開幕!
グレイス・ルネ劇場の前に、ひときわ目を引く豪奢な馬車が二台、ゆっくりと滑り込むように停まった。その車体には堂々たるブランゲル侯爵家の家紋が燦然と輝いており、通行人たちはすぐにそれに気づいた。
「おい、あれ……! 侯爵様の家紋があるぞ!」
「道を開けろ! 道を!」
「侯爵様がお通りになるぞ!」
誰ともなく叫ぶ声が広がり、カシウムの民衆は驚きと敬意をもって素早く道を開けた。
騒ぎが広がるにつれ、広場の人々の目が次々と劇場の前に集まりはじめる。
最初に馬車から降り立ったのは、威風堂々たる姿のブランゲル侯爵その人だった。
「おお……! 本物だ……!」
「侯爵様だ……!」
「こんな間近で拝めるとは……!」
敬意を込めた囁き声と、感嘆のため息が入り混じる中、侯爵は落ち着いた様子で人々の視線を受け止めながら堂々と歩を進めた。
続いて馬車から降りてきたのは、品の良い青年──ジェイソン。
屈強な体躯をもつエリクソン、そして溜息が漏れるほどの美貌をもつエリカだった。
「ジェイソン様だ! お優しい顔立ちだな」
「エリクソン様! 侯爵様によく似てる!」
「頼もしいな……」
「エリカ様……おきれいだ……」
誰もがその姿に見惚れ、目を奪われていた。
エリカが小さく会釈すると、その所作にまた民衆はざわめく。
その一団を、劇場の入り口で待っていたのは、シャイン傭兵団の一員であり、スーツ姿のヤコブだった。
「ブランゲル侯爵様、このたびはお足を運びいただき光栄でございます。……おお、早速、お召しいただけましたな!」
威厳に満ちた立ち姿で群衆の視線を一身に集めたブランゲル侯爵。
漆黒のスーツは仕立ての良さが際立ち、幅広の肩と隆々たる胸板にぴたりと沿っていた。
袖口や襟元には繊細な刺繍が施され、戦場の男でありながらも上品な気品が滲んでいた。
ジェイソンは濃紺のスーツに身を包み、優しげな顔立ちと相まって柔らかい印象を与える。
シルバーの細いネクタイが凛としたアクセントになり、誠実で温和な人柄がそのまま形になったようだった。
弟のエリクソンは深いグレーの三つ揃えを着こなし、筋骨隆々たる体格にぴったりと合っていた。
精悍な顔立ちに鋭さと穏やかさが共存し、まさに未来の重鎮を予感させる風格だった。
そしてエリカ。
真紅のドレスが彼女の白い肌を一層際立たせ、波打つ金髪と共に風に揺れる姿は、まるで絵画の中の姫のようだった。
肩を大胆に出したデザインには気品と華やかさがあり、腰元に結ばれた黒いリボンが大人びた雰囲気を添える。
宝石のようにきらめく笑顔が、その場にいたすべての人々を魅了していた。
侯爵はゆったりと顎を引き、胸元に手を当てながら、ふと笑った。
「どうだ? 似合っておろう」
「誠に、侯爵様。ご立派でございます。……ジェイソン様も、エリクソン様も……エリカ様も、たいそうお似合いで……!」
深々と頭を下げたヤコブは、「ではご案内いたしますじゃ」と続け、ブランゲル家の面々をゆっくりと劇場の中へと誘っていった。
その様子を見届けた民衆たちがざわざわとささやき合う。
「なあ、あの噂って……本当だったのか?」
「噂って?」
「侯爵家が認めた傭兵団が、この劇場で舞台をやるって話だよ」
「へえ、そんな話……ちょっと興味湧いてきたわ」
「でもさ、こういうのって入場料高いんじゃないの?」
「いや、聞いたぞ。五鉄貨だと!」
「えっ、うそ!? 安くない!?」「めっちゃ安いじゃん! 見てみようよ!」
口コミは瞬く間に広がり、街の人々は続々と劇場に集まってきた。
グレイス・ルネ劇場は、荘厳な石造りの大舞台。
二千人の観客を収容できるこの劇場も、あっという間に人で溢れ返った。
熱気と期待が劇場の空気を満たす中、幕が上がる瞬間を誰もが今か今かと待ちわびていた。
幕がゆっくりと上がる。
舞台に差し込む柔らかな光の中、赤を基調とした華やかな戦乙女の衣装をまとったメグ、エイラ、サーシャが右端に姿を現す。
赤は情熱、勇気、そして燃える心を象徴する。
三人はそれぞれのキャラクターに合わせた微妙な違いのあるデザインで、肩には金の装飾、腰には薄紅のリボンが翻る。
