禁断の果実 〜 キャパリ王立生物研究所
ハヤン教皇率いるランケース教のテロリズムは、ウェリアン国内を揺るがす大事件となった。多数の武装信者による財務大臣公邸侵入されてしばらくした頃には、鼓膜を突き破らんばかりの爆音が一体に響き、公邸は黒煙を上げていた。ランケース教の信者たちは自爆覚悟の攻撃をウェリアン政府に仕掛けたのである。公邸内には睡眠薬を服薬した上で就寝している財務大臣がいる、という絶体絶命の状態であったが、優秀な護衛部隊の活躍もあって、辛くも大臣は脱出に成功。暗殺はすんでのところで防ぐことができたのであった。とはいえ、国家に衝撃を与えるという意味では大きな成果となってしまった。これによる陽動が国民に起きないよう、あるいはこれをエスカラン王国に悪用されないようにとウェリアン政府はテロリズム発生を内密にしようと画策した。しかし、発生した場所が首都であったこともあり、爆発の目撃者は多数いた。戦闘中には射撃音が町中に響いたため、噂を食い止めることはとてもできず、あっという間にその事実は世間の知られるところとなってしまった。
ところで、本事件の黒幕であったハヤン教皇は事件発生の翌日に逃亡中の車内を抑えられ逮捕、即刻死刑が宣告され、激しい尋問の末に処刑された。また、ハヤン教皇にテロリズムを促したエスカラン王国スパイのマーシュレンは、ウェリアン国内にある湖で溺死体で発見。その真実は闇へと葬られた。
内部における紛争を使って進行しようと考えたエスカランの思惑は中途半端な結果となって終わり、また新たな突破口を模索することとなった。それはウェリアンも同じで、相変わらず中洲地帯の睨み合いを打破する術を見つけられずにいた。そんな時、エスカラン国内にいるウェリアンのスパイから情報が入った。エスカランにある生物研究所が人間を蘇生する薬品の開発に成功した、という報告であった。俄かに信じがたい御伽話のような情報である。軍部ではこの情報の真偽について甲論乙駁となっていた。信用派は全体の二割、懐疑派が八割ということで、多数決的には当然怪しい情報な訳であるが、この二割という人数は決して少なくはない。その上、信用派には特殊作戦班を束ねる将校が比較的多くいたため、人数だけを理由に一蹴することができなかった。
彼らの考えが急にまとまったのは、その情報が入ってから三週間ほどが経過した時だった。ワンドル合衆国の軍部より、この噂に関する情報が入ってきた。ワンドル合衆国の複数の同盟国、そして自国のスパイからも蘇生薬が実現したという話が集まってきているのだという。しかし、その実際の作用や構造などに関しては最高機密として扱われており、どこも掴めていない状態だという。唯一手に入れた情報が、その研究が執り行われていたのがキャパリ王立生物研究所である、という情報であった。
キャパリ王立生物研究所の存在を知っている市民はさほど多くない。エスカラン国立・王立の研究所のほとんどは、大学を除けば首都近郊にあるアモーリスという地域に存在している。研究都市といえばこの辺りのことを意味しており、国内で二番手の総合大学もアモーリスに所在している。しかし、キャパリ研究所はその名の通りキャパリにある。キャパリはエスカラン王国東南部の端にある広原地帯である。海に囲まれた半島地域で、周囲に街や軍施設などはない。周辺の海は晴れている日でも波が非常に高く、岸壁が立ちはだかる。広原部分も背が低い雑草が生えているが、芝生と呼ぶには茶色すぎるので見栄えは良くない。このように素敵な田舎をイメージさせる場所でもない。加えて土壌も悪いので農業には全く向いておらず、人が誰も住まなくなるのも納得の地域である。その広原の真ん中に、降り立ったUFOのような円形の巨大施設が鎮座する。その広さは七ヘクタールほどあり、周囲数十メートルは高いフェンスと有刺鉄線で囲まれ、入り口には高度なセキュリティと軍人数名が常在している。建物の中に入ると、前面が真っ白な壁と大きなガラス窓で囲われていて近未来感がある。そして幾人の研究者が歩き回っている。建物は地上三階、地下六階という深い作りになっていて、その最深部近くではバイオセーフティレベル四の危険があるウイルスなどを使用した研究も行われている。
