何だこれ?!
陽がまだ低く、朝靄が町をうっすらと包む頃、フレッド、ザック、ロイド、クリフの四人は支度を整え、ハドラマウト自治区への旅路に向けて動き出した。
まず目指すは「鉄の掟傭兵団」本部。
乾いた石畳を踏みしめる彼らの足取りは軽く、だがそれぞれに任務への気概がこもっていた。
本部の門前で名乗りを上げると、すぐに中から案内役として現れたのは、がっしりとした体格の男
――ダルソンだった。
年の頃は二十代後半、日に焼けた肌と短く刈られた黒髪、無愛想な顔立ちに似合わず、目元にはどこか人懐っこい光が宿っている。
ダルソンは軽く顎を引いて挨拶をすると「一日一銀貨、宿と飯はそっち持ちって聞いてる」と確認する。
フレッドが「もちろん。頼りにしてるぜ」と笑顔で答えると、わずかに口元を緩めた。
一方その頃、エイト商会の裏手、数ある倉庫の一角の倉庫内。
シマやジトーの監督のもと、エイト商会からダミアン、アレン、ディープの三人が、蜜蠟を使った新たなテントやマント、ブーツなどの装備の防水加工の研究に着手していた。
三人は広げた作業机の上で熱心に素材を並べ、蜜蠟の配合と布の相性を一つひとつ確かめていた。
ダミアンは試作中のマントの布端に指を這わせながら
「重すぎず、通気性も死なせず、でも水を弾く……難題だな」とつぶやく。
アレンは苦笑しながら「難しいから面白いんじゃないか」と返す。
ディープは何も言わずに黙々と作業に専念している。
ヤコブとオズワルドが記録係、補助として用紙には既に図解と試験結果が整然と並びつつあった。
そのすぐ隣の作業スペースでは、オスカーが椅子に深く腰をかけ、一本の未加工の木材を丁寧に手に取っていた。
昨夜の食卓でダミアンと顔を合わせた際、彼は「観賞用でいい」と告げていたが、オスカーの職人気質がそれを許さなかった。
使える道具であってこそ美しい――それがオスカーの流儀だった。
「観賞用なんて言っても、きっと試し撃ちしたくなるよ?」
独りごちると、彼は微笑みを浮かべ、繊細なカーブを木に刻み始めた。
滑らかな手さばきはまるで舞のようで、木が弓へと変わっていく様子は、見ている者を惹きつける静かな迫力を持っていた。
街では、エイラを筆頭に、サーシャ、ケイト、ミーナ、ノエル、リズ、メグ、マリア、そしてトーマスたちも精力的に動いていた。
彼らの目的は、滞在予定者二百名超を迎えるための宿の確保と、日々の糧となる食材の調達だった。
「ここなら衛生も問題なさそうだな」
トーマスが宿の女将と談笑しながら言い、ミーナは予約名簿に丁寧に記録をつけていく。
エイラ、ノエルとケイトは市場で肉や保存食、野菜の価格交渉に励み、リズやメグはパン屋の店主と並んで食材の目利き。
サーシャとマリアは別行動を取り、裏路地にある地元民御用達の小さな仕入れ先を巡っていた。
「ふふん、やっぱりこういうのは楽しいわね」
サーシャが言い、マリアは「ああ、こういうのも良いな」と笑みを浮かべた。
朝の光がまだ柔らかい中、倉庫の一角には煙と蜜蠟の甘い香りが立ち込めていた。
それぞれ異なる防水布の実験を黙々と続けていた。
「よし、こっちは外側だけに塗った布な。次、火にあてるぞ」
ジトーが声をかけると、アレンが焚き火の近くに慎重に布を持っていく。
蜜蠟の塗布面がじんわりと熱で溶け、じっとりとした光沢を放ちはじめる。
その隣では、二枚の布が並べて干されていた。
一方は両面に蜜蠟が塗られ、重量感とともに厚みを帯びている。
もう一方は外面のみ、裏地は素のままだ。
「こっちは両面塗り。防水性は高いが、ちょっと重てえな」とシマが言うと、「動きづらさとのバランス次第だな」とダミアンが返した。
「この塊のまま塗り込んでみるか…」
呟いたのはディープだった。
彼は蜜蠟の固まりを直接布に押し付け、力強く擦りつけていく。