その対極、左端には冷静と鋭さを象徴する青を基調としたケイト、ミーナ、ノエルが登場。
彼女たちの衣装には銀の刺繍があしらわれ、背中には黒革の矢筒、手には光沢ある弓を携えていた。
中央には、天女の羽衣のようになびく薄布の衣をまとったリズが静かに立っていた。
衣は白と金を基調にし、彼女の神秘的な美しさを際立たせる。
舞台全体に一瞬の静寂が満ちる。
次の瞬間、メグたちとケイトたちが同時に動き出す。
中央に向かって走る彼女たちは、互いの足音さえも調和させるかのようにぴたりと揃っていた。
そして空中で――観客の息を呑む間もなく、二度の後方宙返り、そして一回ひねりを加えるムーンサルトを同時に繰り出す。
赤と青の衣が宙を舞い、色彩の帯となって交差する。
着地と同時に、右にいたメグたちは左へ、左にいたケイトたちは右へと立ち位置が入れ替わる。
足音ひとつ乱さず、美しく並んだ三人はそのまま矢を取り、弓に番える。
会場が静まり返る中、一本、また一本と矢がゆっくりと引き絞られていく。
「まさか、あの至近距離で……?」
観客席の誰かが、信じられないといった声でつぶやく。
一瞬の緊張。三本の矢がほぼ同時に放たれる。
空気を切り裂いて飛ぶ矢。
それを迎えるのはメグ、エイラ、サーシャ。
彼女たちは恐れることなく、手を差し出し――弓の弦が唸る音とともに、矢が吸い込まれるように彼女たちの手の中へ。
「うそだろ……手で……つかんだ?」
信じられない光景に、ざわめきが起きる。
誰もが、確かに矢が放たれたことを見た。
矢は観客席に向けられたのではなく、演者同士の間合い、わずか十歩ほどの距離で交わされたのだ。
その刹那、舞台の中央に立つリズが片足をドンッ!と踏み鳴らす。
その音が舞台全体を震わせ、両手をゆっくりと広げた瞬間、舞台の照明が一気に彼女へと集まる。
メグたちもケイトたちも、一瞬のうちに舞台の端へと退き、姿を消すように動く。
視線のすべてがリズに集まる。
リズは静かに息を吸い、口を開く。
――その瞬間から、舞台はまるで異世界の物語の始まりのように、新たな空気に包まれるのだった。
怒りだった。
地を穿つようなステップが、舞台の板を軋ませる。
ドンッ、ドンッ、ドドンッ──その音はもはやリズの心臓の鼓動ではなく、燃え盛る魂のうねりだった。
彼女の足元から走る震えが、観客席にまで届く。
咆哮のような歌声が、空気を裂くように放たれた。
それは旋律ではない、訴えだ。
抑え込まれた思い、傷つけられた誇り、信じていたものが崩れ落ちた瞬間の絶望──
それらすべてが、言葉を借りて燃え上がる。
ドンッ! ドンッ! ドドンッ!
そのリズの一歩一歩が、炎のように観客の胸を打つ。
息を呑む音さえかき消されるほどに。
歌は熱風となって観客の頬を打ち、容赦なく降りかかる。
耳ではなく、皮膚で聴く。
言葉ではなく、魂で受け取る。
怒りの舞。
怒りの詩。
怒りの、祈り。
燃え盛る光の中、ただ一人の少女が、すべての感情を剥き出しにして叫んでいた。
光がふっと消える。
怒りの炎が沈静し、静寂が舞台を包む。
やがて、柔らかな光が再び灯る。
そこに現れたのは、青を纏った三人の戦乙女。
ケイト、ミーナ、ノエル──手には剣を携え、まるで心を映す鏡のように静かな目をしていた。
彼女たちの動きは、清らかな水の流れのようだった。
焦らず、抗わず、ただ静かに、すべてを受け入れる。
剣を構えていながらも、そこにあるのは殺気ではない。
哀しみでもない。
ただ静謐な意志だけが、舞台を満たしていた。
ケイトの一歩は、水面に映る月のように静かで確かな歩み。
ミーナの剣先は、まるで風にそよぐ柳の枝のように揺れ、
ノエルの目は深淵の湖を思わせる静けさで、観客の心を包み込む。
怒りのあとに訪れる、澄んだ呼吸のような時間。
それはまるで「許し」だった。
すべてを否定せず、ただ流れに身を委ねる──
剣で戦うのではなく、心で抗う。
静かな強さが、青の衣に宿っていた。
光がすうっと消え、舞台に闇が差す。