そんなキャパリ研究所に三年前に赴任した男がポリトリオ・サンバスである。サンバスはつい数年前までアモーリスの非常に優秀な学生であった。幼少期から化学に大きな興味があり、大学も化学関連の学科に入ったが、そこで菌やウイルス等の働きを化学の視点から研究する授業を受けた際に感銘を受け、研究室に配属。研究を始めて僅か三年にして論文八本が科学雑誌に掲載されるという快挙を挙げ、特例として学位を取得。そのまま研究職に就き、キャパリ研究所へとやってきた。その頃、エスカランはウェリアンと戦争を起こすことを既に予定していたため、生物兵器の開発を含めた研究を進めることを各大学及び研究所に根回しをしていた。サンバスの耳にもその方針に関する話は研究所の管理職から回っていた。自らのルーツには、比較的近い人間が海外出身であったこともあり、エスカランへの強い愛着などがある訳ではなかった。生物兵器にも大きな興味がある訳ではなかったが、潤沢な資産や人材の下でやりたい研究ができるのであれば、それ以上に美味しい話はなかった。幸い、自らの研究している分野は使い方によってはいくらでも兵器に転換することが可能である。若くして成功を収めたサンバスにはエスカラン政府から惜しみない援助がなされた。そのような中で、同時進行していた研究のうちの一つが兵器として活用される、という話題になったのである。その物質は菌の一種であり、サンバスらはサンバス自身の名前から付けられた研究名である「プロジェクトSから作られた菌」の略としてPS菌と呼んだ。PS菌の元となった菌は南方の国にある広葉樹の一種に存在している菌である。通常、寒冷な地域に自生する樹木はほとんどが針葉樹であるが、その地域は年間を通して極めて気温が低いにも関わらず、珍しく広葉樹が非常に密集して大量に生えている。多くの学者は「寒冷地域では広葉樹が全く存在しない、という訳ではない」とし、気に留めなかった。稀に研究を掘り下げる者もいたが、その原因を特定するには至らなかった。ところが数年前にこの樹木に特有の菌がいることが発覚し、発見者の名前からマファモス菌と名付けられた。これが広葉樹の存在になんらかの関係がありそうだ、とはされているものの、その実態を掴んだ者はいなかった。サンバスはマファモス菌の特性を明らかにすることを目的として、大学時代に研究をしていた。彼が出した論文のうち二つは、このマファモス菌に関する研究の論文である。マファモス菌はネズミ以上の大きさがある動物に対しては少なくとも明確に意味がある作用をもたらすことはない。仮に経口接種をしても即座に胃液で消化されるか、あるいはその体温で生き続けることができない。そもそも元の環境が厳しい寒冷状態であるため、構造がそのような環境に適したようになっている。しかし、温暖な状態であっても、植物に対してであれば、特定の条件を与えることで作用を示すことがある。サンバスが実際に行った、その作用を顕著に示した実験として、次のようなものが知られている。細身の木を切り倒す。その切り株に特殊な手法を用いてマファモス菌を定住させる。その上に切り離された株の一部を載せる。すると切り離された株は一体化する。そしてそのまま成長をして伸びていく。これと似た現象としては接木がほとんど一緒であり、果樹に関する農業や観葉樹などの場面で頻繁に用いられるごく一般的な現象である。しかし、マファモス菌を用いてこの操作をすることにより、一つ一つの現象が完了するまでの時間が大きく短縮される。例えば、接木の癒合は概ね三日かかるが、この実験における株の癒合は僅か一時間程度で完了する。また、その後の成長も通常の二十倍程度の速さで進んでいき、元の木と同じ大きさになるところまで成長する。この作用を活用すれば接木がより短時間で終わる夢の菌である。しかし、当然ながら全てが理想の現象という訳ではない。まず、接合後の木の成長は元の状態までが限度である。加えてその時点までの成長を遂げた木は即座に枯れ、根を残して倒れてしまう。マファモス菌が発見された樹木は、この性質をうまく利用して成長と淘汰を続けていて、菌の影響を受けない根の範囲が大きいため、そこから再び伸び始めることができる。しかし、他の樹木は根のほとんど全体まで菌の影響を受けてしまうようで、全体が枯れてしまうため、通常の農業に活用することは、少なくともマファモス菌オリジナル状態では不可能であった。サンバスの研究はマファモス菌の生態を明らかにしていくことと、活用できるようにする品種改良であった。
サンバスは研究によって、早い成長や接木の癒合が起こる仕組みを明らかにした。マファモス菌は植物の成長細胞を作り出す器官に強い刺激を与え、一気に必要な細胞を作らせる。もちろん、その時には十分な栄養などが必要である。そしてサンバスはいくつかある研究テーマの一つで、この機能を植物のみならず、動物にも使える可能性があるのではないか、と仮説を立てた。菌の品種改良のほかに、生物の細胞活性に必要な栄養素などを添加する、マファモス菌が安定する薬品を添加する、などの試行錯誤を重ねていった。同時進行していたマファモス菌の接木や農業への活用に関する研究よりも動物活用の研究は順調に進み、遂に完成したのがPS菌だった。怪我などを負った動物に対し、その傷口にPS菌を塗布する。すると、その部分の細胞が急速に増えて元の形状に収まるまで修復が進む。かなりの大きな怪我にも対応しており、筋肉に到達するほどの刺し傷などでも修復することができる。