根本的に違う
役所庁舎を出ると、夜の帳がすでに街を覆い始めていた。
石畳の道に灯る薄明かりのランタンが、長く伸びる影を作り出す。
喧騒の残響がまだ耳に残る中、ギャラガが口を開いた。
「ちと、付き合えよ。腹割って話がしたい」
言葉少なにそう言うと、ギャラガはシマとライアンを伴って広場の一角、灰の爪傭兵団たちが設営した野営地へと足を向けた。
その五十メートルほど後方、黒いフードを深く被った影がひとつ。
まるで夜に溶け込むように、静かに、気配を押し殺してついてくる。
“氷の刃”傭兵団団長、ユキヒョウ。
歩みは緩やかで、時に右に、時に左に。
あたかも通行人の振りを装っているかのようだ。
だが――その動きを、一人だけしっかりと追っていた。
シマだった。
気づいていないふりをしたまま、意識の端でその存在を捉え続けている。
やがて、灰の爪傭兵団の野営地にたどり着く。
粗末な布で張られたテントがいくつも並ぶその一角。
ギャラガの案内で、シマとライアンはそのうちのひとつへと招き入れられる。
シマはテントの中に入らず、ふと振り返る。
彼の目線の先、遠巻きに動くフードの男。
ジッと、まるで狙いを定めるように視線をぶつける。
フードの男もまた、ふと足を止める。
視線が合う。わずかに口元が笑ったように見えた。
「どうした、シマ?」
テントの中から、ライアンの問いかけが聞こえる。
シマは答える。
「……ユキヒョウが、用があるらしい」
そう言った瞬間、影が近づいてきた。
フードを深く被ったまま、まっすぐとシマの前に立つ。
「いつから気が付いていたんだい?」
その声は、静かで澄んでいた。
まるで氷のように冷たく、そして迷いのない一線の鋭さを含んでいた。
シマは、わずかに口角を上げて答える。
「最初からだ」
その言葉に、フードの下で目が細められる。
その一瞬の間を割って、テントの入口から顔を出したライアンとギャラガが、目の前の男を見て息を呑んだ。
「……ユキヒョウ?!」
目の前に立っていたのは、ゼルヴァリア軍閥国でも異彩を放つ存在、“氷の刃”傭兵団の団長。
フードを脱ぐと現れた白銀の髪、そして無表情のまま、冷たい眼差しでシマを見つめ返すその姿に、夜風が一層冷たく感じられた。
まるで、ここから始まる何かを――お互いに確信しているかのような、静かな対峙が始まっていた。
夜風が野営地を通り抜け、テントの布をわずかに揺らした。
テントの中では四人の影が集まっていた。
シマ、ライアン、ギャラガ、そしてユキヒョウ。
ギャラガが重たそうに口を開いた。
「……どう思う?」
その問いは、今夜の会議での熱狂と狂気を、そしてこれからの戦場をどう見るかという問いでもあった。
しばしの沈黙ののち、シマがぽつりと呟く。
「付き合いきれねえな」
その口調は冷淡ではなかった。
だが明らかに、あの熱狂には距離を置いていた。
ライアンが肩をすくめながら頷く。
「同感だ。俺たちが火口に突っ込んでどうする。骨も残らんぞ」
すると、フードを脱ぎ、その白銀の髪をさらしたユキヒョウが、楽しげに鼻を鳴らして言った。
「だよねぇ~。あれじゃまるで、無駄に命を捨てに行ってるみたいなものさ。戦が“誇り”で済むなら、死体の山も“誇り”になるわけだ」
ギャラガが眉をひそめ、しかし否定はしなかった。
少しの間だけ黙っていたが、やがて静かに言葉を続けた。
「……俺も昔はそれでいいと思っていた。真っ先に突っ込んで、手柄を上げる。命を懸ける。それがゼルヴァリアの戦い方であり、誇りでもあった」
その語調には誇りと、同時に苦味が混じっていた。
「今は……考え方が変わったのか?」
ライアンが慎重に問う。
ギャラガはうなずき、深く息をついた。
「……死にすぎるんだよ。ただ何も考えず、突っ込んで、死んで。それが“名誉の戦死”ってやつで片付けられてよ。団員たちの入れ替わりが、あまりにも激しい」
ユキヒョウがすぐに返す。
「敵に背を向けるなんて、ゼルヴァリアじゃ蔑みの対象になるからね。“逃げる”は“裏切り”と同義だ」
ギャラガの肩が、重圧に押しつぶされるようにわずかに下がった。
「……ハア~、どうしたもんかなぁ」
彼は頭を掻きながら、溜息をこぼす。
その背に滲む疲労と葛藤が、ただの一団長以上の重みを持っていた。
「僕たちと一緒に行動するかい?」
ユキヒョウがややいたずらっぽく、それでも真剣な目で言った。
「その代わりに異端と呼ばれるようになるけどね。個人の武に頼らず、集団で、冷静に、確実に――って考え方は、この国じゃ理解されにくいよ?」
ギャラガは笑うでもなく、真顔でもなく、ぽつりと答えた。
「……団員たちを説得しなきゃいけねえな。あいつらの多くは、俺の背中を見て育ったんだ。“突っ込んで死ぬのが誉れ”だと思ってる。でも……変えなきゃいけねぇ……それでも、何人かは突貫するだろうな。俺が止めても、止まらねえ。そう育ってきちまったからな」
その言葉に、シマが口を開いた。
「だが、それを知っているあんたが、“突っ込むこと”を選ばないなら……それで救われる命もあるだろ」
ギャラガはゆっくりとシマの方を見た。
その瞳に灯るのは、迷いながらも前に進もうとする者の炎だった。
「……その通りだな」
