大丈夫か?!
「こんな感じだったかな……」
宿の一室、机の上に紙を広げ、シマはペンを走らせていた。
彼の記憶の奥底から引っ張り出されてくるのは、前世で目にした“正装”という概念――スーツというやつだ。
軍服や式典用の装いではなく、ビジネスやフォーマルな場で用いられる、洗練されていて品格ある衣服の数々。
「スラックスは、足のラインがまっすぐに見えるような細めの……それでいて動きやすい素材だったな。ベルトも必要だ。ネクタイは……ええと、首に巻いて垂らす細長い布。形を整えると見栄えがいい」
シマはぶつぶつと独り言のように呟きながら、記憶の断片を頼りに次々と図案を描き出していく。
シャツは襟元が立ち、前がボタンで留められるもので、袖口にも特徴があったはずだ。
「こんな風に……袖の先に小さなボタンを付けて、きっちり留めるんだ」
その様子を隣でじっと見ていたリズの目が、だんだんと輝きを増していく。
「すごいわシマ。これ……踊りの衣装に似てる部分もあるのよ。ラインの出し方とか、重ね方とか。動きやすさを意識してるのも一緒」
「ほう、そうか。なら頼れるな」
シマが軽く笑うと、リズはにっこりと頷き、描かれた図案を丁寧に別の紙に写し始めた。
「ドレスの方はどうだった?その、女性用の正装」
サーシャが興味深そうに尋ねる。
「えーと、確か……カクテルドレスってのがあって、膝丈で軽やかに見える。あとは……ワンピース形式のもあったな。華やかすぎず上品なもの。『スマートエレガンス』って感じだった」
「スマートエレガンス……言葉の響きだけで素敵」
エイラが目を細めて呟く。
それらの説明を受けながら、リズはどんどんと図案にアレンジを加えていく。
華美すぎないけれど印象に残るシルエット。
まるで、自身の舞台衣装を作るかのような熱の入りようだった。
リズはどうやらデザイナーの素質があるようだ。
女性陣はその日一日、まるで夢のように過ごしていた。
布を選び、飾り紐やボタンを吟味し、仕立ての順番を決め、仮縫いの相談をして、構想を練る――一つ一つの工程が心を躍らせるのだった。
そして夕飯。
皆でテーブルを囲み、騒がしくも楽しい食事を終えた後、女性陣はまるで約束されたように一斉に立ち上がった。
「さ、始めましょ!」
「時間がもったいないわ!」
彼女たちは次々と自分たちの部屋へ戻り、すぐさま仕立てに取り掛かった。
――そして数時間後。仮縫いを終えた一着を手に、リズがシマたちの部屋の扉をノックする。
「どうかしら? ちょっと見てくれない?」
そうして彼女が身にまとっていたのは、深紅のラインが入った膝丈ドレス。
ウエストを少し絞り、上品な刺繍が胸元に施されている。
「おお……」
言葉を失うシマたち。
「ねえ、これだと大人の女性って感じじゃない?」
リズがくるりと回って見せる。
「うん……いいんじゃねえか。すごく似合ってる」
「最高だよリズ!」
「…美しい」
「…色気すら感じるな」
褒め言葉の連発。
否定や指摘など一切出てこない…出せない。
なぜなら、彼女たちの目は本気そのものだったからだ。
仮縫いが終わるたびに別の衣装が披露され、そのたびに意見を求められ、褒める……というより、もっと褒めろと要求するという流れが続いた。
一方その頃――
「じゃ、俺たちは行ってくるわ」
「健闘を祈っててくれよな!」
ザックとフレッドはこっそりと夜の街へと繰り出していく。
「まったく……」
ジトーが呆れたように呟く。
「ヤコブは? 一緒に行かねぇのか?」
クリフが肩をすくめて聞いた。
「ふむ、連夜はさすがに堪えるでのう……。わしは部屋で文献をまとめるわい」
ヤコブは軽く笑って手を振った。
「まあ、健康第一だな」
トーマスが笑いながら肩を叩いた。
こうして、宿屋の夜は更けていく。
どの部屋でも、誰かが何かに没頭していた。
