最高の遊び場
金網で囲まれたリング。
場内の空気は、まるで雷を待つ嵐の前の静けさのように張り詰めていた。
観客たちのざわめきが、徐々に興奮と狂気に変わっていく。
リングの中央に立つザック。
その巨体は優に二メートルを超え、金網の囲いの中では、さらに一段と大きく見えた。
筋骨隆々としたその体躯は、まるで鉄でできた巨人のよう。
だが、彼の瞳は冷静そのものだった。
ザックの周囲にはすでに四人の男が取り囲んでいた。
短槍を持つ細身の男、剣を携えた中肉中背の男、剣と盾を装備した屈強な戦士、そして両手に手斧を握った狂気を宿したような目の男。
彼らの表情には、勝利の確信というよりは、異物を排除せんとする凶気の色があった。
ザックの鼻がわずかにひくつく。
目を細め、相手たちの武器に視線を走らせる。
刃先がわずかに濡れていた。
「……毒か。まあ、かすらせなければ問題ねぇ」
そんな呟きは、彼の中で戦闘開始の合図のようなものだった。
リング外に立つ審判風の男が、短く、そして冷たく叫ぶ。
「始め!」
その瞬間だった。
まさかこの巨体が、目にも止まらぬ速さで動くとは――誰が想像しただろう。
ザックは一瞬で短槍の男との間合いを詰めた。
躊躇も、合図もいらない。
呼吸するように、当たり前に繰り出した前蹴りが、槍を構えようとした男の顔面を直撃する。
顔の骨が潰れる音と共に、男の身体は無抵抗のまま金網に激突し地面に崩れ落ちた。
場内が、一瞬、静まる。
観客の一部が息を呑む音すら聞こえるようだった。
だが、ザックは止まらない。
次に向かったのは、剣と盾を持つ男だった。
男は必死に盾を構え、剣を振り上げるが――
「……遅い」
ザックの右足が唸りを上げて唸る。
ハイキックが男の首を的確にとらえた。
ゴギッという不快な音と共に、男の身体が金網へと吹き飛ぶ。
瞳が白く反転したまま、男は動かなくなった。
次の瞬間、剣を持つ男が突進してくる。
怒りと焦りからか、勢い任せの攻撃だった。
「雑すぎる」
ザックは身をひねり、男の剣をかわす。
すれ違いざまに、剣を握る腕をがっちりと掴むと、もう片方の手で男の頭を鷲掴みにした。
そして――「おらっ!」
地面に叩きつける。
リングの床が揺れたように錯覚するほどの衝撃。
男の意識は、その一撃で完全に飛んだ。
最後に残ったのは、手斧の男。
顔を紅潮させ、目を見開いて半狂乱となりながら斧をザックに投げつける。
だが、その斧はザックの遥か横を通り過ぎ、鉄格子にガシャリと突き刺さる。
「終わりだ」
ザックはゆっくりと拳を構えた。
そして、大木のような右腕から繰り出されたストレート。
狙いは、顔面。ただ一撃。
「……ッガァッ!!」
骨の砕ける音と共に、手斧の男が吹き飛んだ。
身体が空中で二回転し、床を転がる。動かない。
一瞬の静寂の後、歓声が、爆発した。
観客たちは怒号のような歓喜に包まれ、金網を叩いてわめき叫ぶ。
闘技場の空気は熱狂に染まり、その中心には、冷静に息を整えるザックの姿があった。
リングの外からそれを見つめるフレッドは、にやりと笑って呟いた。
「さすがだぜ、ザック……これで今夜は豪遊だな…ククッ…」
手元の賭金「2K」。つまり20金貨分の勝利金。
ヤコブの娼館代どころか、全員分払ってもまだお釣りがくる。
一方ヤコブは、放心したような顔で金網の中の光景を見つめていた。
「な、なんじゃ今のは……人間の動きじゃなかったぞ……」
ザックの戦いぶり。それは“傭兵”という言葉から想像する域を大きく超えていた。
まるで、戦場で生まれ、戦いの中で育った“怪物”そのもの。
そして――これがシャイン傭兵団の実力なのだ、と嫌でも思い知らされたのであった。
金網の扉が開き、ザックが無言でゆっくりとテーブル席に戻ってくる。
その巨体が歩くたび、場内のざわめきがまた少しずつよみがえる。
彼が足を止め、チョビ髭――この興行の運営者と思しき小男の前に無言で手を差し出すと、周囲の空気が一層張り詰めた。
チョビ髭の顔色は土気色に変わっていた。
目は泳ぎ、口は乾ききって震えている。
だが、ザックの無言の圧力に逆らえる者などこの場にはいない。
震える手で、腰に巻いた布袋から10枚の金貨を取り出し、ザックの掌に乗せた。
チャリ、チャリ……と、金貨の澄んだ音がザックの掌の上に落ちる。
「……にやぁぁ……」
ザックが満足げに笑う。
その口元はまるで口裂け女のように耳元まで裂けそうな勢いで、にやりと弧を描いた。
「ヒィッ!!」
その笑みを見たチョビ髭は、悲鳴を上げてソファから転げ落ちた。
ズザッと床に這いつくばるように倒れ、そのまま体を小さく丸めて震えている。
「うははははは!!」
隣でフレッドが換金を終えて戻ってくる。
勝利金に満足し、腹の底から出したような馬鹿笑いを響かせる。
「これで今夜は選び放題だなぁ!わはははっ!」
ザックは悠々とソファに腰を下ろし、テーブルの上に置かれた酒瓶を手に取ると、ラッパ飲みで喉に流し込んだ。
「ここは最高だな!」
「おう、まったくだぜ!」
酒を煽りながらフレッドが同意する。
金も手に入り、次の楽しみもある――彼らにとって、これ以上の“遊び場”はなかった。
「さて……チョビ髭、次は俺の番だ。俺の相手を用意しろよ」
テーブルの向こう側で床に伏したままのチョビ髭に、フレッドが声をかける。
ザックが空になったグラスを置きながら口を開く。
「フレッド、気をつけろよ。あいつらの武器、刃先が濡れてた。毒が塗ってあるかもしれねえ」
それを聞いて、フレッドは眉ひとつ動かさずに言った。
「へえ、やるじゃねぇか。勝つために手段を選ばねぇってのは気に入ったぜ。」
「俺たちに通じるもんがあるな」
そのやり取りを見ていたヤコブは、ソファの端で半ば放心していた。
目の前で繰り広げられる会話は、常識的な戦いの枠を遥かに超えている。
(……な、なんじゃこの者たちは……!?)
