料理人たちの苦悩
「お母様が……美味しい!って言って食べてくれたのよ!」
扉が開くなり、エリカの弾けるような声が響いた。
勢いよく飛び込んできた彼女に、厨房にいたシャイン傭兵団の面々やブランゲル家の料理人たちが一斉に振り向く。
最初に反応したのは、料理長――ミテラン・タスーだった。
「……奥様が……“美味しい”と、おっしゃってお食べになられたのですね……お嬢様?」
まるでそれが夢か幻か確かめるような声だった。
エリカはこくこくと頷くと、すぐに思い出したように声を弾ませた。
「ええ!そうよ!あっ、いけない!もう一皿食べたいって言ってたわ!早く持って行かなきゃ!」
そのまま彼女は調理台に置かれた温かいハンバーグを、銀のプレートに丁寧に並べてカートへと載せていく。
「なんと……」
「まさか……」
「夢ではなかろうか……」
料理人たちの間から驚きと歓喜の入り混じった声が次々と漏れる。
重ねて幾年、エリジェ・ブランゲルが肉を一口でも口にしたことはなかった。
食事そのものを拒むことも増え、料理人たちはずっと苦しんでいたのだ。
その中心で、ミテランは手を胸に当て、しばし言葉を失っていた。
「ありがとう……みんな、ありがとう!」
エリカは叫ぶように言って、笑顔で涙を浮かべながらカートを押し、再び母のもとへ向かって駆け出していく。
入れ替わるようにして、奥の廊下からジェイソンとエリクソンが現れた。
二人は迷いも戸惑いもなく、堂々と厨房の中央へと歩み出ると、その場にいる全員に向けて深々と頭を下げた。
「この度は、我が母・エリジェのために尽力してくださったこと、ブランゲル家を代表して厚く御礼申し上げます」
広間に一瞬、息を呑むような静寂が広がる。
貴族が、平民に対して、しかもここまで深く頭を下げるなど――この国の慣習ではほとんど有り得ないことであった。
「……ジェイソン様、エリクソン様……どうか、どうかお顔をお上げください。我々はただ、彼らの――シャイン傭兵団の指示に従い、料理をしたまでのことです」
ミテランが立ち上がり、かすれた声で申し訳なさそうに言う。
だが、エリクソンは首を横に振った。
「それでもだ……お前たちは、母のために長い間、心を尽くしてくれた。どれほど苦労したことか、我々はよく知っている。だからこそ、改めて感謝を伝えたいのだ」
ミテランは震える手で前掛けを握り締める。
エリジェがブランゲル家に嫁いできて以来、彼女の繊細な嗜好に応えるため、厨房は常に緊張と挑戦の日々だった。
少しでも美味しいと思ってもらうために、味を変え、材料を見直し、調理法を研究し続けた。
それでも、食べてもらえず、皿が下げられてくるたびに、皆の心に痛みが残った。
けれど今日――たった一皿のハンバーグが、それを覆した。
「……勿体なき……お言葉です」
ミテランの目から、ぽろりと涙が零れた。
それは彼だけでなく、周囲の料理人たちも同じだった。
若い料理人はハンカチで顔を覆い、中堅の調理師は無言のまま肩を震わせ、老年の料理人はその場に膝をついて嗚咽を漏らしていた。
「こんな日が来るとは……思わなかった」
「努力は、報われるのですね……」
「奥様が……食されたそれだけで……」
涙が、歓喜の波となって厨房全体を包み込む。
その光景を見ながら、サーシャがポツリと呟く。
「人を救うのは剣ばかりじゃないって、思い知らされたわね」
「料理は、命に力を与えるんじゃな……」
ヤコブも神妙な顔つきで頷く。
シマは静かに皆を見渡し、口元にやわらかな笑みを浮かべた。
「――さあ、もっといっぱい急いで作ろう。きっと、まだ食べたいって思ってるはずだ…俺たちの分も皆の分もな」
その言葉に、誰からともなく「おう!」と声が上がった。
厨房に再び火が灯る。
鍋の蓋が鳴り、フライパンが唸る。
玉ねぎが炒められ、肉が練られ、香辛料が舞う。
「焼くときは、最初は強火で外側をカリッと焼き固めて、その後中火でじっくり火を通すんだ」
シマが言うと、料理人たちは素直に頷き、即座に手を動かした。
「捏ねるときは粘り気が出るまで。空気を抜くようにしっかり捏ねる。形成するときも、中心に空気が残らないように意識するんだ」
教えた内容は簡単なものだったが、それだけで見事にコツをつかむのは、さすがブランゲル家付きの料理人たちだった。
シャイン傭兵団の面々もその手際に感心していた。
「やっぱり、料理人は違うな」
「ちょっと教えただけで、もう自分のものにしてるよ」
次々と焼き上がる大量のハンバーグ。
それらは銀の皿に丁寧に盛り付けられ、広間へと運ばれていった。