仕立てに、設計に、弓の制作そして二日後の準備に。
侯爵家との正式な昼食会を前に、シャイン傭兵団の夜は慌ただしく、けれどどこか楽しく――まるで学園祭の準備のような高揚感に包まれていたのだった。
東の門の裏手、夜の闇に沈む倉庫街。
ひと気のない通りに、ザックとフレッドの足音だけが響く。
二人は肩を並べ、いつものように興奮気味に歩いていた。
「なあフレッド、ここで合ってるよな?この倉庫だよな、提灯が吊ってあるはずなんだが……」
「確かにここだ。何度も来てる場所だしな。でも……変だな…」
ザックが倉庫の扉に手をかけるが、ガチャガチャと鍵がかかっている音がする。
「……閉まってやがる。こんの……!」
苛立ちを抑えきれず、ザックが扉を蹴り飛ばす。
鈍い音が夜に響き渡るも、応じる声はない。
中を覗くと、薄暗い倉庫の内部は静まり返っていた。
椅子も仮設の柵も、賭けの案内人もいない。
ただ、埃っぽい空気と、使われていない道具の残り香だけがある。
「……誰もいねぇな。今日は休みか?」
「かもな。まあ、いいさ。金はあるし、楽しむ場所はほかにもある。なあ?」
ニヤリと笑い合い、二人はあっさりと踵を返し、夜の街へと消えていった。
次なる目的地は、いつもの“馴染みの娼館”だ。
だが――
彼らは知る由もなかった。
この城塞都市カシウムで、地下格闘技が“興行されない”という異例の事態が起きていることを。
正確に言えば、“彼らがこの街に滞在している間は”という条件付きで、全ての興行が突如として中止されたのだ。
原因は定かではない。
だが、あの二人が参加するとなれば、金を賭ける者たちが全てを彼らに賭けてしまうからだという噂もある。
あるいは、あまりにも選手を潰してしまうことで、胴元が損失を恐れたとも。
いずれにせよ、ザックとフレッドがカシウムにいる限り、地下格闘技が開かれることはなかった。
彼らがそれを知る日は、まだ少し先のことである。
翌日もシャイン傭兵団は慌ただしく動き回っていた。
女性陣は衣装の仕立てに集中し、リズは仮縫いのチェックや細かい装飾の調整に余念がなかった。
リズの頭の中には、シマの前世の服装スケッチをもとに、ドレスやスーツの完成形がはっきりと浮かんでいるようで、見事な手さばきで針を進める。
サーシャやケイト、ノエルたちも協力し、部屋はまるで工房のような活気に包まれていた。
一方、オスカーは納屋にこもり、ブランゲル侯爵への返礼用の弓を黙々と製作していた。
木材の選定から始まり、弓身のしなり具合、飾りの金細工まで、細部にこだわる。
「どこに出しても恥ずかしくねえ」とシマに言われた一言が、彼の胸に火をつけていた。
そしてその間、エイラとロイドが馬車の手配に奔走していた。
侯爵家との正式な食事会に、まさか歩いて向かうわけにもいかず、信頼できる御者と整った外装の馬車を探して街を駆け回る。
やっと手に入れた馬車4台は、品のある飾り彫りが施された二頭立てで、城塞都市の中でも上等な部類だった。
その日の午後には「テーブルマナー講習会」が宿の食堂で開催された。講師はシマ、エイラとヤコブ。
ナイフとフォークの使い方から、ナプキンの畳み方、パンの裂き方、ワインの飲み方まで、講義は細かく丁寧に行われた……が、団員たちは四苦八苦。
「おい、ナイフはどっちの手だっけ?」
「スープってズズッて飲んだらダメなのかよ!?」
「フォークって…この角度でいいんか?」
普段の豪快な食べ方が染みついているだけに、団員たちは悪戦苦闘。
リズが笑いをこらえながら「ほら、クリフ、肘をつかない!」と指摘すれば、クリフは照れ臭そうに姿勢を正す。
中でも頭を悩ませたのは“言葉遣い”だった。
「なあ、やっぱ“あんた”とか“おっさん”とかはダメだよな?」
フレッドが眉をしかめる。
「当たり前でしょ」
呆れるエイラ。
「せめて『ブランゲル侯爵』と呼ぶのよ。いくら相手が気さくでも、それが礼儀だから」
