手術?!
エイト商会本部の一室。
夜の帳が静かに降りた頃、シマはオズワルドの元へと歩み寄った。
「オズワルド、右腕は……動かねえか?」
声をかけられたオズワルドは、少し笑って答えた。
「ああ、ダメだな。握ることも、肩を上げることもできやしねぇ」
その表情は、痛みを通り越して乾いた諦念が滲んでいた。
だが、戦士としての誇りは消えていない。
しばし沈黙が流れる。
シマは真っ直ぐに彼を見据えた。
「……もし、治る可能性があるとしたら?」
オズワルドの瞳が揺れる。だが、次の瞬間にはその顔に苦笑が浮かんだ。
「ハハ……差し出せるもんなら何でも出すさ……まさか…?」
周囲にいた家族たちが思わず耳を傾ける。
「可能性は低い。下手をすれば、命を落とすことになる」
それでもシマの声は静かで、確かな決意が込められていた。
「それがどうした? 今の状態じゃ、戦士としてはもう死んでるようなもんだ」
オズワルドの目には、覚悟が宿っていた。
それは、ゼルヴァリアの戦士としての矜持——自らの命さえも賭ける強さだった。
「シマ、本当にそんなことが可能なのか?」
マリアが声を上げる。
心配と戸惑いがないまぜになった目で彼女はシマを見つめている。
「シマは、根拠がないことは言わないわ」
サーシャが断言する。
「……でも、可能性は低いんでしょう?」
エイラが慎重に口を挟む。
その瞳には、仲間を想うゆえの不安が滲んでいた。
オズワルドはゆっくりと顔を上げる。
「問題ない。例え命を落としたとしても、俺は恨んだりしない。ゼルヴァリアの男として、戦士として……ここに誓う」
誰もが黙り込んだ。
まるで誓いの証のように静かに響く。
やがて、シマが息を吐くように言った。
「……そうか。じゃあ——まずは傷が完全に塞がってからだな」
「……?」
オズワルドが怪訝な顔をする。
「とっくにふさがってるぞ?」
「そうよ。私、《カレンドラ膏》使ったもの」ノエルが小さく微笑んで言う。
「切り傷や擦り傷に効く、薬草の軟膏よ」
「それに《スルナ包帯》も巻いたでしょ。薬草を編み込んだ特製品で、炎症を抑えて再生を促すの。カシウムの薬屋で買ったやつ」
ミーナが口を挟む。
「え? いや、結構な深い傷じゃなかったか?」
思わず眉をひそめるシマ。
「……見せてくれ」
逞しい肩から腕にかけて走っていたはずの深い傷跡は、わずかに色が変わっている程度で、すでに肉がしっかりと再生していた。
シマは思わず息をのんだ。
「……ふさがってるな……」
一瞬、無言で傷跡を見つめる。
再び顔を上げたシマは、ほんの少しだけ呆れたように苦笑する。
(……何気に……異世界ってすごくね?)