傍らに控えていたチョビ髭の護衛たちでさえ、ザックとフレッドの存在に言葉を失っている。
誰ひとり、彼らとまともに目を合わせようともしない。
やがて、チョビ髭が恐る恐る立ち上がり、震えた声で言った。
「……ま、待ってくれ……いや、待ってください、フレッドさん……?。も、もう選手が残っておりません……。きょ、今日はこの辺でどうか……」
その哀願に、フレッドはゆっくりと眉をひそめた。
「……昨日も同じこと言ってなかったか?」
その一言で、場の空気が凍りつく。
チョビ髭の顔からは血の気が引き、何かを悟ったように頭を下げた。
「段取りが悪りぃなお前ら」
ザックの声も低く響いた。
「す、す、すみません!ま、まことに申し訳ありません!」
チョビ髭は完全に平伏し、額を床に擦りつけるようにして謝るしかなかった。
フレッドが立ち上がり、肩をすくめながら言う。
「しゃーねぇ、今日はこれで勘弁してやるよ。」
グイッとチョビ髭の襟を掴み、顔を近づけて低く告げる。
「明日はちゃんと用意しとけよ?」
「は、はぃぃぃ……!」
チョビ髭は顔を真っ青にしながら必死に何度も頭を下げた。
その背を尻目に、ザックとフレッド、そしてその後をヨタヨタとついていくヤコブの三人は、闘技場を後にした。
薄暗い倉庫街の通りを歩きながら、チョビ髭が震える声で呟く。
「じょ、冗談じゃねえ……あいつら、マジで地下興行を潰す気か……」
まるで、災厄が通り過ぎていった後のような、静かな夜が訪れようとしていた。
夜の街に提灯が灯りはじめ、人々のざわめきが小道を賑わせる中、フレッド、ザック、ヤコブの三人は、まるで戦勝後の兵士のように意気揚々と歩いていた。
地下闘技場で得た勝利と報酬の興奮は、彼らの足取りを軽くした。
ヤコブも先ほどまでの緊張や混乱はすっかりどこかへと吹き飛んでいた。
「俺よお…」とフレッドが不意に口を開く。
「今日は二人、指名しようかと思ってんだよな」
その言葉にザックが一瞬目を丸くし、すぐに感嘆の声をあげる。
「お、お前…天才じゃね!?」
「そうだろう!」
フレッドは自信満々に胸を張る。
「何たって今日は稼いだしな。ちょっとぐらいパーッと使ったって罰は当たらねえだろ?」
「そうだな!爺さんも二人指名していいぞ!」
ザックが肩を叩いて振り向くと、ヤコブは一瞬驚いたように目を見開いたが、すぐに喜色満面の笑みを浮かべた。
「おお? いいのか?」
目を輝かせるヤコブ。
どこか少年のような無邪気さと、年輪を重ねた男の色気が入り混じった表情だった。
「爺さんも久々なんだろ?」
フレッドが言う。
「今日は思いっきりハッスルしちゃえよ!」
「二人相手か! いいのう、まったくもって夢のようじゃ!」
ヤコブは感慨深げに頷く。
三人は自然と肩を組み、笑い声を上げながら夜の通りを進んでいく。
鈍い色のオレンジの街灯が照らす石畳の道、どこか甘く香る風。
娼館の灯りが近づくにつれ、その足取りはますます軽やかになる。
金貨の音がポケットで踊り、心の中ではそれぞれが思い描く夢の一夜に胸を膨らませていた。
「よし、選ぶぞ~!」
フレッドが先頭で拳を突き上げる。
「今夜は忘れられねえ夜にしてやる!」
「おうとも!」
ザックが叫び返す。
「ふふっ…これも人生の彩りじゃな」
ヤコブが嬉しそうに呟いた。
こうして三人は、戦いと欲望に満ちた一夜を締めくくるべく、真っ直ぐに娼館へと歩みを進めていったのだった。




