔をのぞきこみ、続いてリズやトーマスらが次々に寄ってくる。
皆の顔には、言葉にならない安堵の色が浮かんでいた。
「……ああ……大丈夫……だ」
まだ声は掠れているが、意識ははっきりしていた。
シマが近づき、短く問いかける。
「痛みはなかったか?」
「……いや。まったく……何も感じなかった」
「意識は?」
「……夢すら見なかった。完全に、落ちてたな」
「今の気分は?」
「……少しだけ、頭がボーッとしてる……けど……吐き気もない。平気だ」
うなずいたシマは、そっとオズワルドの左肩に手を置いた。
「わかった。あとは、ゆっくり休め」
オズワルドは黙って頷き、再び目を閉じた。
その後、部屋の隅に設けられた簡易机の周りに、シマ、ヤコブ、ノエルが集まり、記録用の用紙と筆を用意する。
「今回の手術について、記録を残しておこう。何が良くて、何が足りなかったか……次に活かすためにな」
「うむ、異論はない。まずは、全体の経過じゃな。出血量は比較的少なかったが、患部の確認と縫合に約四十分を要した」
「麻酔の効果も良好だったわね。口からの服用は最小限に抑えられたし、昏睡状態も安定していたわ」
シマは頷くと、一枚の紙に「手術記録」と記し、手順や所要時間、使用した薬品などを書き出し始める。
やがてノエルが問いかけた。
「そういえばさ、生理食塩水?…で道具を煮沸したのって、どうして?普通の水じゃダメだったの?」
シマは少し考え込み、ゆっくりと言葉を探すように答える。
「……前の世界の知識なんだが……人の体の中には『菌』ってやつがいる。目には見えない小さな存在で、良い働きをするやつもいれば、悪さをするやつもいる。悪い方は、傷口から入ると体に異常を起こすことがある」
「ふむ。つまり、目に見えなくても『敵』がいるということかの」
「そういうことだ。生理食塩水は人の体液に近い濃度で、細胞や組織に刺激を与えにくい。道具を煮沸することで、その菌をできるだけ殺して清潔にする……というわけだが、正直、完璧に理解してるわけじゃねえ」
「それでも十分じゃよ、今の段階では」
ヤコブがうなずきながら言った。
「ところでシマ、人体の中にもっと深く――腹を裂いて何かを治すことも可能かの?」
シマは沈黙したあと、小さく答える。
「……可能にはなる。ただ、今回以上に危険だ。出血が多すぎれば、それだけで死ぬ。『輸血』っていう方法があるが、それには血の『相性』ってのがあって、合わなければ死ぬ。残念だが、その見分け方までは……俺は知らない」
「なるほど……神の領域のような話じゃな」
「今後の課題として、まず挙げたいのは『感染症』だ」
シマは紙にその言葉を記すと、続ける。
「これは、悪さをする菌が体内に侵入して、増えて、体を壊す状態だ。発熱、腫れ、膿、最悪の場合は死に至る」
「他には?」
「……『拒絶反応』。自分の体じゃないって、身体が判断して攻撃を始める。今回の縫合には起こりにくいが、何かを埋め込んだりすれば……壊死や組織の崩壊が起きる可能性がある」
「それは怖いのう……」
「最後に『合併症』。これは、直接的ではなくても、手術によって発生する二次的な症状だ。今回で言えば、手のしびれや、痛み、感覚の消失とか……悪い、俺もそこまで詳しいわけじゃねえ。だが、これらは全部、今後に向けて知識を集めておくべき課題だ」
用紙には、次のように書かれていた。
手術記録 - オズワルド右肩腱縫合手術
実施者:執刀 シマ、立会い・補助 ヤコブ、ノエル
使用薬剤:香煙玉抽出液、骨煙草煎じ液、リマネ草粉末(麻酔)
道具:木製鉗子・ペアン、小型ナイフ(消毒済)、絹糸・針(煮沸・火あぶり)
経過:出血少、患部確認良好、麻酔効果良好、手術時間 約40分
懸念点:感染症、拒絶反応、合併症(痺れ・感覚障害等)
今後の課題:
・消毒・殺菌技術の強化
・輸血の安全性と識別法
・麻酔の調整(持続時間、副作用の有無)
・術後観察と記録の標準化