サーシャも念を押す。
こうして、服・弓・馬車・マナーと、準備は着実に整っていく。
笑いとため息の入り混じった一日が終わるころ、仕立て作業の山場を越え、ついにドレスが完成した。
リズたちの部屋──いや、もはや臨時の仕立て工房となったその空間には、布切れや針山、糸巻きがあちこちに転がっていたが、その中心に並べられた衣装たちはまるで舞台衣装のように輝いていた。
「みんな、準備はいい? 順番に着ていってね!」
リズのその言葉に、女性陣が緊張と高揚の入り混じった表情で着替えを始める。
最初に姿を見せたのはサーシャ。
深みのある濃紺のドレスは、胸元と裾に赤いラインが差し色のように入っており、洗練された中にも芯の強さを感じさせるデザインだった。
髪には、赤と青の小さな宝石があしらわれたシンプルな髪飾りがつけられていて、まるで夜空にきらめく星のよう。
「どうかしら?」と微笑むサーシャに、シマたちは思わず見とれる。
「まるで貴族の令嬢だな…」
シマが呟き、彼女は照れたように視線を外した。
次に現れたのはエイラ。
落ち着いた葡萄色のドレスは、彼女の知的で大人びた雰囲気によく似合っていた。
髪には、紫の小さな花が連なった髪飾りがつけられており、揺れるたびに品のある香りすら漂ってきそうだった。
「本当に私に似合ってる?」と珍しく不安げに尋ねるエイラに、「完璧だ」とシマが即答する。
彼女はそのまま少し笑った。
三番手はメグ。
鮮やかな赤のリボンがついた髪留めが印象的で、それに合わせたカクテルドレスは、元気で明るい彼女の魅力を存分に引き出していた。スカートの裾は軽やかに揺れ、まるで踊るよう。
「わー、かわいいー!」
ケイトとノエルが拍手を送ると、メグはくるりと回って見せ、「リズ、これめっちゃいい!」と笑顔を弾けさせた。
続いてミーナ。
淡いピンクと水色のグラデーションが美しいスマートエレガンスのドレスに、同色の花をあしらった髪飾りがつけられていた。
背筋を伸ばし、優雅な微笑を浮かべていた。
「まるで春の妖精みたいだ」と誰かが言うと、彼女はほんのりと頬を染めた。
そしてリズ自身。
彼女のドレスは白を基調としたスマートエレガンスで、さりげないレースと銀糸の刺繍が、彼女の洗練されたセンスを物語っていた。
髪には、白い花を一輪あしらった髪飾りがついていて、まさに純粋さと美しさを体現したような姿だった。
「リズ、君が一番輝いてる」とロイドが言うと、彼女は少し照れながら「ありがとう」と応えた。
最後に現れたのはケイトとノエル。
ふたりには、落ち着いた色合いのワンピースが用意されていた。
ケイトは深緑、ノエルは淡いベージュ。
胸元にはそれぞれ、リズが特別に選んだブローチがつけられていた。
ケイトのものは小さな銀の羽、ノエルのは月を模した丸いもの。
派手さはないが、ふたりの静かな魅力を引き出していた。
「みんな…本当に綺麗だ」
シマが感慨深げに言った。
女性陣はその言葉を受けて微笑む。
彼女たちの姿には、これまでの旅の疲れも、戦いの痕跡も、何ひとつ感じさせなかった。
一方その頃、男性陣も準備を終えつつあった。
だが——完成したその姿は、誰の目にも明らかに“マフィア”だった。
黒のダブルのスーツに身を包んだ面々は、まるで用心棒や極道。
胸元のシャツは白く、ネクタイは細身で締められているのに、どこか「堅気ではない」雰囲気を醸し出していた。
特にトーマスやザック、ジトーなど体格のいい者たちは、まさに“裏社会の男たち”そのもの。
中でも印象が変わったのはヤコブ。
長かった髪はさっぱりと整えられ、無精髭も綺麗に剃られている。
どこかの教授か財団の理事のような雰囲気すら漂わせていた。
「……これ、貴族の食事会に向かう集団じゃねぇよな」
クリフがポツリと漏らすと、皆が黙ってうなずいた。




