貧血?!
「三つの陣形は既に領軍で使われている。偃月の陣――『えんげつのじん』、雁行の陣――『がんこうのじん』、そして鋒矢の陣――『ほうしのじん』だ」
シマが静かに告げると、周囲にわずかな緊張が走った。
「残り五つの陣形は文書にして、明日提出する。もしかしたら、お前たちの中には既に知っている者もいるだろう。聞いたことがある者もいる可能性もある」
ジェイソンは目を細め、テーブル越しにシマを見る。
「その時は報奨金の額を下げてもらって構わない。だが、報告した五つの陣形、すべてを知らなかった場合――その時は100金貨。つまり、一つにつき20金貨だ」
シマは黙ってジェイソンを見返していたが、やがて微かに笑みを浮かべた。
「知らないのに、知っていると嘘を吐いたらどうなる?」
ジェイソンの声には試すような色があった。
「……そうなれば、俺の目が曇ってたってことだ」
シマはそう言って、軽く肩を竦める。
「…フフッ、安心してくれ君たち相手に不誠実な真似はしないよ」
「それは何よりだ」
シマが頷いたとき、不意に彼の視線が侯爵へ向いた。
「……少し気になってたんだが。奥方の体調、詳しく伺っても?」
ブランゲル侯爵はわずかに驚いたように目を見開いたが、すぐに静かに頷いた。
「……ああ。妻は、昔から体が弱くてな。最近は特に、症状が増えてきている」
「どんな症状が?」
「めまいや立ちくらみが頻繁にある。頭痛も日常的だ。階段を数段登っただけで息切れがすることもある。体が重く、倦怠感を常に訴えていて、起き上がるのも一苦労だ」
シマの表情が少しだけ険しくなる。
「それ以外は?」
「味覚も鈍くなってきたようでな、好きだった料理にも反応が薄い。朝は起きてもぼんやりしていて、会話がかみ合わないこともある。顔色は青白く、爪ももろくなってきている。最近では胸の痛みを訴えることもあってな……医師は心臓の問題を疑っているようだが、決定打がない」
シマは無言で頷いた。
「……飲み込みづらさも?」
「ある。特に朝は食事が進まず、喉がつかえるような感覚があると言っていたな」
「……貧血、か?」
シマが低く、誰にともなく呟いた。
その声には確信のような響きすらある。
周囲の空気が一瞬止まったように感じられた。
すぐにシマは隣に立つヤコブに視線を送る。
「ヤコブ、心当たりはあるか?」
問われたヤコブは顎に手を当て、少し考え込んだ末に、穏やかな口調で言った。
「……恐らく、血が足らんのじゃろうな。症状からして、身体の中で血が作られておらん」
「……?!」
椅子の背にもたれていたブランゲル侯爵が、その場でガタンと身を起こした。
珍しく、その豪胆な顔に驚きの色が浮かぶ。
「な……二人とも、原因を知っておるのか!?」
思わず声が大きくなる。侯爵の目が切実に見開かれていた。
「シマ、ヤコブ……お願い!お母様を助けて!」
横から叫ぶようにエリカが身を乗り出してきた。
その目には涙すら浮かんでいる。普段は自由奔放な彼女が、心からの懇願をするのは珍しい。
シマは少しだけ目を細めると、静かに頷いた。
「……確約はできないが、善処しよう。最善は尽くす」
「ワシも全力を尽くしますぞ。医学の心得は伊達ではない」
ヤコブも力強く応じると、意気込みを露わにした。
すると、シマはふとヤコブの耳元に身を寄せ、小声で尋ねる。
「なあ、ヤコブ……お前が“違う大陸”から来たこと、バラしてもいいか?」
ヤコブは意外にもあっさりとした表情で頷いた。
「構わんよ。どうせ隠し通すつもりもなかったしのう」
それを聞いたシマは軽く口の端を上げ、顔を上げてブランゲル侯爵に向き直った。
「ブランゲル。実はな……ヤコブは“違う大陸”から来た人間なんだ」
「は……? 違う……大陸?」
ブランゲル侯爵の声が裏返った。
一瞬、何を言われたのか理解できない様子だった。
「……聞いたこともない」
ジェイソンが唖然としたように呟いた。
「えっ? 大陸って……ここだけじゃねえのか?」
エリクソンの間の抜けた声が場の静けさに響く。
「……何言ってんの? 本当に? 本当にそんなのあるの?」
エリカの声には信じがたいという色がにじんでいた。
「……そんなバカな……?!」
アデルハイトも目を見開き、唇を震わせていた。