シマは筆を置き、ひとつ息をつく。
「……これで、今日の記録は終わりだ」
ヤコブもノエルもうなずき合い、その用紙を丁寧に革のファイルに収める。
小さな一歩かもしれない。
それでも、戦士の命を繋ぐために、彼らは確かに「医学」を築き始めていた。
柔らかな陽が差し込む午後の室内。
オズワルドは薄い布団の中に身を横たえていた。
肩の包帯は丁寧に巻かれ、額には冷やした布が載せられている。
部屋には薬草のかすかな香りが漂い、静けさの中に、誰かが水差しを置く控えめな音がした。
「熱が……少し上がってるわね」
声の主はマリアだった。
彼女は水に濡らした布を絞り、慎重に額を拭う。
その手付きは、不器用ながらも真摯で、どこか震えていた。
「……あの時、私の前に出てこなければ、あなたはこんな目に遭わずにすんだのに」
静かに言うマリアの声は、懺悔のようでもあった。
オズワルドは目を閉じたまま、かすかに口角を上げる。
「戦士ってのは、守りたいものの前に立つもんだ。俺が選んだんだ、気にすんな」
マリアは答えず、しばし肩を震わせていたが、やがて薬包から乾燥させた粉末を取り出し、小皿に移す。
「熱が上がったら《タナ草の粉末》を――水で溶かして飲ませるわ。」
さらに、傍らに置かれた木箱から、もう一つ小瓶を取り出す。
「痛みが出たら《香煙玉》を一粒、ぬるま湯と一緒に……今は、少しでも安らかに眠って」
オズワルドの息遣いは落ち着いていた。
マリアは椅子に腰を下ろし、黙って彼の横顔を見つめる。誰にも知られない、静かな看病の時が流れていった。
その頃、エイト商会の食堂には、昼の光とともに、にぎやかな声が満ちていた。
長テーブルには、焼き立てのパン、肉と豆の煮込み、香草の入ったスープが並び、シャイン傭兵団の面々が思い思いに席についていた。
「このスープ、いい香りね!」
ミーナが笑顔でスプーンを口に運び、ノエルが大皿からパンをちぎって配っている。
ケイトとメグが向かい合って話し込み、ジトーとトーマスは食後の茶をすでに手にしていた。
シマはパンをちぎりながら、ふと口を開いた。
「……少し聞きたいことがある」
一同の視線が自然と集まる。
「俺の前の世界――いや、知識の中にはな、こういった世界を舞台にした話で『ポーション』とか『エリクサー』っていう、傷や病に効く飲み物があるんだが……聞いたことは?」
「ポーション……?」
首を傾げたのはトーマスだった。
「いや、俺は聞いたことないな。薬草茶とか、煎じ薬ならわかるが……」
「なんだか便利そうね」
ミーナが目を丸くしながら言った。
「傷をひと口で癒せるってことでしょ? 旅先じゃすごく助かりそう」
「……まるでおとぎ話のようだわね」
パンにバターを塗りながら、リズがつぶやく。
声は静かだが、どこか否定しきれない憧れが混じっている。
「じゃあ……魔獣とか、魔法って言葉は?」
シマが続けて問うと、今度はケイトが小さく身を震わせた。
「魔獣……? なんか聞いただけで恐ろしいわね」
「例えば、どんな生き物が?」
オスカーが興味深げに顔を寄せる。
「定番は竜、だな。それから、ゴブリンとかオーク。人に害をなす亜人種みたいなもんも含めて、よく話に出てくる」
「おとぎ話っていうより、兵士の寝物語にありそうじゃな」
ヤコブが顎に手を当て、目を細めた。
「だが、魔法ならあるではないか。…お主の知識じゃよ」
シマは苦笑する。
「……あれは、前の世界の科学や理屈を応用してるにすぎない。火が出たり、雷を落としたりってわけじゃない」
「それでも十分“魔法”よ」
ノエルが柔らかく言う。
「この世界にない知識を引き出すなんて、まさに魔法じゃない」
一瞬、食堂にあたたかな沈黙が訪れる。
窓の外には風に揺れる木の葉、陽光の粒がテーブルを照らし、そこに集う仲間たちの顔が静かに浮かび上がっていた。
束の間見つめる、穏やかで不思議な、知と癒しの時間だった。




