訓練のための訓練
昼も近づいた頃、再び姿を現したのは、あのどこか偉そうな男――ハラワパであった。
鋭い口調でブランゲル侯爵に進言する。
「閣下、そろそろ訓練を終了致します」
ブランゲル侯爵は静かに頷いた。
それだけで場に緊張が走る。
直後、歩兵隊2000名が一糸乱れぬ動きで侯爵の前に整列した。
整列の際の無駄のない動き、各自が心得たように所定の位置につく様子は、確かに噂に違わぬ練度を示していた。
「……シマよ。我が領軍をどう見た?」
侯爵の低く威厳ある声が、整列した兵たちの上を滑るように響く。
その問いに、周囲の兵士たちが一斉にざわめいた。
名もなき傭兵団の一人。
それも、巷間では聞いたこともないような男に、自分たちの精鋭軍について意見を求める。
これは前代未聞のことであった。
兵士たちにとって、この場は誇りの証明であり、名誉の場である。
国内外にその名を知られるブランゲル領軍の誉れを、自分たちは背負っているのだという自負がある。
だがそのざわめきを、ブランゲル侯爵はただ一言で制した。
「……こいつらは俺の客人だ」
威厳のある、しかし決して大きくはないその声に、場の空気が一変する。
まるで空間ごと圧されたように、全兵士が一斉に静まりかえった。
その中で、シマは一歩前に出て、静かに口を開いた。
「……統率もとれています。規律も守られています」
その言葉に、兵士たちは思わず頷く。どこか当然だと言わんばかりに。
(そうだ、俺たちは他とは違う)
(ふん…分かる奴が現れたか)
(ちゃんと見てやがる)
各々がそんな思いを胸に、誇らしげな表情を浮かべる。
その場には、見えぬ誇りの波が押し寄せていた。
しかし、そこに落ちる一滴の水音のような沈黙。
「……ん? …それだけか?」
ブランゲル侯爵の問いかけに、シマは迷いなく答えた。
「それだけです」
その瞬間、再び場がざわつく。
今度は、先程とは異なる色合いのざわめきだった。
(それだけ……だと?)
(まるでそれ以外には見るべきものがないというのか?)
中でも、ハラワパの顔は怒りに染まり、見るからに震えていた。
拳を握りしめ、今にも怒鳴りつけるのではないかという雰囲気を全身から発している。
そんな兵士たちに対し、ブランゲル侯爵はただ一言、静かに告げた。
「静まれ」
その声は決して怒声でも、大声でもなかった。
しかし、まるで雷鳴のように、兵士たち全体に響き渡った。
言葉に込められたのは、将としての確かな威圧と、揺るぎない存在感だった。
その一言で、全てが止まった。
空気、動き、思考――何もかもが、一瞬で凍りつくように。
シマはその瞬間、肌で理解した。
(……なるほど。これが“将”というものか)
ただ一言で全軍を制する力。
威光、威厳、支配力。そのすべてがこの男に備わっている。
この地における“軍”というものの頂点が、いま目の前に立っている。
そして同時に、彼の中に確信が芽生えた。
この将は信頼できる、と。
陽が高くなりつつある空の下、二千の兵が整列するその前で、ブランゲル侯爵は静かに問いを発した。
「……では聞こう。至らぬ点は?」
シマは一拍置いてから答える。
「多々あります。その中でも……『訓練のための訓練』をしていることです」
場の空気が一変した。
兵士たちの間にざわめきが走る。
何を言うかと顔をしかめる者、むっとした表情で睨みつける者、それぞれの反応は様々だった。
しかし、ブランゲル侯爵だけは違った。
その言葉に、心の底で何かが鳴った気がした。
――そこなのだ。
確かに兵士たちは手を抜いていない。
規律は守られているし、連携も取れている。
しかし……それはあくまで「訓練」においての話。
そこには血の臭いも、死の恐怖も、敵を屠る覚悟もない。
十年前、大きな戦乱が終息してからというもの、この地では実戦らしき実戦がなくなった。
それは喜ばしいことではあった。
民は安心し、国土は安定した。
しかし……兵士にとってはどうだったか。
実戦を知らずに育った新兵、死線を越えてきた古兵の引退、そして何より、緊張感を失わせる平穏な日々。
剣を握る手は日に日に柔らかくなり、殺意のこもらない訓練の刃は鋭さを失っていった。
ブランゲル侯爵自身、理解していた。
だがそれをどう打破すべきか、長らく悩んでいたのだ。
「閣下! こやつらに軍の何がわかるというのです!」