癒えたのは皮膚だけ。
「……他には、どんなものがある?」
そう尋ねた声に、ノエルがすぐ反応した。
腰のポーチから丁寧に小さな瓶や紙包みを取り出し、膝の上に並べていく。
「まずこれ。《タナ草の粉末》。発熱時に服用する薬で、苦いけど即効性があるわ」
「それから……《骨煙草の煎じ液》。筋肉痛や関節痛に効くの。軽く温めてから患部に塗って」
「これは《錠粒・青印》。食中毒や消化不良に効くけど……匂いが強烈なのが玉に瑕ね」
ミーナが顔をしかめ、「あれは本気で鼻にくるわ」とぼやく。
「《毒消し粉》。蜘蛛や蛇の毒には有効。標準的な解毒薬ね」
そして、最後にノエルは白く薄い紙に包まれた、つややかな小さな丸薬を取り出した。
「《香煙玉》。これは安眠や鎮痛作用がある薬を染み込ませた玉。噛まずにそのまま飲むの。」
ノエルがそれをシマに渡すと、シマは玉を手の中でじっと見つめた。
「……ヤコブ、《香煙玉》を使って、麻酔薬の代わりにならねえか?」
その問いに、ヤコブの眉がぴくりと動く。
興味と警戒、そして即座に知識の引き出しを探りはじめる動作だった。
「……理論上、ありえない話ではないのう」
立ち上がったヤコブが近づき、《香煙玉》をシマの手から受け取る。
手に乗せ、光に透かし、匂いを嗅ぐ。
「深い麻酔までは……いや、組み合わせ次第では可能性があるか…?」
「どういうこと?」
サーシャが訊ねる。
ヤコブは一瞬考え込み、手帳に走り書きをしてから答える。
「……この玉を砕いて、煮出す。低温でじっくり抽出することで、香料成分が気化しすぎずに保持できるはずじゃ」
薬包の中身を器に移しながらヤコブは続ける。
「そこに《骨煙草の煎じ液》を少量……これは筋肉への緩和作用がある。温めることで血流を促し、痛覚の伝達を緩める効果が強まる…さらにマンドラゴラの根から抽出した精液が加われば、即効性と深度は段違いになるの。ただし……扱いは極めて慎重になるがのう」
その言葉に、さすがのマリアも眉をひそめた。
「マンドラゴラ……あれ、致死量が紙一重じゃない?」
「その通りじゃ。だが、ごく薄く希釈し、基剤と混ぜれば幻覚の一歩手前まで持っていける。鎮痛、昏睡、筋の脱力……理想的な状態じゃ」
その時、シマがぽつりと口を開いた。
「……吸引や湿布でも、効果はあるか?」
ヤコブはすぐに反応し、「ふむ、的確な観点じゃ。吸引なら気道を通じて中枢神経に直接作用する。即効性は高い。ただ、持続時間は短くなるがのう」
彼は懐から取り出した用紙に、過去の症例のような図を素早く描きながら続けた。
「湿布は、患部から徐々に成分が浸透する。局所的な麻痺や感覚遮断には有効。ただし全身鎮痛には時間がかかる」
シマは静かに頷く。
「吸引は導入に使って……意識が薄れたら、煮出し液を口から少量ずつ飲ませる。湿布は術野周囲に貼って、局所的に神経を鈍らせるようにすれば……」
「即席でここまで考えるとはのう……」
ヤコブが呆れたように感心する。
「……命が懸かってるからな」
シマは短く返す。
オズワルドは黙ってそのやりとりを聞いていたが、やがて静かに笑みを浮かべた。
「……全てをお前に任す」
その夜、彼らは初めて“戦場ではない命の戦い”に向けて、着実に準備を進めていった。
――それは新しい医療の幕開けであり、かつて“外法”と呼ばれ蔑まれた男が、正しくその知をもって誰かを救う第一歩でもあった。
「オスカー」
シマは低く声をかけた。
オスカーが顔を上げると、シマは一枚の紙を差し出す。
そこには、簡素だが正確な線で描かれた、見慣れぬ道具の図。
「これを作れるか? 木でな」
オスカーは眉をひそめ、黙って紙を受け取った。
「……見たことない形状だね」
「ああ。刃はない。挟んで圧迫するだけでいい。先端は丸く、滑りにくいように溝を彫る。開閉は弾力で足りる。噛み合わせが甘いと意味がない」
「……まあ、やってみるよ。」
物資袋の脇に置かれた狩猟用の小型ナイフ――野営や解体に使う、刃渡り十五センチほどの頑丈な一本だ。