摩擦熱で少しずつ溶けていく蝋が、布の繊維にまとわりつきながら染み込んでいく様子に、周囲も興味深く見入った。
また、シマは溶かした蜜蠟を刷毛で丁寧に布へ塗布していた。
撫でるように滑らせる。
「こっちが一回塗り、次が二回塗り、最後が三回塗りだ」
並べられた布は、見た目にも塗り重ねの差がわかる。
三回塗りの布はツヤが強く、表面がしっかりと硬化し始めていた。
焚き火のそばでは、これらの布が一枚ずつ吊るされ、暖かな熱にゆっくりと晒されていた。
炎の揺らぎとともに、布が軽く揺れ、蝋が染み込んだ繊維がじんわりと柔らかさを増していく。
そんな光景を見つめていたシマが、少しだけ眉を寄せて言った。
「……商会の方は、大丈夫なのか?」
彼の問いに、蜜蠟の樽を閉めながらダミアンが答える。
「指示はもう出してある。午後には顔を出すさ。あっちも準備があるしな」
彼の口調には焦りもなければ、不安もない。
いつもの落ち着き払った様子に、シマも深くは追及せず、肩をすくめるだけだった。
「そっか。ま、あんたがそう言うならな」
炎のぱちぱちとした音が会話を包み、傭兵団と商会、両輪が動き出していた。
試行錯誤を重ねた防水布の検証が最終段階に入っていた。
布片の山と蜜蠟の香りに包まれた作業場では、湯気の立つ桶や水を張った樽が並び、シマやダミアンたちが真剣な表情で作業に没頭していた。
「……じゃ、次はこの布にお湯をかけてみるか」
ジトーが柄杓で湯をすくい、布に静かに注いだ。
両面に蜜蠟を二回塗った布は、まるで水を弾く葉のように、湯の雫を表面で転がし落としていく。
「これは合格だな。内部に染みてねえ」
「よし。テントの布はこれに決まりだな。両面、二回塗り。で、底の部分は……」
ダミアンが指差した三回塗りの布は、やや硬さを感じさせる仕上がりだったが、圧をかけて水を流しても裏地には滲みがなかった。
「底部は三回塗りで決定。ここだけは多少重くてもいい、寝床が濡れる方が問題だ」
その判断にうなずき合う面々の背後では、マントの布の検証も進められていた。
「……外側は二回塗り、内側は一回塗りで丁度いいね。これなら防水もできて着心地もそこそこ保てる」
アレンがマントを羽織って肩を回しながら言った。
塗りすぎれば硬くなり、動きが鈍る。
だが内側を一回に抑えれば、着用感は維持される。
現場での即断が必要な傭兵や軍人にとって、動きやすさと防水性のバランスは命に関わる。
ブーツの試作品は特に入念に調整された。
三回塗りを施した革布の防水性は申し分なかったが、ディープが試しに歩いてみたところ、顔をしかめて言った。
「……重てえな。もう一回塗ったら鎧靴みてえになるぞ、これ」
特に底部への負荷は顕著だった。
濡れた道や泥に沈まないよう防水性を確保する必要はあるが、あまりに重くなれば移動そのものが困難になる。
「ブーツは三回塗り、底部も同じく三回塗りで打ち止め。それ以上は足にくる」
「了解した」とダミアンが頷き、布の厚さや塗布量のメモを取り続けるヤコブが記録に加えていく。
そして、塗り方に関しても結論が出た。
「やっぱり、塊を直接こすりつけるより、溶かして刷毛で塗る方が均一で浸透も深いな」
シマが呟く。
「だな、特に二回塗りは刷毛の方がムラが出ない。布の目が詰まる感触が明らかに違う」
ディープも同意した。
実際、焚き火のそばに並べられた二種類の布を比較すれば一目瞭然だった。
塊で塗り込んだものは所々で固まりができており、加熱しても均等に染み込んでいないのに対し、刷毛で塗ったものは表面が滑らかで美しく、全体に防水性が行き渡っていた。
昼時が近づき、陽が真上に昇る頃には、結論が出揃っていた。
「よし、仕様はこれで確定だ」
シマの静かな一言に、作業場の空気がすっと張り詰めを解いた。
手を止め、顔を上げた面々の耳に、すぐ隣の作業スペースから別の声が届く。
「こっちもできたよ」
