奇跡のハンバーグ?!
「大量の新鮮な卵、赤身の肉、玉ねぎ、それとバターを手に入れてほしい」
シマの言葉に、ブランゲル侯爵はすぐさま反応した。
「うむ、すぐに用意しよう!」
さすがは侯爵家――その対応は迅速だった。
言葉通り、ほんの一刻もしないうちに、使用人たちの手によって立派な木箱に詰められた食材が運ばれてくる。
卵はまだ体温を残しており、赤身の肉は血の気を帯びて新鮮そのもの。
玉ねぎは土の香りがかすかに漂い、バターは滑らかで濃厚な香りを放っていた。
厨房はすぐに活気に包まれた。シマ、エリカ、シャイン傭兵団の面々に加えて、侯爵家付きの料理人たちも加わり、普段は静かな厨房がまるで戦場のように熱を帯びていく。
玉ねぎをみじん切りする者、赤身の肉をひたすら細かく叩いてミンチ状にしていく者。
すりおろした硬いパンをパン粉として準備する者。
それぞれが黙々と手を動かす中で、ひとつの木箱の中に入っていた何かにシマの目が留まった。
「……これ、大豆じゃね?」
「はい、それは大豆でございます」
料理長がすぐに答える。
「ってことは……醬油、あるのか?」
「醬油……? なんでございましょう?」
シマは思わず目を細める。
発酵食品の文化がないのか? この大陸にはパンもチーズもあるのに……何かが抜けている。
だが、今はそんなことを考えている暇はない。やるべきことはただひとつ。
「よし、大豆も使おう。細かく刻んで、すりつぶして、肉に混ぜる」
「栄養価も高いですしな。なるほど、これは面白い発想じゃな」
ヤコブがうなずき、厨房の一角で大豆を処理し始める。
玉ねぎを飴色になるまで炒める者、パン粉と牛乳を混ぜてふやかす者――作業は段取りよく進んでいく。
シャイン傭兵団の男たちも次々に厨房へ顔を出した。
ザックは腕まくりをしてひき肉の山を捏ね、クリフは巨大な寸動鍋を持ち上げて移動させる。
トーマスやオスカー、ロイドたちも交代で肉をこね、まるで鍛錬のごとく腕を動かして粘り気を出していく。
「おおお、いい具合だな……」
「こりゃあ筋トレになるな……!」
「だが、これが命を救うってなら燃えるぜ……!」
傍らでは女性陣が器用に成形を担当している。
リズとミーナは器用な手つきでふっくらとしたハンバーグの形を整え、ノエルとケイトは焼き具合を見ながら鉄板の上でそれらを丁寧に焼き上げていく。
焼き目がついたハンバーグからは、ジュワリと肉汁があふれ、たちまち厨房に香ばしい匂いが充満する。
「うわあ……この匂い……お腹空いちゃった」
エリカが思わず唾を飲み込んだ。
「この香り、たまらんのう……」
ヤコブも珍しく理性が揺らいでいるようだ。
そして、忘れてはならないのがソース作りである。
(さて、ソースもこの大陸のもので勝負だな)
シマは手元に並べられた調味料を見渡す。
甘味には果実から煮詰めた蜜、塩気には岩塩と乾燥ハーブをブレンドしたもの。
酸味はワイン、旨味には乾燥茸と香草、さらには干した魚を砕いた粉末を使う。
バターを鍋で溶かし、炒めた玉ねぎと茸の粉末を加え、そこにワインと蜜を合わせて煮詰める。
塩とハーブで味を整え、最後に肉汁を加えて深みを出す。
「おぉ……見た目も香りもすごいなこれ……」
「まるで高級料理じゃねえか……!」
「これがハンバーグの底力ってやつだ」
できあがったハンバーグとソースは、盛り付けられた瞬間から一種の芸術作品のようだった。
並べられた皿はまるで戦の布陣のように、侯爵家の厨房を彩っていた。
だがこの瞬間、シャイン傭兵団と侯爵家の人々はひとつになって、命をつなぐための“料理”を作り上げたのだった。
それは、異なる文化、立場、背景が交差する場所に生まれた、ひとつの奇跡とも言える一皿だった。