その静寂を破るように、風が裂ける音が響いた。
赤を纏った三人の戦乙女──メグ、エイラ、サーシャが現れる。
手には剣。鋭く、重く、まるで心そのものを形にしたかのように。
彼女たちの一歩ごとに、床がきしむ。
その剣が一度振るわれれば、空気が悲鳴を上げる。
ヒュッ、と。
ピシィッ、と。
見えないものまで斬り裂いてしまいそうな、鋭利な音。
メグの目には決意が宿り、
エイラの肩は怒りを抱えて震え、
サーシャの動きは獣のように鋭く、美しい。
彼女たちは今、言葉を持たない激情そのものだった。
迷いも、慈しみも、赦しも、すべてを断ち切るために在る。
剣が、怒りの代弁者となる。
この世の不条理を、悲しみを、やり場のない感情を、その刃で、ただひたすらに断ち切ろうとする。
観客たちは思わず息を呑む。
これは踊りではない。
祈りでもない。
叫びだ。
赤の戦乙女たちは、怒りという名の炎をまとい、舞台の上で吠えていた。
赤と青、相対する戦乙女たち。
炎と水、激情と静謐。
剣と剣が交わるたび、舞台に火花が散るようだった。
ギリギリと唸る金属音。
踏みしめる床板の軋み。
常人の目では、もはや追いきれぬ速さ。
空を舞う。
人の身体とは思えぬ動きに、観客は息を呑む。
だが、やがて崩れる。
一人、また一人と地に伏し、その場に残るものは、倒れ伏した影と、静寂のみ。
光が消える。
やがて、再び灯る淡い光。
そこに現れたのは、ただ一人の少女──リズ。
天女の羽衣を思わせる衣をまとい、舞台の中心に、そっと立つ。
彼女の唇が微かに開かれる。
その声は小さい。
だが、確かに届いた。会場の隅々まで。
哀しみの歌。
心の底に沈んだ、誰にも言えなかった想い。
涙に変えられなかった悲しみ。
それらが、ひとつひとつ、音になって空を漂う。
言葉よりも深く、音色よりも静かに。
リズの歌が、観客の心を締めつける。
胸の奥が、きゅうっと痛む。
ただの舞台ではない。
これは、魂の慟哭だった。
舞台の上、リズのまとう光が、微かに、しかし確かに熱を帯び始める。
悲しみの旋律の中に、かすかな温もりが差し込む。
一筋の陽光のように、希望の兆しが差し始める。
リズの唇から紡がれる歌は、やがて静かな祈りのように変わっていく。
音楽は、ない。
けれど不思議と、聞こえる気がした。
空気の震え、胸の高鳴り、涙の滴が奏でる伴奏。
リズの身体が、しなやかに舞い出す。
風に舞う花弁のように。
水面に波紋を描くように。
一歩ごとに、光は強さを増し、
一振りごとに、悲しみは浄化されていく。
観客の誰かが、ふと、手を打った。
それに応じて、ぽつり、ぽつりと。
次第に手拍子は重なり、大きなうねりとなって広がる。
それはまるで、この再生の歌に命を吹き込むように。
リズの歌声は高まり、今やそれは新たなる始まりの讃歌。
深い闇の果てに差す、朝の光のように。
幾千の絶望を超え、それでも歩き出そうとする人々への贈り物。
希望から、再生へ――その瞬間、舞台は祈りに包まれていた。
幕が下りたその瞬間、雷鳴のような拍手と歓声が劇場を揺るがした。
それはただの称賛ではない。
感情という感情が溢れ出し、会場の隅々にまで響き渡った――魂の喝采。
「グレイス・ルネ劇場」の前を歩いていた人々が、何事かと立ち止まり、目を見交わす。
地面が揺れているのではない、心が、揺れているのだ。
ブランゲル侯爵は目を伏せ、低く、しかし確かに言葉をこぼした。
「魂が震えるというのは…このことか」
その隣で、ジェイソンとエリクソンは震える手を胸に添え、言葉にならない感情を必死に飲み込もうとしていた。
その背に宿るのは、畏敬か、歓喜か、あるいは祈りか。
エリカは静かに頬を濡らし、その涙を拭おうともせずにいた。
側近たちもまた、声を押し殺しながら泣いていた。
けれど――誰も、それを恥とは思わなかった。
それほどまでに、あの舞台は美しく、心を突き動かすものだった。
涙は、祈りであり、証だった。
今ここに、自分たちは生きているという証。
そして――その奇跡に、心から感謝したいと思える、
たったひとつの夜だった。