木の粉の香りと蜜蠟の匂いが入り混じる空間で、オスカーが微笑みながら、一張の弓を持ち上げて見せた。
それはただの道具ではなかった。
ひと目でわかる、観賞用としても通用する精緻な造形美。
そして何より、それが“実用品”として完璧な仕上がりであることを物語っていた。
「……これは……」と誰かが声を漏らした。
ダミアンの姿勢、動作の端々から、オスカーは見抜いていたのだ——
この男の体格、骨格、腕の長さ、筋力、握力。
弓の弦は、軽く指にかけただけで音を返す絶妙な張り具合だった。
決して固すぎず、しかし力が抜けているわけでもない。
熟練者にしか扱えない緊張感の中に、信頼できる柔軟性が宿っていた。
弓のしなりもまた絶妙だった。
引き絞ったときにわずかにしなるよう設計され、放たれた矢に確かな推進力を与える。
試しに誰かが弦を軽く引くと、細やかに鳴る高音が木霊した。
それは、超一流の職人だけが奏でられる“音”だった。
フォルムは細身でありながら芯があり、重さのバランスが絶妙に保たれている。
握りの位置は手の中に自然と収まる形状で、握るだけで「このために作られた」と感じさせるような馴染み方をしていた。
そして何より目を引いたのは、彫刻だった。
弓の両端には、静かに咆哮する双頭の獣が向かい合い、その体をなぞるように蔓草と古代文字風の意匠が絡む。
中央には、エイト商会の紋章をベースにしたオリジナルの意匠が刻まれ、見る者の目を奪う。
「観賞用でいいって言ってたけど……実用性、捨てられなかったよ」
オスカーは弓をダミアンに手渡しながら、苦笑まじりにそう呟いた。
だが、その言葉とは裏腹に、目には確かな自信が宿っていた。
ダミアンは、オスカーから渡された弓を両手でじっと見つめていた。
それは見れば見るほど、自分には過ぎた代物のように思えた。
精緻な彫刻、絶妙なしなり、指に吸い付くような弦。
まるで長年連れ添った愛用品のように、手にぴたりと馴染んでいる。
けれど、彼は弓など扱ったことがない。ただの一度も。
——なのに、どうしてこんなに自然に感じるのだろう?
重さはあるはずなのに重くない。
握りの角度も、腕の延ばし方も、まるで弓の方が彼の身体に合わせて変形してくれているかのようだった。
「この感覚を…なんて言えばいいんだ……」
呟いた言葉は、自分自身への問いだった。
“このまま矢をつがえてみたい”
そう思ったとき、すでに足が動いていた。
止めようにも止まらない衝動が胸の奥から湧き上がる。
「ちょっと、撃ってみても……いいか?」
誰にともなく尋ねるように言って、倉庫の奥、空いた空間に向かう。
シマが頷き、ジトーが急ごしらえの的を木箱に取り付けてくれた。
ダミアンは矢筒から一本の矢を抜くと、おそるおそる弦にかけ、的に狙いを定める。
ぎこちない。
構えも引きも、まるで見よう見まね。
「はっ!」
力を込めて放った一本目の矢は……彼の足元にぽとりと落ちた。
倉庫内に、弦が「ビィィィン……」と高く澄んだ音を残す。
「……おお……」
驚いたような顔で弦を見つめ、やがて嬉しそうに笑みを浮かべるダミアン。
次の矢をつがえると、今度は勢いよく、腕いっぱいに引き絞って二射目——
「そっちじゃないよ!?」
誰かのツッコミと同時に、矢は明後日の方向へ突き刺さった。
「もう一回!」
三射目。
狙ったつもりだが、今度は天井近くの梁に刺さって落ちてきた木屑が舞う。
それでも、ダミアンは笑っていた。
口元をゆるませ、目を細めて、まるで弓に恋でもしたかのような表情だった。
「なんだろうな……楽しい、すごく……楽しいんだ、これ」
そんな言葉をこぼしながら、弓を見つめる彼の姿は、まるで新しいおもちゃを手にした子どもそのものだった。
火の明かりに照らされ、蜜蠟の香りと木材の温もりの中で、新たな武器がその使命を静かに宿しはじめていた。