また、PS菌自体が修復する訳ではなく、あくまでもその箇所の細胞が増えているだけであるため、皮膚、筋肉、骨、消化器、循環器、脳に至るまでその修復箇所を選ばない。この作用はすでに猿による動物実験で成功を収めており、まさに夢の回復薬である。しかし、接木のように完全に分断された身体パーツをくっつけることはできない。また、マファモス菌としての弱みは改善されていない。修復が完了してから一定時間が過ぎたところで、自滅作用が発生する。実は動物転用より前の段階で、マファモス菌の自滅作用はある程度軽減されており、植物に対しては、接合部より先は枯れるが、栄養を受け取る根側はほとんど枯れないようになった。その改良型マファモス菌を使って研究していたためかは定かではないが、自滅作用は傷口部分が少々広がるまでに収まる。とはいえこの弱点は現実的な医療目的の使用が憚られることになる。軍事目的での使用として検討された例として銃創に対する利用がある。猿が負った銃創にPS菌を接種させる実験では、傷は数十秒程度で動けるまでの回復が確認された。しかし、三十分程度で自滅作用が明らかになり、かえって傷口がより大きく開くこととなった。また、一度接種を受けた個体は、自滅作用発生前であっても、二度目に負った銃創に対する回復作用は認められなかった。二度目の回復作用が出るには、最低でも三日程度空ける必要があることが確認されている。これらの特徴により、応急措置としての利用も、まだ難しい段階である。
ところが、この成果物PS菌の噂を聞きつけたパリヤ大佐は、自らが率いる特殊作戦班でどうにか使おうと考えた。政府を通した正規の手段による使用要請は高確率で却下されると踏んだパリヤ大佐は、サンバスに直談判という名の脅迫行為を行うことにした。ある日、何も言わずに作戦班数人を引き連れてキャパリ研究所へ向かった。そして大佐という立場を使って簡単にサンバスのいる研究室に乗り込んだ。パリヤ大佐はPS菌を使用した回復薬の使用を、自らの班で実行することを要請した。パリヤは最終的には実力行使、という時点まで考慮に入れていたが、意外にもサンバスはすんなりと了承し、使用に対して前向きな相談を始めた。パリヤ大佐もこのチャンスを逃してはならないと、他の軍部はじめ国家機関にはこの流れを伝えないようにした。さらにパリヤ大佐が回せる予算の一部をサンバスに回すことを約束した。斯くしてサンバスの研究速度はさらに勢いを増し、さらに実証実験の権利も実質得たこととなった。
しかしながら、これらの内容の一部を耳にしたサンバスにさほど関係ない研究者は数人いて、そこがきっかけでじわじわと噂が回り、そうして各国のスパイへと情報流れる結果となった。
話はウェリアン軍に戻る。信用派のヴィルン大佐率いる特殊作戦班は半ば強引な形ではあったものの、一応は政府からの許可を得た形でキャパリ王立生物研究所へ乗りこむことを決め、PS菌の収集を最終目標として出発した。海岸の外側を飛行する形で上空からの乗り込みをすることに決定し、ついに作戦は決行された。
キャパリ研究所は利益の独占を目論むパリヤ班が軍部に掛け合って、ほぼ独占的に護衛をしていた。しかし、大々的な襲撃の危険性までは考えておらず、対空砲などの大型兵器は準備されていなかった。そもそもパリヤによる独占護衛はウェリアンよりも、むしろエスカラン軍の他の班に横槍を入れられないための駐屯であった。そのため、キャパリ研究所にも二、三人の軍人はいたが、ほとんどの部隊員は少し離れた場所に駐屯地を構え、数十人程度で訓練をしながら待機をしていた。そのような中で急に上空からウェリアン軍ヴィルン作戦班が襲撃してきた。僅かな守衛はあっという間に制圧され、ヴィルン班は侵入に成功。あらかじめ仕入れていた情報からサンバス研究室へ侵攻した。その間に警告を出し、研究者たちのほとんどを即座に研究所を追い出した。研究室に到着すると、サンバスはじめ数人の研究者は人質として手錠を掛けて奥の部屋に閉じ込めた。サンバスからすれば突然の襲撃において最も重要なことは、国家のために自決することではなく自らの身の安全であった。ヴィルン班の指示に対して従順であったため、サンプルとして作成された大量のPS菌薬の倉庫をヴィルン班は獲得することができた。そして脱出しようとしたところで、エスカラン軍パリヤ班が到着。戦闘は比較的優勢に進めることができ、ヴィルン班が脱出のために確保した動線の崩壊を誘引すること成功した。ヴィルン班はなんとしても脱出するため、パリヤ班はヴィルン班の脱出を阻止するため、互いの班を殲滅させることが目標となった。そして、互いの作戦班は悪魔の最終手段、PS菌薬を保有している。この薬は短時間戦闘においては有利に使うことができるかもしれない。両軍の兵士はPS菌薬を駆使して敵班の殲滅を試みることになったのだ。