四人の影が、静かに座す。
言葉少なに、それでも確かな連帯を育むように――戦場の理不尽の中で、抗う者たちの輪が静かに結ばれていった。
先ほどまでの戦い方の在り方から、自然と明日の行軍へと移っていた。
「……ここ、ヴァラカからヴァンに行く街道の周りはどうなってる?」
ふいに、シマが口を開いた。
「ふむ、街道沿いか」
ライアンが地面に指で簡単な地図を描く。
「両側は林だ。しかも割と深い。視界も悪く、道幅は馬車が二台通れる程度ってところだな」
「その林を抜けた先、およそ一キロほど行ったところに小高い丘がある」
ギャラガが言葉を継ぐ。
「その上がヴァンの街だ。防衛には都合の良い立地だが…?」
シマの目が鋭くなった。
「……最悪だな」
ぽつりと呟いたその言葉に、三人の視線が集まる。
「ピースがハマった」
シマの声には、明確な確信が滲んでいた。
「街道は林に囲まれ、視界が悪い。そこから開けた丘の上にある都市。つまり、敵にとってこれ以上ない“待ち構えるための地形”だ」
「……待ち伏せか?」
ライアンの眉が動く。
「いや、もっと悪い」
シマは首を横に振った。
「情報が錯綜してるだろう?誰がヴァンに先に着いたのか、何人戻ってきていないのか、正確な報告がない。普通ならすぐに気づくべきことだが、皆“名を上げる”ことに気を取られて、それどころじゃない」
「……つまり、ヴァンはもう……」
ギャラガが低く問いかける。
「落ちているか、完全に囲まれているかのどちらかだ。いや、仮にまだ落ちていないとしても、“餌”として利用されている可能性が高い。罠だな、これは」
シマの声が静かに、しかし明確に断言する。
「……罠……」
ユキヒョウがゆっくりと繰り返した。
「全滅も、あり得る」
シマの視線が、焚き火を越えて三人を見据える。
「奴ら(ダグザ連合国)の狙いは、ここでゼルヴァリアの戦力を一気に削ることかもしれない。戦い方に固執し、名誉を求めて突っ込む“戦士”たちをまとめて潰す気だ」
しばらくの沈黙。焚き火の火の粉が夜空に舞い上がる。
誰もが、それぞれの考えに沈み込んだようだった。
「……あの都市が“囮”だとすれば、向かうのは……自殺行為だ」
ギャラガが低く唸るように言った。
「それでも向かう奴らは多いだろう」
ライアンが苦笑する。
「名誉も、誇りも、命を代価にする価値があると信じてる連中ばかりだ」
「だが、僕たちは違う」
ユキヒョウが囁くように言った。
「そうだろ、…シマ?でいいんだよね?」
シマは小さく頷いた。
「俺たちは、意味のある命の使い方を選ぶ。明日、突っ込むような真似はしない」
彼らは静かに、しかし確かに、一つの決断を共有していた。
シマの顔に映るその光は、どこか哀しげにゆらめいている。
ギャラガが黙り込み、ライアンは空中を見つめ、ユキヒョウだけが静かに木の枝を指先で弄びながら、気配を消すように佇んでいる。
「……たとえ、俺たちがどれだけ警鐘を鳴らしたところで……」
シマの言葉が低く零れた。
「受け入れられやしないさ」
その声は断定というよりも、自嘲と諦念の入り混じった吐息に近かった。
彼らは違いすぎる。
生き方が違う。
信じてきたものが違う。
誇りの形が違う。
考え方が違う。
……何より、生まれ育った世界そのものが、根本的に違っている。
命を捨ててでも武勇を示すことに価値を見出す者たち。
その価値観に染まり、疑問も持たず、ある者は名誉のために、ある者はただ“ゼルヴァリアの戦士”としての誇りのために、明日ヴァンへと向かっていく。
「……ああ、だからお前は“異端”と呼ばれるんだな」
ぽつりと、シマはユキヒョウの方に目を向けながら呟いた。
「ん? 僕?」
ユキヒョウは少しだけ顔を上げたが、その表情は笑ってもなく、怒ってもいない。
ただ、理解していた。ずっと、分かっていたのだ。
「命を守るために戦う。それが異端になる世界なんだ」
シマはその事実が、ただやるせなかった。
誰もが間違っているとは言えない。
戦いの中でしか己を証明できなかった者。
過去の誇りに縋り続ける者。
失った仲間の代わりに前に進むことしかできなかった者――
彼らの生き様が愚かだなどと、簡単に切り捨てることはできない。
それでも、だからこそ、命を燃やしていく彼らの背中を見るのが苦しかった。
「……否定してえわけじゃねえんだ。ただ、どうしてこうも……」
シマの拳が膝の上で握られる。
「“命を繋ぐために戦う”ことが、理解されねえんだろうな」
ライアンが口を開いた。どこか遠くを見るような声だった。
「僕はね、英雄になりたかったんじゃない」
ユキヒョウの声は、ただ穏やかだった。
「仲間が笑って、生きていられる場所を作りたかった。それだけさ。でも……どうしてか、誰にも理解されなかった」
「……俺たちの方が、間違ってるのかもな…」
ギャラガがぽつりと呟いた。
シマは首を横に振る。
「間違ってねえ。ただ、時代が、俺たちに追いついてないだけだ」
静寂が訪れる。遠くで誰かの笑い声が響いた。
だがここだけは、まるで世界から切り離されたかのように静かで――その静けさの中に、彼らの苦悩と矛盾、そしてそれでも進もうとする意志だけが、確かに燃えていた。




