判断
その瞬間、戦場が――沈黙した。
五騎の騎兵が、風を裂くようにマクレガーへと突進する。
彼らの槍は脇に構えたまま、槍先は震え、騎馬の蹄は怒涛のように大地を打った。
一撃離脱を信条とする彼らが捨て身で挑むほど、マクレガー・ゼンという存在は戦場にとって「化け物」だったのだ。
だが――
その肉迫は、果たされることなく瓦解した。
まず一騎、馬ごと倒れる。遅れてもう一騎。
残り三騎も、瞬きの間に血飛沫を上げ、地に沈んだ。
矢だった。矢の雨ではない。
極めて精密な、「点」の嵐。
右側面から丘陰に見えたのは――サーシャ、エイラ、ケイト、ミーナ。音も気配もなく、風と同化するように現れたその四人は、超強弓を手にしていた。
弦の軋みもないまま、放たれる矢は空気を引き裂き、まるで神の裁きのごとく標的に吸い込まれていく。
馬の首に、眼に、関節に――貫通。
騎兵の動きが止まる前に、騎馬そのものが機能を失っていた。
同じく左側面からはオスカー、メグ、ノエル、リズが。
長弓の張力、射出角、風速、すべてを読み切った四人は、矢というより“槍”のような威力で敵を穿っていた。
盾など紙同然、重装歩兵の鎧すら木片のように裂け飛ぶ。距離と力、そして静寂の芸術。
サーシャたちの迂回は、戦の始まる前から始まっていた。
あらかじめ読み切った陣形、地形、そして最初の攻撃布陣。
そして、それが“合図”だった。
矢の一群が敵の戦列に動揺をもたらす。
その一瞬の綻びを逃さず、前線が“割れた”。
正面から現れたのは、ジトー、トーマス、ザック。
金属と木と皮が混在する独特の盾が、風を裂く音と共に前進するさまはもはや「守る」という概念を越え、「斬り込む」武器のようだった。
彼らに張り付くようにして後ろから続く影たち。
シマ。フレッド。ライアン。ギャラガ。そしてユキヒョウ。
だが、それよりも驚異的だったのは――その速さ。
「――なんでそんな速ぇんだよ、お前ら……!」
ライアンの息が荒くなっていた。
全身の筋肉を限界まで使い、脚を伸ばし、地面を蹴る。
ギャラガも肩で息をしながら、重い槍を背に回し、バランスをとるようにしてひたすら足を前に送る。
だが追いつけない。
視界の先の三人は、もはや疾風だった。
シマとフレッドは、ジトーのすぐ背に張り付いていた。
ぴたりと、寸分のずれもなく。
まるでジトーの背に影ができたかのように、その隙間をぬって進む。
土を蹴り上げる音さえも、どこか滑らかで無駄がない。
だが走っていても、まるで静かだった。
そして、さらにその後ろにいたユキヒョウ。
その独特の間合いを保ちつつ、猫科の獣のような足取りで、どうにか距離を保っていた。
鼻先に冷たい汗が浮かび、舌を少し出しながら、荒い息を無理やり整える。
「……く、ついてけるか、こんなの……」
その口から漏れた独白は、戦場では珍しい「正直な本音」だった。
そんな状況を、背中越しに感じ取ったフレッドが、ぽつりと一言。
「……おい、ザック。ライアンとギャラガ、遅れてんぞ」
その声は平坦だった。だが明らかに“確認”の意味を含んでいた。
「は?マジかよ……」
ザックの声は、どこか笑っていた。
――彼らはこれでも、“本気”じゃない。
しかし足を緩めることなく、むしろさらに地面を強く蹴った。
その体躯に不釣り合いなほど鋭い動き。
手に持つカイトシールドが、壁のように構えられる。
「しゃーねぇ、こっちはこっちで先割ってくわ。」
言葉を残して突っ込む。
風を裂くような音と共に、ザックの影が伸びていく。
すかさず、その影にフレッドが滑り込む。
まるで舞台の幕裏を走る忍者のように、軽やかに、そして気配を消して。