広間では、シャイン傭兵団とアデルハイト、料理人たちが一堂に会し、思い思いにハンバーグを頬張っていた。
そのとき、扉が開き、ブランゲル侯爵、ジェイソン、エリクソン、エリカが姿を現した。
彼らの背後には、側近たちも戻ってきていた。
「ハラワパは?」と誰かが問うと、エリカが笑って答えた。
「家路についたそうよ。お母様が“お腹いっぱい食べたら眠くなっちゃった”って、久しぶりに穏やかな顔で眠りについたの」
その言葉に、一同は安堵の表情を浮かべた。
するとブランゲル侯爵がシマに向き直り、真剣な眼差しで尋ねた。
「シマよ。対価は何を望む?」
「ん~……今は思いつかねえな。貸し一つでどうだ?」
その返答に、ジェイソンが肩をすくめて笑う。
「君たち相手に貸し一つというのは、怖いね。何を言われるのやら」
「無理な要求をするつもりはねえよ」
「……ふむ、よかろう」
シマの真剣さを感じ取り、ブランゲル侯爵は静かに頷いた。
「侯爵家に貸し一つって、俺たちすごくね?」とクリフが言えば、「そうね、普通じゃないわね」とエイラが軽く微笑む。
そのとき、ヤコブが一歩前に出て申し出た。
「侯爵様、一つよろしいですかな?」
「うむ、申してみよ」
「奥方様は、お茶を嗜まれますかな?」
「かなり好きだな」
「体調が万全であれば問題ございませんが……今は控えた方がよろしいかと存じます」
ヤコブの言葉に、侯爵はわずかに眉をひそめ、考え込むように言った。
「……良くないのだな…?とどめておこう。」
「ホットミルクもダメなのか?」
シマが聞く。
「飲まぬな」
「蜜や砂糖を入れても?」とシマが尋ねると、「試したことはあるようだが……」と侯爵は答えた。
「果実はどうなんだ?」
「果実は食べるな」
「干しぶどう、プルーン、アボカド、干し柿、いちごって果実は知ってるか?」
「干しぶどう、プルーンは知ってるな。その他は知らん……だが、干しぶどうとプルーンは妻の身体に必要なのだな?」
「そうだ」
シマとヤコブの眼差しに、ブランゲル侯爵は心からの感謝を込めて言った。
「シマ、ヤコブよ……感謝するぞ」
それを聞いたシマは、軽く肩をすくめて笑いながら返す。
「おっと、感謝するにはまだ早いぜ。ハンバーグのレパートリーってのはな、実は山ほどあるんだぜ」
その言葉に、驚きと好奇心を隠しきれないジェイソンが即座に食いついた。
「君には驚かされっぱなしだね。その“レパートリー”も、ぜひ買い取らせてほしい。父上、よろしいですね?」
「もちろんだ」
ブランゲル侯爵は即答する。
もはやシャイン傭兵団への信頼は揺るぎないものになっていた。
だが、シマの返答は一筋縄ではいかない。
「それなんだがな、俺たちも商材として考えてる。…条件付きになるかならないかは、交渉次第だがな。金額の方も、それなりに見てもらわねぇと」
侯爵家にとって、料理の“商材化”は前代未聞の提案だった。
しかしジェイソンは落ち着いた表情で頷き、口を開く。
「父上、私に任せてもらっても?」
「お前に任せる」
それが、ブランゲル侯爵の答えだった。
「ということだ。受けて立つよ、シマ」
ジェイソンの瞳に宿るのは、誠意と理知。
そして、ひとつの事業としての野心。
彼は貴族であると同時に、交渉人としての顔も持ち合わせていた。
「俺たちからは、エイラが出る」
シマがそう言うと、隣にいたエイラが小さく会釈する。
「お手柔らかにお願いしますわ、ジェイソン様」
「こちらこそ」
ジェイソンは微笑み、視線をエイラと交わす。
エイラは、シャイン傭兵団内でも有数の才覚を持つ女性だった。
駆け引きにかけては、誰よりも優れている。
「それじゃ、明日、書面にして提出する。陣形のこと、ハンバーグのレパートリーのこと、全部まとめてな」
シマはそう言って腕を組む。
「では明日、午前九時に来るがいい。応接間を用意させよう」
ブランゲル侯爵が静かに言う。
彼の口調からは、形式ばらぬ親しみと、本気の覚悟の両方が感じられた。
周囲には、先ほどまでのハンバーグの香りがまだ漂っていた。
大広間では料理人たちが余韻に浸りながら、シャイン傭兵団の面々と肩を並べて食事をとっていた。
誰もが一様に笑顔であり、まるで宴のような空気が流れていた。
その中で交わされた、たったひとつの交渉の約束。
しかしそれは、侯爵家と傭兵団の間に新たな架け橋を築く第一歩となる。
料理ひとつが国を動かす――そんな時代の胎動が、確かにその場にあった。
侯爵家にとって、そして傭兵団にとっても忘れ得ぬ一日となった。




