商品化
エイト商会の商談室は、昼下がりの柔らかな陽光に照らされながらも、どこか緊張感を孕んでいた。
壁際の棚には高級筆記具や契約書用の印が並ぶ。
重厚なテーブルにはシマ、ジトー、エイラ、ミーナ、そしてエイト商会の三人、ダミアン、アレン、ディープが着席していた。
つい先ほどまで倉庫で弓を構え、無邪気に笑っていたダミアンとはまるで別人だ。
今の彼の顔には、商会の代表としての鋭さと冷静さが宿っていた。
顎に軽く手を添え、言葉の一つ一つを吟味するように黙している。
エイラが、整えた声で切り出した。
「装飾にかかる費用を差し引いた額の、五十パーセント。これが我々シャイン商会側の取り分で問題ありませんか?」
静寂が一瞬場を支配した。
ダミアンの視線がエイラを捉えたまま、ほんの数秒沈黙。
やがて、口元を僅かに上げて答える。
「ああ、良いだろう。あの弓を手にしてみりゃ……納得する。あれは、ただの道具じゃない」
彼の声には確信があった。
実際に触れた者にしかわからない、精密で美しく、それでいて実用性を損なわない逸品。
それが、オスカーの作る“特別仕様の弓”だった。
「ご購入いただく人物の特徴、経歴、身分証明の提示。これを必ず、こちらに共有いただきますよう。お忘れなきように」
エイラは一切の笑みを見せず、淡々と確認を取る。彼女の交渉は常に綿密で、抜け目がない。
「もちろんだ。売る相手を選ばねえと、あの弓の価値も落ちる。せいぜい高く売りつけてやるさ」
ダミアンが冗談めかしながらも、本気の眼差しで答える。
アレンが脇から笑みを浮かべつつペンを走らせ、契約書の草案に修正を加えていく。
話はさらに詰められた。
オスカーの作る「特別仕様の弓」は、エイト商会に対してのみ卸される。
それが市場におけるブランド価値を高めるための条件。
そして、シャイン商会は一般向けに量産型の弓を売り出すが、団長・シマの認めた人物に限り、特別仕様の制作が可能になる。
この特例も契約書にしっかりと盛り込まれた。
ジトーが一度契約書を手に取り、念入りに目を通す。
ミーナがその隣で淡く頷き、補足を口にする。
「この特例は、信頼の証。シマが認めた者にしか渡らない、それだけで価値が生まれるわ」
アレンが満足げに頷き、ディープが封蝋の準備を整える。
朱印とともに、契約書の最後のページにサインが記され、音もなく取引は完結した。
「よし。これで、晴れて我々の弓が“商品”になる」
そう呟いたシマの口元には、静かな決意が浮かんでいた。
商談室の空気は、一瞬だけ温かさを取り戻したように思えた。
一息つく間もなく、アレンが静かに咳払いし、手元の資料を指先で整える。
「こちらから提案があります」
先ほどの弓に関する交渉とは異なるトーンに、全員の視線がアレンに集中する。
「蜜蠟を塗ったテント、マント、ブーツの発売時期についてですが……来年の四月初旬にしたいのです」
「四月?」
ジトーが眉を上げる。
「理由を聞いても?」
エイラが静かに促すと、アレンは即座に頷いた。
「雨季はおおよそ五月から六月。つまり、実際に雨にさらされる前に商品が市場に出回っていれば、購入者たちが直に体感できるわけです。『ああ、これは本当に濡れない』『便利だ』と。口コミが広がるには、それが最も効果的かと」
「名声と実利、両方を取るというわけね」
エイラが微笑を浮かべる。
商会の者として、実に理に適った提案だった。
しかし、ミーナが穏やかに、けれど核心を突いた。
「問題があるわね。私たちシャイン商会と比べて、エイト商会の生産能力は……正直、段違いよ。同じタイミングで売り出して、うちが数十、そちらが数百じゃ、バランスが悪いわ」
