変人
役所を後にしたシマは、まっすぐ商店通りへと向かい、手頃な瓶入りの酒を一本買った。
上等な品ではないが、初対面の人間に手ぶらで会うのも失礼だと思ったからだ。
門を出ると、世界が一変した。
城壁の中では整然としていた通りも、ここではまるで別の国のようだった。
テント、あばら屋、崩れかけた板張りの小屋が、乱雑に並び、風に煽られた布がパタパタと音を立てていた。獣の皮を干す者、釜の煙を上げる者、何を売っているのかも分からない露店が無秩序に道の端に広がっている。
「おい兄ちゃん、何か買ってけ!」
「珍しい石はいらねぇかい!」
呼び込みの声が飛び交い、目を合わせるとあれよあれよという間に引きずり込まれそうになる。
シマはそれらをやんわりとかわしながら、焼き場の煙が立ち上る一角に目を止めた。
鉄板の上で何かの肉がじゅうじゅうと焼けていた。
香ばしい匂いが空腹を刺激する。焼き手の中年男に声をかける。
「その串焼きを一本、もらえるか?」
「あいよ、熱いから気をつけな」
男は木の皿に串を一本置いて渡してくる。
茶色く焼き色のついた肉は、どの部位なのか見分けがつかない。
口に運ぶと、塩と煙の味が強く、肉の繊維が歯にまとわりついた。
「……肉の味しかしないな」
「それ以外に何の味がすんだよ」
男は大笑いする。
串をもぐもぐと噛みながら、シマはふと思い出して、男に尋ねた。
「“変人”と呼ばれている人で……このあたりにいると聞いたんだが」
「ヤコブか? ああ、知ってるさ。あっちの端の方、木と石積みで囲った小屋に住んでる。近づくなって言うやつもいるが、まァ悪いやつじゃねぇよ。ちょっと変わってるだけでな」
「ありがとうよ」
もう一本串を買い、懐の酒とともに抱えて礼を言うと、シマは再び歩き出した。
小屋は丘の斜面にあった。風が吹き抜けるような場所で、他の小屋からぽつりと離れて立っている。
確かに、変人と呼ばれるにはちょうどいい距離感だった。
近づいてみると、小屋の外には大小さまざまな板が立て掛けられ、何やら記号のようなものが描かれていた。
どこかの地図のようにも見える。
わら半紙に描かれた謎の図表が、風に揺れてバタついている。
「……変人、ね」
シマは小屋の前で立ち止まり、扉を軽く叩いた。
返事はない。
もう一度叩いてみると、今度は中からぎい、と古びた木の音がして、扉がわずかに開いた。
現れたのは、長髪で痩せぎすの初老。
髭は手入れされずに伸び放題、しかしその目だけは異様なほど澄んでいた。
鋭さと静けさを併せ持つような眼差しだった。
「なんだ、若いの。本でも売りにきたのか?」
「いや。あんたに話を聞きたくて来た」
「話? 誰かに頼まれたのか?」
「いや、自分の意思だ」
シマは酒瓶と串焼きを差し出す。
「突然訪ねてきたからな。お詫びというか、手土産だ」
老人はじっとそれを見ていたが、ふっと鼻で笑った。
「変わった客だ。中に入れ」
扉を開けると、思ったよりも整頓された室内があった。
粗末ではあるが、本や紙が山のように積まれており、机には奇妙な道具が並んでいる。
火を使った小さな蒸留器、ガラス瓶、分厚い本。明らかに“学び”の匂いがする空間だった。
「座れ。酒と食い物はありがたくもらう。」
酒瓶の栓を開けて器に注ぎ、シマと老人は小さな卓を挟んで向かい合った。
「で? お前さん、名前は?」
「シマだ。あんたがヤコブ?」
「そう呼ばれてる。で、何を知りたい?」
「この世界のこと。成り立ちや、戦争の理由、大陸の歴史や流通の仕組み……知識が欲しい」
ヤコブはしばし黙り込んだ。ゆっくりと酒を一口飲み、目を細める。
「そんなものを知って、どうするつもりだ」
「知らなければ、何も選べねえだろ?」
しばらく沈黙が続いた後、ヤコブは小さく笑った。
「……悪くない答えだ。よし、じゃあ話してやるさ。何が聞きたい?」
外では風が強くなり、紙の端がめくれて飛ばされた。
シマの冒険は、新たな局面に足を踏み入れようとしていた。
シマはヤコブの顔をじっと見つめた。
どこか引っかかっていた、ここへ来てからずっと、彼の存在が異質に感じられていた。
その理由に、今やっと確信が持てた。
「……その前にあんたは、この国……いや、この大陸の人間じゃないな?」
ヤコブの目がすうっと細くなった。酒に触れていない方の手が、膝の上でじわりと力をこめる。
「……なぜそう思う?」
「小屋の外にあったあの板や紙、記号みたいなもの。あれ、漢字だろ?」
