笑えない?!
ラドウの街、中央通りの一角。
人通りの少ない、しかし見上げれば堂々たる石造りの三階建て――そこが「コイタチモ商会」の本店だった。
店前には私兵らしき男たちが無言で立っている。
そんな建物の前に、クリフは静かに立っていた。
クリフが声を掛けたのは20代ほどの若い従業員だった。
目元に緊張が見えるが、職務は真面目にこなしているようだ。
「どちら様でしょうか?」
「シャイン傭兵団、団長補佐のクリフだ。コイタチモ議員に話がある。面会をお願いしたい」
従業員は少し戸惑った様子で、眉をひそめる。
「……はあ、少々お待ちください。いらっしゃるのは確かですが、会っていただけるかどうか……」
言葉を濁しながら、彼は奥の扉の方へと姿を消す。
数分後――戻ってきた彼の口からは、意外な言葉が発せられた。
「……会っていただけるそうです。こちらへ」
廊下を抜け、重厚な扉の前で一礼する従業員に促され、クリフは静かに執務室へと足を踏み入れた。
中は広く、装飾は金と赤を基調とした俗な豪奢さ。
壁にはコイタチモ商会の紋章が掲げられ、書類や帳簿が無造作に散らばる大きな机の奥に、コイタチモがふんぞり返っていた。
短く刈り込まれた髪に、油を含んだような肌。
目つきは細く、笑っていても全く笑っていない。
その左右には、見るからに荒っぽい私兵が二人立っていた。
片方は頭にバンダナを巻いた小柄な男。
もう一人は、背の高い白髪混じりの大男で、斜に構えながら壁にもたれている。
クリフが一礼して立つと、コイタチモが舌打ちを一つ。
「……チッ。手土産も持参しておらんのか。客人ってのは、最低限の礼儀くらいわきまえてくるもんだがな」
クリフはその言葉をスルーし、無表情のまま口を開く。
「用件を伝える。チョウコ村の土地が欲しい。聞くところによると、あんたらの承認が必要だとか」
コイタチモは鼻で笑った。
「……チョウコ村ぁ?」
すると、すかさず私兵の一人――小柄な男が口を挟んだ。
「放棄された村……確か、そんな名前だったかと」
今度は壁際の大男が腕を組み直しながら、低い声で付け加える。
「ああ、あったな。ダグザ連合国との国境地帯近くにあったはずだ。」
その言葉を聞き、コイタチモは面倒くさそうに顎を撫でたあと、クリフを見据えて口を開く。
「そんなところを手に入れて……どうするつもりだ? まさか、住むとかいうんじゃないだろうな?」
言葉には皮肉と嘲笑がたっぷりと混じっている。
「そうだ」
クリフはただ一言だけ返した。
低く、乾いたその声に続く形で、コイタチモは破顔し、腹の底から笑い出した。
「ワッハッハッハ! そんな辺鄙なところに……住むだと? ククッ……まあ、私は話の分からん男ではないぞ。承認が必要なら……わかるだろう?」
彼の目は細く笑いながらも、口元には薄汚れた欲望が滲んでいた。
まわりくどい言葉を使いながら、指をすり合わせる仕草を交え、はっきりと「金を寄越せ」と態度で示していた。
だが、クリフはそんな“土俵”に立つ気はなかった。その瞬間だった。
――「シュッ!」鋼が空気を裂く。
アーミングソードが、クリフの手によって一閃された。
真っ直ぐに、無駄の一切を排した動きで――目で追う暇すら与えない、完璧な抜剣。
刀身が通過したのは、目の前の重厚な机。
瞬間、パキンという木材が裂ける音を残して、机の中心が斜めに切断される。
コイタチモの肘が置かれていた部分は、バランスを失ってずるりと傾き、重たい音を立てて床へと崩れ落ちた。
「力を見せろってことだろ」
クリフの低い声が響いた。
その声は低く、静かだった。
だが、その場にいた誰もが感じた。
それは剣ではなく、“死”を目前に突きつけられたような圧だった。
空気が重い。
まるで空間そのものがクリフの怒気と冷徹な意志で圧縮されているかのようだった。
コイタチモの顔がみるみる青ざめ、頬がひきつる。
「は、は、は……」と口を開いたまま、まともに息もできず、過呼吸のような呼吸音を漏らす。
脂汗が額を滑り落ちていく。