しかし、シマは皆の反応にひとつひとつ動じることなく、淡々と続けた。
「まあ、今はその話は置いとこう。重要なのは“そこ”じゃない。奥方について、もう少し詳しく聞かせてくれないか?」
シマの落ち着いた声に空気が再び現実へ引き戻された。
「あ、ああ……。もちろんだ。答えられることなら何でも聞いてくれ」
ブランゲル侯爵はまだ混乱を引きずりながらも、エリカに目配せをして頷く。
「私も! お母様のことであれば何でも話すわ!」
エリカもまた力強く答える。彼女の頬には涙の跡が残っていた。
「私もだよ」
ジェイソンも一歩前に出て、真剣な眼差しで言う。
「俺も!」
エリクソンが拳を握りしめて加わる。
――その場にいた全員が、侯爵夫人のために力を尽くす意思を示していた。
シマは静かに頷き、そしてヤコブと視線を交わす。
シマとヤコブが持つ知識。
そして、その知識が救いになるかもしれないという希望。
シマの胸に灯ったのは、確かに“使命感”だった。
「……では、まず教えてくれ。昔から身体が弱いといったが、いつ頃からだ?」
シマが落ち着いた声で問いかけると、ブランゲル侯爵は重々しく頷いた。
「幼少の頃からだそうだ。寒がりで、風邪をひきやすく、よく寝込んでいたらしい」
「……もしかして、奥方は食べ物に関して、好き嫌いが激しいんじゃないか?」
突然の指摘に、ブランゲルは驚いたように目を見開いた。
「そ、そうだ! まさしくその通りだ!」
「……な、なんでそんなことわかるの……!」
横からエリカが声を上げた。動揺と同時に、驚きの色が濃い。
「この辺りじゃ魚介類は手に入りにくかろう。…奥方は、牛肉やミルクはお嫌いですかな?」
ヤコブがそう口にすると、ブランゲルはまるで詰まっていたピースがはまったように、何度も頷いた。
「そ、そうなんだ! 肉は硬いと言ってな……ミルクは“乳臭い”と言って口にしようとせんのだ」
(確かに肉は硬いなあ、こっちのは結構筋張ってるしな……)
シマは心の中で呟いた。
何度も口にしているだけに、思い当たる節は多い。
「まあ、貧血で間違いねえだろうな……」
そう言って立ち上がると、ふと何かを思いついたように目を細め、傍らにいたエイラへと視線を送る。
「しゃあねえ……ここはいっちょ、一肌脱ぐか。ハンバーグを作ろうと思うんだが」
エイラは一瞬きょとんとした後、すぐにふっと笑った。
「……あれ、商材にしたかったんだけどね。でも仕方ないわね。人の命には代えられないもの」
その言葉に、周囲の空気が一気に和らぐ。
「ハンバーグか、いいな!」
ザックが目を輝かせて言うと、
「久々じゃねえか」
とクリフも笑う。
「ね、楽しみだわ」
ケイトが小さく頷き、ミーナとノエルが顔を見合わせて嬉しそうに微笑む。
シャイン傭兵団の家族たちは、それぞれの思い出と共に、ハンバーグという言葉を噛みしめていた。
「……ハンバーグとはなんじゃ?」
ヤコブが首をかしげて問うと、シマがすかさず答える。
「肉料理だ。ひき肉に玉ねぎとか、いろいろ混ぜて丸めて焼く。工夫すりゃ、固い肉でも柔らかくなる」
しかし、ブランゲルは難しい顔をした。
「だが……妻は肉を食べんぞ」
その一言に空気がやや冷える――が、その沈黙を破ったのは、にやりと笑ったフレッドだった。
「ハンバーグはな、そんじょそこらの肉料理とはわけが違うぜ!」
「ダメだったら、また別の手を考えるさ」
シマが軽く言ってみせると、皆の表情に安心が広がった。
「……それほどまでに自信があるのか」
侯爵の声には、わずかに期待が滲んでいる。
「自信なんてねえよ。だが、うちの“家族”は誰かが困ってたら、みんなで知恵を絞る。そうして生きてきた」
シマの言葉に、誰もが自然と頷いた。
「ワシもレシピに興味が湧いてきたぞ。是非、調理の過程を間近で見せてくれんか?」
「もちろん。ヤコブ、お前の学問も役立つかもな」
「うむ。まさか異大陸で料理の研究をするとは……だが、面白い」
「……なんだか、こうして皆で騒いでると、病気の話も少し和らぐわね」
エリカがそう呟く。
「食って笑って、健康になってもらうんだ。こっちは本気だぜ」
「……うん、信じてる」
エリカはそう返し、目に小さな光を宿した。