怒声が響いた。副団長ハラワパが声を張り上げたのだ。
彼はかつてブランゲル侯爵とともに数多の戦場を駆け抜けた古参兵だった。
生死の境を共に越え、幾度も死地を切り抜けてきた猛者である。
だが、今は違った。
城塞都市カシウムの副団長という地位を得、権威に守られ、整った訓練場で日々を過ごす。
肉体は今でも見事に鍛え上げられている。
だが、目にはあの頃の必死さがない。
剣にはかつての殺意が宿っていない。
(……かかった)
ブランゲル侯爵はそう思った。
ハラワパもまた、気づかぬうちに変わっていたのだ。
死地を踏み越えてきたかつての自分を忘れ、地位の上昇と共に兵を見下すようになり、下の者たちとの間に無意識の壁を作ってしまっている。
侯爵は、あの頃のハラワパを思い出してほしかった。
地べたを這い、血にまみれ、泥を喰いながらも歯を食いしばって進んだ、あの闘志を。
けれど、それは言葉で伝えたところで響かない。
今のハラワパには、自分の安全が確保された場所からの怒声しか出せない。
兵たちにも伝播していた。士気は指揮官から始まる。
冷たく整った顔をしている若い兵士たち、その多くが実戦の地獄を知らない。
目の奥にあるべき『覚悟』が見えない。
そんな中でのシマの言葉は、ブランゲル侯爵の胸を突いた。
「……訓練のための訓練か」
侯爵は誰にともなく呟く。
かつては違った。
訓練とは、生きるため、死なぬためにあった。
仲間を殺させぬために、自らを殺させぬために、命を懸けて身につける技だった。
だが今の訓練は、安全な訓練場で、誰も傷つかぬように工夫され、刃を潰した鈍い金属音だけが虚しく響いていた。
ハラワパはなおも食ってかかろうとする。
だが、その前にブランゲル侯爵の威圧が降りかかる。
音が、止まった。誰もが息を呑み、侯爵の言葉を待った。
そして、ブランゲル侯爵は静かに口を開いた。
「訓練は終わりだ。本日をもって、今までの訓練体系は一旦見直す」
兵たちが一斉に顔を上げる。ハラワパも目を見開いた。
「戦いはいつでも始まる。敵が来てから準備を始めては遅い。次の訓練からは“実戦”を意識して動け。……貴様らにそれができるならな」
その言葉に、兵士たちの背筋が伸びた。
「ネリ、シャイン傭兵団を城に案内しろ」
ブランゲル侯爵がそう命じると、彼は躊躇なく馬車へと乗り込んだ。
昼下がりの陽が傾きかける中、その背に揺るぎのない風格が宿る。
「ハッ! 承知いたしました」
侯爵の側近の一人、ネリ・シュミッツが応じ、すぐさまシャイン傭兵団へと向き直る。
「シャイン傭兵団の皆様、ご案内いたします」
涼やかな声とともに身を翻し、しなやかな足取りで歩き出すネリ。
その背を、シマを先頭にした傭兵団が無言でついていく。
一方、練兵場に残されたハラワパは、鬼のような形相でシマたちの背を睨みつけていた。
怒りとも、嫉妬ともつかぬその眼差しは、燃え盛る業火のようにギラついている。
だが、その視線に反応した者が二人いた。
ザックとフレッド。
死線を幾度も経験してきた彼らが、無言のままハラワパに対して“本物の殺気”を当てた。
ゾクゥッ……!
まるで背筋を氷の刃がなぞるような感覚。
全身の毛が逆立ち、呼吸が詰まる。
怒りで真っ赤だった顔が、見る間に青ざめていく。
鼻で笑うように「フン」と音を立てるザックとフレッド。
「ほどほどにしときなさいよ」
冷静な声でそう言ったのはリズ。
彼女の言葉に、ザックもフレッドも肩をすくめて背を向ける。
「少しはいい薬になったろ」
そう呟いたのはクリフだった。
彼の言葉に誰も反論はしない。
そしてシャイン傭兵団一行は、重厚な石造りの城門をくぐり、カシウム城内へと足を踏み入れた。
広い回廊、磨き抜かれた石床、重厚なタペストリーが下がる壁、静寂の中にどこか威厳と歴史を感じさせる空間。
城内を進むネリの背に従いながら、各々が無言のまま周囲を見渡す。
リズは壁に掛けられた古の戦の絵画に目を留め、オスカーはその細工に感心したように小さく声をあげる。
シャイン傭兵団は静かに歩を進めつつも、警戒を解かぬ目をしており、いつも通り気楽そうに見えるが手は腰の武器に添えられている。
そしてシマは、どこか深く思案するような表情でネリの案内を受けていた。
こうして、シャイン傭兵団はついにカシウム城内へと通されたのであった。