香ばしい匂いが、厨房を満たしていた。
焼きたてのハンバーグが、今まさに皿の上で湯気を立てながら主を待っている。
シマは一歩前に出て、試作品の一皿にナイフを入れた。
「……おお……」
ナイフが通った瞬間、ふわりとした手応えとともに、内部からジュワッと肉汁があふれ出す。
皿に溢れるソースと混ざり合い、その芳醇な香りがさらに辺りに広がった。
「いただくぞ」
シマはナイフとフォークで切り分けた一切れを口に運んだ。
ふんわりとした舌触り、溶けるような柔らかさ。
そして噛むたびに広がる、肉と玉ねぎ、大豆、そしてソースの重奏――
「……美味い!」
シマの一言に、周囲がどっと色めき立った。
サーシャがそっと近寄ってくる。
「シマ、私にも頂戴」
「ほれ、あーんしてみな」
シマが優しく差し出した一口を、サーシャは素直に受け入れた。
ひと噛みした瞬間、瞳がぱあっと見開かれる。
「……おいしい! 前に食べたハンバーグより美味しくない!?」
「たしかに」と頷くのはロイド。
「前のは卵もミルクも使ってなかったしな。あの時はソースも即席だったし」
「味の深みが違うな。これぞ完成形ってやつだな」とザック。
「こりゃあ驚いた……」
呟くのはトーマス。
傭兵団の面々が次々と頷きながら試食していく。
ケイト、ミーナ、ノエル、リズ、エイラ……誰もが驚きと感動を隠しきれない表情を浮かべていた。
「よし、次はお前たちの番だ」
シマはエリカと料理長たちに目を向けた。
エリカは皿の前に座り、恐る恐るナイフを入れる。
中から溢れる肉汁と香りに思わず目を見開いた。
一口、口に入れた瞬間――
「……なにこれ! こんなおいしいものがあっていいの?!」
叫ぶような歓声。思わず手を口に当てるエリカ。
「まるで、幸せを食べてるみたい……!」
料理長も一口、口に含むと――目を閉じてしばし無言のまま、味をかみしめる。
「……これは、何とも形容しがたい……うまさですな……」
「おお……」「これはもう別格だ……」「信じられん……!」
周囲の料理人たちもそれぞれに一口、また一口とフォークを伸ばし、やがて首を縦にぶんぶん振り始める。
「こんな料理があったなんて!」
「革命が起きますぞ!」
「我々の概念を覆す……!」
絶賛の嵐の中でも、エリカの胸の中には一つの思いが沸き上がっていた。
――お母様にも、早く、これを食べさせたい!
「シマ! お願い、早くお母様のお部屋に持っていって!」
その言葉に、シマは一瞬だけエリカを見つめ、そしてゆっくりと首を横に振った。
「……それは、俺たちじゃなくて……お前たち“家族”が運ぶべきだ」
その言葉が胸に刺さった。
「ッ……!」
エリカは目を見開いた。手の中にあるナイフとフォークが震える。
「……そうね。あなたの言う通りだわ、シマ!」
エリカは立ち上がり、ハンバーグの皿をそっと手に持つ。
ハンバーグを乗せた銀のトレイが、ゆっくりと廊下を進む。
侯爵邸の廊下は静まり返っていたが、その空気の中には、何かが変わる予感が漂っていた。
厨房には、見送るシマとシャイン傭兵団の面々、そして侯爵家の料理人たちが立っていた。
誰もが言葉にせずとも願っていた――
どうか、この料理が、奥方の命を救うきっかけとなりますように。
その思いとともに、皿の上のハンバーグは、静かに、しかし確かに運ばれていったのだった。
ブランゲル侯爵の妻、エリジェ・ブランゲルは静かに寝台に横たわっていた。
蒼白な頬、薄く閉じた唇、そして折れそうなほどに細い手。
部屋の中は重苦しい沈黙に包まれており、淡い陽の光さえ、その場に差し込むことをためらっているようだった。
寝室の扉の前で、ブランゲル侯爵、ジェイソン、エリクソン、エリカは立ち止まり、扉の向こうにいる妻の容態を確認する。