その一言で、ヤコブの表情が一変した。
椅子の背もたれから体を起こし、目を見開いたままシマを凝視する。
「シマ……といったな。お前さん、アレが読めるのか?」
シマは黙って頷いた。
ヤコブはゆっくりと、まるで夢でも見ているかのような仕草で、頭を抱えた。
「何十年ぶりじゃ……こんな風に話が通じる相手に会うのは。ずっと……ただの落書きとしか思われなかった。狂ったと思われてな……!」
シマは落ち着いた声で言う。
「じゃあ次の質問。小屋の外にあった、わら半紙に描かれた謎の図、あれも見た。……世界地図、だろ?」
沈黙。
ヤコブは口元をひくつかせ、そしてこらえきれずに笑い出した。
口を押さえてもなお笑いが漏れ、ついには腹を抱えて机を叩いた。
「そうじゃ! そうなんじゃよ、シマ! あれは世界地図なんじゃ。いやぁ、信じられん……この地に来て以来、初めて理解した者がおるとはな……!」
しばらく笑い、肩を落ち着けたヤコブは、ゆっくりと酒を一口すすり、深く息を吐いた。
「……そうじゃよ。ワシはこの大陸の者ではない。遥か西方より、風と波に翻弄されながら流れ着いた旅人……否、難民のようなもんじゃな」
「どこの国の出身なんだ?」
「エル・カンターレ国。……聞いたことはあるまい。遥か彼方の大陸、遥かなる西方に浮かぶ列島国家じゃ」
ヤコブの語る声には、懐かしさと哀愁が入り混じっていた。
目を伏せ、指先で器の縁をなぞるようにしながら、静かに続ける。
「もう三十年になるかのう……嵐に襲われて船が難破し、生き残ったのはワシ一人だけ。帆も舵も失った船で、気づけばこの大陸に流れ着いていた。言葉は通じず、身振り手振りでなんとか食い繋ぎ、ようやく身を落ち着けたのがここ、アンヘル王国……このカシウムじゃ」
「それまでに……他の国も回ったのか?」
「ああ、ワシが流れ着いた海岸はゼルヴァリア軍閥国の沿岸だった。あそこは傭兵ばかりの国でな、ちょっとワシには合わん。次に逃げ込んだのがノルダラン連邦共和国。あそこは商人の国じゃ。商売は盛んだな、じゃがワシは商売などしたこともない、伝手もない、知識はあるんじゃが理解されなんだ。孤独のまま数年を過ごし、ようやくこのアンヘル王国に来たというわけじゃ」
「それで……ここで“変人”になったのか」
「ははっ、まったくその通りじゃよ。知識を語れば胡散臭いと思われ、異国の図を描けば呪いかと騒がれ、まともに話せる者など一人もおらんかった。だからワシは、ただ書き残した。それだけじゃ」
「なあ、ヤコブ。……あんた、エル・カンターレじゃ何の仕事してたんだ?」
ヤコブは少し目を細め、器を傾けると、一拍おいて笑みを浮かべた。
「学者じゃよ。……もっとも、国の中でも変わり者扱いされておったがな」
「変わり者、か」
「自分の目で見たことしか信じない。そんな偏屈者と呼ばれておった。記録より現場、理論より実戦、実感じゃと叫んでな。周囲からは扱いにくい男とされておったよ」
シマは笑いながら肩をすくめた。
「今と変わんねえじゃねえか」
「そうじゃのう。……人間、そう簡単に変われるもんでもない」
ヤコブは少しばかり照れたように笑いながらも、その笑みの奥にはどこか寂しげなものが混ざっていた。
ふと、シマは目線を落とし、静かに問いかける。
「……帰りたくはないのか?」
その言葉に、ヤコブの手が止まった。
酒器を持ったまま、しばし無言になる。
窓の外を眺めるように視線を上げたが、そこには異国の夕日しかなかった。
「……今さら帰っても、のう。何があるというんじゃ。家族も、仲間も、すでに……この三十年の間にどうなったかもわからん。ワシを覚えておる者など、もうおらんじゃろう」
彼の声は静かで、しかしその一語一語には歳月の重みがのしかかっていた。
「それでも、あんたの知識は、あんたの言葉は、きっと誰かの役に立つ。……このまま朽ち果ててくのか?」
シマの問いは真っ直ぐだった。若さゆえの無鉄砲ではなく、確かな意思と情熱がそこにはあった。
「……俺たちのところに来ねえか?」
ヤコブは酒を置き、ゆっくりと腕を組む。
しばし沈黙のあと、目の奥が鋭く光った。
先ほどまでの穏やかで枯れた表情とは違い、どこか試すような、鋭い光がそこには宿っていた。
「……ほう。お前さん、ワシに何を見せてくれるんじゃ?」
その問いは、ただの返答ではなかった。
問いかけであり、挑戦でもあり、そして心の奥に潜む願い――もう一度、誰かのために立ち上がりたいという、密かな希望がにじんでいた。