小柄な傭兵は、剣が振るわれた瞬間に、腰を抜かしてその場に尻餅をついていた。
両手が震え、立ち上がる気配すらない。
もう一人の白髪交じりの大男は、それでも剣に手をかけようとした――が、体が動かない。
その脚はがくがくと震え続け、まるで自分の意思とは無関係に震動を繰り返している。
目は見開かれ、口はわなわなと震え、冷や汗が喉元を伝っていた。
クリフはただその場に立っているだけだった。
彼の顔には何の感情も浮かんでいない。
ただ、静かに一つの問いを突きつけるような無言の威圧。
執務室に静寂が戻る。
いや、戻ったようでいて、何かが壊れたまま、静まり返っていた。
真っ二つに裂かれた分厚い机の断面が、いまだ新しい。
そこにはまだ、金属の余熱すら残っているように思えた。
空気が焦げている――そんな錯覚が、室内を支配していた。
沈黙の中、クリフが淡々と口を開く。
「で? 力は見せた。合格か?」
その声は低く、抑制された熱を帯びている。
だがそれは、ただの言葉ではない。
先ほどまでの威圧を、そのまま声にしたかのような…質量を持った音だった。
椅子にもたれたまま硬直しているコイタチモが、ピクリと反応した。
目は虚ろ。言葉は出てこない。だが、意思だけが首に伝わる。
「……コク……コク……」
まるで壊れた首振り人形のように、ガクガクと首を縦に振る。
無様なまでに、必死な肯定。
「……あんたから正式に承認を得た証は?」
クリフの声は変わらず静かだったが、コイタチモにとっては刃のように鋭かった。
「……ひっ、ひだ、棚……だ……棚の中に……」
か細く、かすれた声。
指だけを震わせながら、背後の古びた書類棚を差す。
棚の奥に、埃をかぶった紙束が見えた。承認証の用紙だ。
使用頻度が低すぎて、まるで使い方を忘れていたかのように眠っている。
震えて動けないコイタチモたちに代わり、クリフが無言で歩み寄る。
足音は重く響き、床がたわむたびに部屋の空気がびくりと震えた。
書類を抜き出し、机の残骸の上にそっと置く。
インク壺と筆を引き寄せる手も、静かだ。
「……署名を」
手が、震えている。
まるで冬山で凍えた人間が火を求めるように、か細く、無様に。
筆を持つ手は、まるでミミズが這うような線しか描けない。
「……ちが……くそっ……」
何度も、紙をぐしゃぐしゃにしながら、やり直し。
そのたびに、クリフの視線がぴたりと止まる。
その視線の重みに、コイタチモの肩が縮こまる。
ようやく、30分後――。
ひどく歪んではいたが、なんとか“コイタチモ”と呼べる文字が書きあがった。
無言で書状を手に取ったクリフが、ひとつ頷く。
「……邪魔したな」
そのまま振り返り、壊れた机の横を通って、扉を開けて出ていく。
足音は、重さを残しながら廊下の奥へと消えていく。
――部屋に残されたコイタチモたちは、その場に崩れ落ちた。
過呼吸で肩を上下させる商会主。
白髪混じりの大男は、なおも脚が震え続けている。
小柄な傭兵は、呆けたように床を見つめ、喉をゴクリと鳴らすだけ。
ようやく終わった、という安堵と、ただただ抜け落ちるような恐怖。
昼下がりの街を抜け、クリフはヒルズ宿への帰路を歩いていた。
あの執務室の空気とは違い、陽射しが心地よく降り注いでいる。
人々の笑い声、商人の掛け声、どこかの犬の鳴き声。
クリフは、何も言わずに歩く。
だがふと、軽く鼻で笑い、ぽつりとつぶやいた。
「……これじゃあ、ザックたちのことを笑えねえなあ……」
自嘲気味に肩をすくめる。
先ほどの交渉――いや、あれは“交渉”と呼べる代物ではなかった。
力任せに、相手をねじ伏せた。
威圧で屈服させ、意思で捻じ曲げた。
笑いながら女の尻を追っていた家族たちのやり方を、笑えた口ではない。
「……まったく、俺もずいぶんと……酷えやり方をしたもんだ」
誰にも聞かせるつもりのない独り言。
それでも、ふと自分の影が少し長く見えた気がした。
その背中には、ただ一つの覚悟だけが宿っていた。
“必要なものを、必ず手に入れる”――それが家族たちのためであれば。