「……どうだ?」
侯爵が侍女に低く問いかける。
侍女は申し訳なさそうに目を伏せ、首を横に振った。
「……お加減は、よろしくありません」
その一言に、誰もが息を詰めた。
わかっていたことだ、それでもどこかで希望を持っていた。
だが現実は非情で、病は容赦なくエリジェの身体を蝕んでいる。
「よし、入ろう」
ブランゲル侯爵はゆっくりと扉を開けた。
「エリジェ……」
「……あなた? まぁ、ジェイソンに、エリクソン……エリカまで……珍しいわね」
枕元から聞こえる声はか細く、乾いた風が吹けば消えてしまいそうだった。
それでもエリジェは、家族を前にして必死に微笑もうとした。
だが、その笑顔は明らかに作られたもので、苦しげな胸の内を隠し切れてはいなかった。
見ているだけで胸が締め付けられる。
愛する者が、すぐそばにいるのに、何一つ助けてやれない。
侯爵も、子どもたちも、皆同じ思いだった。
だからこそ――ブランゲル侯爵は、明るい調子を装って口を開いた。
「今日は、お前のために特別な料理を用意したんだ。気に入ってくれるといいが……無理に食べる必要はないからな」
その声には明るさとともに、どうか――頼むから、食べてくれ、という願いが滲んでいた。
エリカがそっとトレイの蓋を開ける。
次の瞬間、濃厚で食欲をそそる香りが、部屋いっぱいに広がった。
温かく、やさしく、どこか懐かしい香り。
「まぁ……美味しそうな匂いね」
エリジェがぽつりと呟いた。
「お母様、本当に美味しいのよ、これ。ね、食べてみて?」
エリカがそっと差し出す。
「ええ、いただくわ……」
スプーンを手にしたエリジェは、一口を慎重に口に運んだ。
そして、次の瞬間――
「……これ、お肉?」
その問いに、ブランゲル侯爵は少しだけ動揺して言葉を濁す。
「あ、ああ……いや、お前をだますつもりは……」
「――美味しい」
エリジェは侯爵の言葉を遮った。
「お肉って……こんなにおいしかったのね!」
そう言って、次の一口を自ら口に運ぶ。
その頬に、ほんのりと色が戻っていくのがわかる。
信じられない光景だった。
あれほど肉を嫌い、見るのも嫌がっていたエリジェが、自ら進んで、嬉しそうに、しかも笑顔で食べている。
ブランゲル侯爵は思わず目を見開き、ジェイソンも、エリクソンも、侍女もその場で言葉を失った。
エリカは両手を胸に当て、感激のあまり涙を堪えていた。
やがてエリジェは、皿の最後のひと口を口に運び、ぴたりとスプーンを置いた。
「……この料理なら、いくらでも食べられそうだわ。あなた、もう一皿いただけるかしら?」
その言葉とともに浮かべた笑顔は、決して作り物ではなかった。
自然に、無理なく浮かんだ笑顔だった。
「ああ、ああ、もちろんだとも!」
ブランゲル侯爵は震える声で答えた感極まったように。
エリカがエリジェに抱きつく。
「お母様!」
「母上……!」
ジェイソンも、エリクソンも、母の体を抱きしめるようにして寄り添った。
その光景を見て、エリジェはうっすらと目を潤ませながら呟いた。
「……ごめんなさいね、今まで心配かけて……」
今この瞬間だけは、誰も病のことを思い出していなかった。
病が治るかどうか、回復がどれほど見込めるか――それも確かに大事なことだ。
だが、この瞬間に彼らの胸を満たしていたのは、それ以上の“奇跡”だった。
久しく見なかった笑顔。
力強く口を動かして、食べ物を噛み、味わう姿。無理やりでも、義務でもない、自然な「美味しい」の声。
それが、どれほど尊いものか。
ブランゲル侯爵は静かに、妻と子どもたちの姿を見つめながら、深く、深く息を吐いた。
――ありがとう、シマ。ありがとう、シャイン傭兵団。
誰よりも強く、心の中でそう感謝していた。