室内にやや重たい沈黙が落ちる。
その場の誰もが、ミーナの指摘の正しさを認めていた。
「でもよ、売れたぶんだけ、そっちにも金は入るじゃねえか?」
ディープが口を挟む。彼らしく飾らない言葉に、場が少しだけほぐれた。
「……わかりましたわ」
エイラがしばし沈黙し、深く頷く。
「来年四月に、一緒に売りに出しましょう」
ジトーが笑いながら腕を組む。
「欲張っても仕方ねえか。足並みを揃えるってのも、大事だよな」
ここからは、実務的な話し合いが続いた。
価格の設定、値段の統一、各品目の仕様——
テントは二人用、三人用の大小の展開が検討される。
防水処理の重ね塗りによる重量差も反映され、用途に応じた仕様がまとめられた。
マントは夏用と冬用で生地の厚さを変え、防水のほか通気性や防寒性も加味されることに。
ブーツに関しては、エイト商会側が推した「軽量だが滑りにくい革」が双方で採用される見通しとなり、シャイン商会もそれに倣う形で同じ供給元から革を仕入れる手続きを進めることになった。
「名前分けはするか?」
ジトーが提案するが、「今回は共同名義として売りに出そう」とアレンがまとめ、シャインとエイト、両商会の名前を明記したロゴが開発されることが決まった。
そして、時に激論を交えながらも、日が傾く頃——
「では、これにて商談を締結としましょうか」
エイラが契約書に目を通し、ペンを取った。
シャイン商会とエイト商会、両者の代表が次々と署名を入れ、静かに封蝋が押される。
一同が席を立ったその瞬間、夕陽が商談室の窓から差し込んだ。
ダミアンが短く息を吐きながら、「……やれやれ、まるで戦のあとだな」と漏らす。
シマが笑って応えた。
「でもこれで、名実ともに“商品”が世に出る」
その言葉に、全員の顔に確かな手応えと、未来への期待が浮かんだ。
エイト商会の商談室を出た瞬間、空はすっかり夕暮れ色に染まり、街には一日の終わりを告げる鐘の音が静かに響いていた。
どこか気の抜けたような空気のなかで、ダミアンがふっと口を開いた。
「……今夜は、ささやかな祝杯でも挙げるか」
肩を回しながら笑うダミアンの声音は、先ほどまでの硬質な商人の顔とはまるで別人のように柔らかい。
「明日からは寝る暇もねえくらい大忙しになるだろうしな」
ディープが続けた。
既に次の生産準備が頭を占めているのか、その顔はどこか覚悟に満ちていたが、口調は軽い。
「今夜くらいは、いいかもね」とアレンが呟く。
珍しく疲れのにじむ目を細めながら、それでもどこか楽しげな表情を浮かべている。
そこへジトーが、いつもの低音でぽつりと口を挟んだ。
「……驕りじゃねえのか?」
ダミアンが顎で彼を見やり、肩をすくめて笑う。
「今日だけだ」
次の瞬間、シマ、ジトー、エイラ、ミーナの四人がほぼ同時に満面の笑みを浮かべた。
「食いまくってやる!」
シマが両手を広げて叫ぶ。
「飲みまくってやるぜッ!」とジトーが拳を突き上げる。
その様子にエイラとミーナも思わず笑い出す。
長く張り詰めたやりとりの末の、緩やかな開放だった。
そんな和やかな雰囲気の中で、ふとダミアンが振り返ってシマに尋ねた。
「……で、アレの代金はどうなるんだ?」
「アレ」とは、言うまでもなく、オスカーが今朝仕上げた、ダミアン専用の美しい弓のことだった。
シマがニヤリと笑って言った。
「アレはあんた専用の弓だからなあ……そりゃあもう、特別価格だ」
「今日の夕飯の代わりでいいんじゃないかしら?」
エイラがからかうように微笑む。
「そうすれば、遠慮なくいただけるわね」