シマは腰を下ろし、火のそばに平らな石を置くと、そのナイフの刃を光にかざす。
「……まだいけるな」
そう呟くと、袋から取り出した砥石に水を垂らし、静かに研ぎ始めた。
一定の角度を保ち、無駄のない動きで刃を引く。
彼の目には、戦うための武器ではなく、「切開するための道具」としての目的が映っていた。
やがて砥ぎ終えると、刃に指を滑らせて刃の立ち具合を確かめる。
紙を一枚、薄く裂いて感触を見てから、ようやく満足そうにうなずいた。
次に、彼はもうひとつの小袋を開ける。中には糸巻きに巻かれた絹糸と、細工針が数本。
「糸は絹。耐久も伸縮も申し分ない。」
細工針を一本つまむと、火に近づけ、静かにあぶる。
赤くなる直前で火から離し、冷ましながら――先端をほんのわずかに、親指と人差し指で曲げた。
「……この角度で、皮膚の下を通しやすくなるだろう」
二日後、エイト商会の奥、窓のない一室。
外部との接触を絶つように扉は厚手の布で覆われ、簡易的ながら「密室状態」が保たれていた。
気温は高く、空気はわずかに薬草の匂いと煮沸水の湯気で満たされている。
部屋の隅では、煮沸した道具類──木製の鉗子、ペアン、曲げ針、小型ナイフ、そして清潔な布が積まれていた。
全ては丁寧に熱湯で消毒され、布には薬草から抽出した消毒液が染み込ませてある。
寝台にはオズワルドが横たわっていた。
肩から上半身を露出させ、胸で静かに呼吸を繰り返している。額には汗。
だが、眼差しはどこまでもまっすぐだった。
「始めるぞ。覚悟はいいか?」
そう言うシマの声には、微かに緊張がにじんでいた。
「……お前に任せたと言ったはずだ」
静かに、だが力強く答えるオズワルド。
ヤコブが慎重に、即席で調合した麻酔薬の蒸気を、吸入器代わりの管からオズワルドに吸わせていく。寝台の脇には、肩用の鎮痛湿布がすでに貼られていた。
「意識が……薄れてきた……ぞ……」
彼の声が弱まり、瞼がゆっくりと落ちる。
ノエルが煮出し液を器に移し、小さな匙で口元へ。
「少量ずつ……慎重に。誤嚥させないで」
ノエルの声に、シマはうなずいた。
室内の空気が張り詰める。
誰もが息を潜める中、シマは最後の確認を終えると、あらかじめ研ぎ澄ませておいた小型ナイフを取り出した。
「……行く」
ナイフの刃が、静かに肩口の皮膚をなぞる。
皮膚が、筋肉が、ゆっくりと裂けていく。
清潔な布で滴る血をすぐさま拭い、ノエルが横から薬草を浸した布で患部を押さえる。
「見えた……」
切開された筋層の奥、腱がはっきりと断たれていた。
まるで糸を切ったように、白く浮き上がった腱の両端。
「見事に……切れてるな」
シマは短く呟き、深く息を吸う。
手にした木製の鉗子で、断裂した腱の一方をそっと持ち上げ、もう一方に近づける。
「ノエル、針」
「はい」
消毒された絹糸と、火であぶってわずかに曲げられた針。
ノエルが差し出すと、シマはそれを受け取り、慎重に、断裂面に針を通していく。
指先に、集中する。
一本、また一本。腱の両端を、丁寧に、滑らせるように縫い合わせていく。
「よし……縫合、あと二箇所」
ヤコブが緊張したまま見守る。
彼の額にも玉のような汗が浮いていたが、口元は決して乱れない。
「今、微細に動いたぞ……反射かもしれん。麻酔がまだ効いているなら、問題ない」
シマは縫合を終え、患部に清潔な布をあてがい、軽く圧迫しながら確認した。
「腫れは……少ない。血も、止まってる。よし……仕上げに入る」
皮膚を、丁寧に縫い戻していく。
ナイフの切開線を追うように、針を進め、絹糸で細かく丁寧に縫合。
最後の一針を終えると、息をついてナイフを置いた。
「……終わった」
その言葉に、張り詰めた空気がふっと緩む。
ノエルが冷やした湿布を軽く当て、患部に包帯を巻いていく。
手術は成功したかどうか、まだ分からない。
これから数日の経過を見ねばならない。
しかし一つだけ確かに言えることがあった。
「俺たちは……やれるだけのことは、やった」