ザックの正面には、ダグザ連合の槍衾。
規則正しく構えられた長槍が、林のように揃ってこちらを向いていた。
普通であれば、まともに突っ込めば串刺しになるのが道理。
だが――。
ザックは構わずに突っ込んだ。
盾の下端を地面に当て、反発を利用して体を低く構える。重心が一点に集まる。
次の瞬間、**ドンッ!**という音が響き、最前列の槍兵の構えが崩れる。
それは、まるで猛牛が突っ込んだような衝撃。
槍の穂先がザックの盾に当たる瞬間、全てが斜めに逸らされ、弾き飛ばされる。
「――どけぇっ!!」
雄叫びとともに、ザックの盾ごと突き抜けた。
槍衾の密度を、一点突破する力業。
その瞬間。
ザックの盾の“影”から、フレッドが跳ねた。
その手には、刃渡り短めの双剣――「グラディウス」。
右手の一閃。左手の斬り返し。
そして一歩踏み込んで、逆手に持ち替えた右の刃が、突きのように突き刺さる。
「数じゃねぇんだよ」
囁くように吐き捨て、また一人、また一人。
フレッドの動きは、もはや見えない。
ただ血飛沫と共に、槍兵たちが崩れていく。
その動きは、理では説明できない。
スピードだけではない。
的確さ、間合いの読み、相手の動作の先取り――すべてが一体となった“殺意の舞”。
「やっべぇ、やっぱアイツ速ぇわ……」
背後でザックが呟いた。
シャイン傭兵団の中でも、フレッドとクリフの速さは別格。
そこへ――ジトーとトーマスが突入する。
「行くぞッ!!」「オラァァッ!!」
ジトー、トーマスの叫びが轟く。
巨体に見合わぬ速さで地面を蹴る。
右肩から突っ込んだその一撃は、まるで山が転がるかのような威力だった。
槍兵が、はじけ飛んだ。
吹き飛ぶ、のではない。
槍と構えが一瞬にして砕け、地面に叩きつけられ、周囲に血飛沫と絶叫が舞う。
その勢いのまま、ザックとフレッドも再び前線に戻る。
「おう、押し込むぞッ!」
ザックが叫び、前へ。
フレッドは無言で、一度血で濡れた剣を軽く払ってから、二列目の敵へと突進する。
敵陣はもはや**「壁」ではなかった**。
斜面を転がる瓦礫のように、槍兵たちの陣形が崩れ始めている。
その後方――
「ハァ、ハァッ……お、おい、こいつら……やばくないか……」
ギャラガが苦悶の表情で追いすがる。
ライアンも額に汗を浮かべながら、肩で息をしていた。
二人とも全力だ、それでも間に合わない。
そんな二人の少し前、ユキヒョウが動き続けていた。
そして――その後方から、新たな影が迫ってくる。
「灰の爪傭兵団」
「氷の刃傭兵団」
シマが、事前に言い聞かせていた。
「三人一組で動け。“スリーマンセル”で。盾・攻撃・援護、それぞれの役割を瞬時に切り替えられる奴同士で組め。」
かつての戦争の知恵。個に頼らず、連携で戦うための最小単位。
氷の刃の兵たちは冷静に、
灰の爪の者たちは無骨に、
だが確実に三人一組で動き、隊列を崩しながら戦場へと染み出してくる。
シャイン傭兵団を中心に、灰と氷が戦場を侵食し始めた。
個と個が連なり、群となる。
林の出入口――
鬱蒼とした木々の合間から、戦場の丘が見渡せる。
ロイドとクリフは、そこに立っていた。
いずれも身体には傷一つない。だが目は鋭く、戦の終わりを捉えていた。
焚き火のように、音もなく葉が揺れる。
遠くでは金属のぶつかる音、叫び、怒号、断末魔がまだ断続的に響いていた。
「……勝敗は決したね」
ロイドがぽつりと呟く。
その口調には、感情が薄かった。
事実を述べただけのような、冷めた声。
「もう、ああなったら立て直せねえだろうよ」
隣のクリフが肩をすくめた。
やや前かがみに、戦場の端を眺めながら言う。