ミーナも軽やかに付け加える。
「最初っから遠慮する気はねえけどな」
ジトーが即座に返して、場の空気を一層明るくする。
シマが肩をすくめ、照れたように、しかし誇らしげに言った。
「そういうことだ。せいぜい自慢してくれ。あれは、世界に一本しかねえ、ダミアンだけの弓だ」
その場にいた誰もが、それがただの冗談で終わらないことを理解していた。
商談の成功、商品開発の確定、そして新たな一歩の始まり。祝杯に値する、そんな一日だった。
誰かが「さあ、行こうか」と言ったあと、彼らは連れ立って歩き出す。
エイト商会の本部を出ると、もう空はすっかり暮れていた。
街の灯がぽつぽつとともりはじめ、往来には一日の終わりを迎えた人々が、家路につくか、あるいはどこかに寄って行こうかと歩く姿が目立ち始めていた。
エイト商会の店舗の軒先には、商品の一つとしてずらりと並べられた荷物用の袋があった。
よく見ると、肩にかける物、背中に担ぐ形状のものが数種類――いずれも丈夫そうな革製で、口には金具がついており、留め具にも工夫がある。
(……リュック?この世界にも売ってるのか)
シマはちらりと目をやり、そう思った。
だが、それ以上は特に気にも留めなかった。
そこまで珍しいものではないし、ありふれた工夫の一つにすぎない、そんな認識だった。
「今日はエイト商会の驕りだとよ!」
ジトーが道中で声を張り上げた。
その瞬間、シャイン傭兵団の面々からは「おおおっ!」と歓声が上がる。
こうして一行は、近くにある酒場――外からも灯りと音が洩れ、活気のある店へと足を踏み入れる。
すぐに奥の大テーブルが空けられ、団員たちは次々に腰を下ろしていった。
料理はすぐに運ばれ、豪快な肉の塊、山盛りのポテト、たっぷりの煮込み料理、各種の酒とともに、宴は始まる。
打ち鳴らされる杯の音、歓声、笑い声が店内に満ちていた。
「……相変わらずすげえ食いっぷりだな。いや、昔よりもさらにだな」
隣の席のダミアンが呆れたように笑いながら呟く。
「身体がデカくなったぶん、余計にな」
骨付き肉にかぶりつきながらシマが笑い返す。
一方、テーブルの端では、サーシャがマリアに小声で言い聞かせていた。
「マリア、驕りの時は遠慮しちゃ駄目よ! 食べられるときに、目一杯食べて、飲むのよ!」
その頃、別のテーブルで肉を頬張っていたシマがふと口を開いた。
「……ああいうリュックにも、防水加工が使えそうだな」
呟くように言いながら、さっき目にしたリュックのことを思い出す。
「リュック? 背負い袋のことか? あれな、ダミアンさんが考えついたんだぜ」
ディープが口を挟んだ。
「……まさか」
シマの動きがぴたりと止まり、記憶の底から一枚の情景がふわりと浮かび上がる。
(あのときか……?)
何気なく見せたことがあった。
ちょっとした工夫にすぎず、大した発明とも思っていなかった。
そのとき、特に何も言わずに受け取ったダミアンの顔――
今、あの時と同じ顔で、ニヤリとこちらを見ている。
エイラも視線がシマと合い、二人は同時に気づく。
誰でも考え付きそうな、ちょっとした工夫。
でも、それを商品にまで昇華させてしまったのは、確かにダミアンだ。
二人は顔を見合わせ、ほんの少し肩をすくめた。
「してやられたな……」
シマがぽつりと呟くと、エイラも静かに笑って頷いた。
「ええ、完敗ね」
ダミアンはそのやり取りを見ていたのか、杯を片手にこちらへ向かってニヤッと笑う。
その笑顔には「当然だろ?」という誇らしさが滲んでいた。
宴は、さらに熱を帯びていく。
それぞれの胸には、食と笑いと、そして静かな感嘆が残っていた。




