侯爵家からの招待
明け方、まだ陽も完全には昇りきらぬ時刻。
静寂に包まれた宿の廊下に、突如として荒々しいノック音が響き渡った。
「お客さん、大変だ! 起きてください!」
その声は、宿の主人だった。
昨夜、シマたちは共用の談話スペースで遅くまで語り合っていた。
シマの「前世」の話が皆に与えた衝撃は大きく、家族たちは次々に質問を投げかけ、それに応じてシマが答える──そんなやりとりが、深夜まで続いたのだ。
だが、彼らは常人ではない。
深淵の森という極限環境で生き抜いてきた彼らは、寝ていても無意識に周囲の気配を探る習慣が染みついていた。
誰かが廊下を歩き、部屋の前に近づいてくる気配を感じた瞬間には、全員が目を覚ましていた。
目を閉じたまま、足音の重さ、間隔、呼吸音までを瞬時に読み取り、それが敵意を持たない人間だと判断していた。
「お客さん!侯爵家から使節の方々が来られてます!」
扉越しに宿の主人の緊迫した声が聞こえる。
1階のロビーに降りると、すでに宿の入り口付近には数名の人物が整然と並んでいた。
中央に立っていたのは、淡い灰色の上等な外套を羽織った端正な顔立ちの男性──
ブランゲル侯爵の側近、ネリ・シュミッツだった。
その隣には別の使用人、さらに後方には数名の従者たちが控えており、全員が朝の空気を乱さぬようにと沈黙を保っている。
「シャイン傭兵団の皆様、朝早くからお騒がせして申し訳ございません」
ネリは深く一礼すると、両手に白い手袋をはめた使用人が一歩前に出る。
「本日は、侯爵家からの正式な招待状を持参して参りました」
使用人が恭しく差し出したのは、金色の封ろうが押された厚みのある文書だった。
封ろうには、堅牢な城壁と剣を象った紋章──イーサン・デル・ブランゲル侯爵家のものがはっきりと刻まれていた。
それは、この国で最も重みのある招待状の一つであり、他国の貴族すらも容易には手にすることのないものだった。
そしてさらに、ネリは穏やかに言葉を続けた。
「それと、こちらもお受け取りください」
再び使用人の一人が前に進み、今度は両手で小さな箱を差し出す。
見事な装飾が施されたその箱は、純銀の彫金が施され、蓋には侯爵家の家紋が丁寧に浮き彫りにされていた。
贈り物であることは明白だった。
とはいえ、こうした場面で突き返すのは礼を欠く行為になる。
団長であるシマは、微笑みながら一礼し、箱を受け取る。
「有難く、頂戴いたします」
その言葉にネリもにっこりと笑みを浮かべ、再び頭を下げた。
「それでは、我々はこれにて。お目通りの際には、どうぞご準備の上、お越しください」
礼儀正しくその場を後にする使節団。
その動きは、まるで軍の行軍のように無駄がなく、洗練されていた。
残された静寂の中、宿の主人が小走りで近づいてきた。
「お、お客さん……朝早くから騒がしくて申し訳なかったですな」
恐縮しながらも、どこか興奮が抑えきれない様子だ。
だがシマは、穏やかに言った。
「いや、こっちこそ悪かったな。宿をこんなに騒がせちまって」
すると主人は両手を振って否定し、頬を緩ませた。
「とんでもねえ! 侯爵家からの使節がこの宿を訪ねてきただなんて……これ以上の箔はねえってもんよ!」
ロビーにはまだ朝の光が差し込みきっていなかったが、空気はすでに騒がしく温まり始めていた。
侯爵家からの招待。
ネリたちの訪問が去ったあとの宿のロビーには、かすかに余韻が残っていた。
だが、それもすぐに温かな香りと、カチャカチャと食器の音に包まれていく。
「さて、とりあえず朝食といこうか」
そう口にしたのはシマだった。
皆が頷き、いつものように囲むようにしてテーブルに着く。
ほどなくして運ばれてきた朝食──焼きたての黒パン、香草入りのオムレツ、芋の煮込み、それに暖かなミルクが並ぶ。
食事を始めながら、封ろうの内容を皆で確認した。
「要約すると、二日後、侯爵様とランチを共に──ということのようじゃな」
ヤコブが手紙を丁寧に読み上げると、エイラがテーブルの上に置かれた小箱を開く。中から現れたのは、金貨。
「…30金貨ね」
その額に、一瞬、皆の手が止まった。
「さて、これをどう取る?」
シマが静かに問いかける。空気が少し引き締まった。
「滞在費や、身支度の費用にってことなんじゃないかしら」
エイラが言い、ヤコブがうむと頷く。
「あるいは、少しでも恩を感じてくれたら…と思ってのことかもしれん。そう考えるのが自然じゃの」
「…返礼品は必要か?」
シマの問いに、今度は皆が顔を見合わせた。
「難しいところね」
エイラが言葉を選ぶように続けた。
「わしらは傭兵団、向こうは侯爵家じゃからな。立場が違いすぎる」
「目下の者が、目上の者に物を贈るというのは、下手をすれば失礼にあたる?」
サーシャが補足し、ヤコブもそれを認めるように頷いた。
「でも、あくまで“感謝の気持ち”として贈ればいいんじゃないかな」
ロイドが、前向きに言った。
「そうだな。そうしよう」
シマが言葉を結ぶ。
「……只より高い物はねえ、って言うしな」
皆が笑った。
「問題は服装よね」