声には苦笑混じりの疲労感があった。
両者の視線の先――
丘は、すでに戦場としての“形”をなしていなかった。
槍陣は崩れ、隊列は分断され、白旗すら上げられないまま逃げ惑うダグザ兵たち。
そこに猛然と食らいつく傭兵たち――灰の爪、氷の刃。
まるで狩りの光景のようだった。
三人目――ヤコブが静かに立ち尽くしていた。
ロイドよりもわずかに後ろに位置し、手にした分厚い手帳を胸元に抱えたまま、目を細めて戦場を見つめていた。
「いやはや……おぬしらに対しては、また考えを改めねばのう……」
呆れと称賛が入り混じった声だった。
「これほどの戦闘力とは……想像以上じゃ」
その言葉に、ロイドが視線を外して地面を見やる。
「……もっと犠牲者を減らせるやり方はあったはずなんだけどね」
その呟きには、悔しさすら感じさせる静けさがあった。
「ゼルヴァリアの連中が協力してくれればなあ」
クリフがぼそっと口を開く。
「足並み揃えりゃ、こっちはもっと冷静にやれた。あいつら、突っ込むことしか頭にねえんだからよ」
「仕方なかろう……」
ヤコブが首をすくめて言う。
「彼らには“集団戦”という概念がないのじゃから。武の名声、己の誇り、戦に生きて戦に死ぬ。まこと原初の戦士たちよ」
静かに、葉が一枚舞い落ちた。
ロイドが小さく息を吐く。
「でもそれじゃ、守れないものもあるんだよなあ……」
林の陰から見る戦場は、ただの景色ではない。
それぞれの価値観、戦の意味が交錯し、ただ血と土に塗れた現実が広がっていた。
ロイドは背後のヤコブを見た。
クリフはまだ戦場を眺めていた。
それぞれの沈黙が、戦場の終焉を静かに見送っていた。
戦場は一瞬で様変わりしていた。
整然と並んでいたダグザ兵の第一列が崩れ、第二列も波打つように混乱に呑まれていく。
その瞬間、ハン・スレイニは動いた。
「全軍、撤退準備」
声を張り上げたわけでもない。
だが彼の一声は、即座に伝令へと伝わり、指揮系統を駆け巡る。
彼の眼は冷静だった。
感情の乱れ一つないまま、目の前の地獄を見つめていた。
(このままとどまれば、挟まれる。前線が持たぬ。ヴァンが打って出てくるのも時間の問題。後方遮断されれば、全滅だ)
ハンは歯噛みすることもなく、現状を一つずつ整理していく。
(包囲される前に抜けねば。斥候を出せ。退路確保――先手を打て)
「各隊、順に退却。混乱を避けろ。第七、退路確保に回れ。第九、後衛に付け」
各部隊への命令は早く、正確で、迷いがなかった。
すでに彼の幕僚たちはその意図を読み取り、兵の整列を始めていた。
混乱は最小限。
これが、ハン・スレイニが育て上げた“軍”だった。
敵陣――ではなく、そのさらに後方。
戦場の輪の外側から、信じられない勢いでなだれ込んできた連中がいた。
(……途中から参戦してきた人たち……)
――ただの一部隊に過ぎないはずの彼らが、槍陣を打ち破り、左右から奇襲をしかけ、中央突破を果たす。
信じがたい速さと、統率と、破壊力。
まるで軍神の一団だった。
ハンは額の汗を拭いながら、ぽつりと心中でつぶやいた。
(ヤバいなあ……)
重々しい恐れというよりも、理解不能なものへの戸惑いと好奇心が入り混じった声だった。
あれほど鍛えた自軍が、まるで足を取られる泥の中を進むようにしか動けないのに、彼らは疾風のように戦場を駆け抜けていた。
だが――だからこそ、撤退は迷いなく決めた。
彼の目的は「勝つ」ことではない。「負けない」ことだ。
今、彼らが全滅すれば、それは愚かなる指揮官の責任となる。
「……先手を打て。生き延びてこそ次がある」
そう呟き、ハンは自ら馬首を巡らせた。
撤退の指揮を執るために――。