リズが小さく呟き、皆の視線が一斉に彼女へと向く。
「正式な招待状って言ってたし、きっとそれなりの格好を求められると思うのよ」
「正装で来いってこと?」
オスカーが眉をひそめる。
「そういうことだと思うわ」
エイラが頷いた。
「正装って……どうすりゃいいんだ?」
クリフが頭をかきながら言うと、自然とエイラとヤコブに皆の目が向く。
「…ワシはこの国の出じゃないからのう、王国の作法まではよう知らん」
「私も、貴族の席に上がった経験なんてないわ。さすがにそこまでは…」
「ノエルなら知ってるんじゃない?」
ケイトが振ると、ノエルは手をぶんぶん振って慌てた。
「む、無理よ! 私は貴族のお屋敷で下働きしてただけ! 」
その時、ミーナが手を打った。
「ねえ、いいこと思いついた! シマの前の世界──その“日本”ってとこの服装にしてみるってのはどう?」
皆がシマを見る。
「その世界の服装って…どんなのなんだ?」
ザックが首を傾げる。
「うーん、いろいろあるけどな。式典用だと、男は黒い細身のスーツに白シャツ、ネクタイ。女はドレスやスーツ、華やかで落ち着いた感じだな」
シマが懐かしむように話すと、皆が一斉に「なるほど」と頷く。
「それ、いいんじゃない?」
サーシャが言った。
「こっちの正装だと、お金もかかるし作法も細かそうだし。その世界の格好なら、自分たちの“型”として通せるかもしれないわね」と言うエイラ。
「しかも、ちょっと異国風な雰囲気があるなら、それもまた印象に残るじゃろう」
ヤコブも楽しげに口を挟む。
「よし、じゃあ前世風の服をベースに皆で揃えよう」
シマが言えば、仲間たちも一斉に笑顔になった。
「仕立ては私がやるわ!」
自信たっぷりにそう言うリズの目は輝いていた。
彼女にとっては誇るべき技術でもあり、家族にできることがあるという実感そのものだった。
「もちろん私たちも手伝うわ」
サーシャが微笑みながら言うと、ケイトやミーナも頷く。
「布の買い出しは、女性陣に任せた方がいいな」
ジトーがふと呟いた。
「じゃあエイラ、布や装飾の買い出し頼めるか?」
シマがエイラに向かって言う。
「ええ、任せて頂戴」
「そうね、あんたたちに任せたら、とんでもない色や柄の布を買ってきそうだし」
ケイトが小さく笑って皮肉を返すと、男たちはぐうの音も出なかった。
「でも、荷物持ちは必要ね」
エイラの言葉に、場の空気がピンと張り詰めた。と同時に、男性陣が一斉に視線を逸らす。
そう――買い物に付き合うというのは、深淵の森での戦闘よりも精神的に過酷である、と彼らは経験から学んでいたのだ。
「そこまで警戒しなくても大丈夫よ。今回は時間も限られてるし、無駄な寄り道はできないわ」
サーシャの言葉が慰めになるかと思いきや、男たちの顔はどこか遠くを見つめたままだ。
そんな空気の中、シマが静かに言い放った。
「……ザックとフレッド、お前らが行け」
「ええっ!? なんで俺たちが!」
「冗談じゃねぇぞ、シマ! 買い物なんて女の仕事だろ!」
当然のように抗議する二人。
しかしその声は、もはや聞き入れられる雰囲気ではなかった。
「少しは役に立ってもらわねえとな」
トーマスがにやりと笑いながら肩をすくめる。
「お前ら、いつも遊び歩いてるしな」
ジトーが冷ややかな目を向ける。
「君たち、今夜もまた娼館に行くんでしょ?」
ロイドの追撃に、ザックとフレッドは当然だとばかりに頷く。
「遊んだ分は働いてもらわねぇとな」
クリフもどこか楽しげに加勢する。
「役に立ててよかったね」とは、オスカーの毒気のない一言。
ザックとフレッドは、完全に包囲されたように肩を落とし、買い出し組に確定となった。
「……ったく、地獄の買い物ツアーだな」
「帰ったら、足が棒になるぞきっと……」
二人は小声で愚痴をこぼしながらも、抗う術を失っていた。
その後、朝食の食器を片付けながらトーマスが提案した。
「なあ、返礼品にオスカーに弓を作ってもらうってのはどうだ?」
「それはいい考えだね」
ロイドが即座に頷く。
「いいな!」
「いいこと言うじゃねえか、トーマス!」
クリフが感心したように言うと、オスカーに皆の視線が集まった。
「オスカー、頼むぞ。お前が制作した弓なら、どこに出しても恥ずかしくねぇ」
シマの言葉に、オスカーはほんの少し照れくさそうに笑った。
「わかった、任せてよ! ちゃんと見栄えも機能も抜群のを仕上げるよ。侯爵家相手でも恥ずかしくないようにね」
皆の顔が自然とほころんだ。
それぞれが自分にできることを考え、動き出す――それがシャイン傭兵団だった。
エイラは帳簿を見直し、素材費や必要な予算を計算し始めた。
ケイトは、どんな布を選べば格式高く見えるか、仕立てに使う色合いや紋様のイメージを頭に浮かべていた。
サーシャとミーナは装飾品や小物についての打ち合わせを始め、メグは「リボンとか、あった方がかわいいよね!」と無邪気に盛り上がる。
こうして、侯爵家との正式な昼食会――そしてそのための準備が、本格的に始まった。
賑やかさが朝の光とともに宿を満たしていく。




