~ファイの憂鬱~ 火蜥蜴と金蜘蛛と
着任早々にサーキュラーが引き合わされたのは、長いローブを着込み、フードを目深にかぶったサラマンダーの子供だった。
「こちらが魔王軍統括総司令のサーキュラー・ネフィラ・クラヴァータ閣下だ。ファイ、君の上司になる。しっかりやりたまえ」
顔を見せないようにしっかりかぶったフードの下から目だけ光らせて、ファイという名前の子供は彼のことをじろじろ見た。なんでも十歳にして飛び級で大学院まで出た天才ということだったが、いかんせん子供だとサーキュラーは思った。それでも右手を差し出し、彼はこう挨拶した。
「サーキュラーだ。新しい火精将だな。よろしく頼む」
何かが気に入らなかったらしく、ファイはその右手をバン、と叩いて一歩下がった。そしてフードの下から彼をにらみつけるとその場から走って逃げていった。
逃げ回るファイを捕まえ、司令本部に戻ってきたのはもう夕方だった。あの後ファイは城中を逃げ回り、騒ぎを聞きつけたセラフィムが出てきてサーキュラーに要所要所に網を張るようにいい、反対側から追い込んで文字通り捕獲したのだった。捕獲網でべたべたになったファイを司令本部にある自分の椅子に座らせ、サーキュラーはその網を取ってやった。
「なんで逃げるんだ」
ぷい、とファイは横を向いてしまった。水精将のワンダが奥から見ていたが、時間になってしまったので机から立ち上がった。
「帰って大丈夫かしら」
「いいぞ」
サーキュラーはそう返事をして、また網を外す作業に取り掛かった。ワンダが退出する。部屋にはファイとサーキュラーだけになった。丁寧に網を外しながらサーキュラーは言った。
「手荒なことをして悪かったな。もうちょっとで終わるから待ってろ」
ファイは黙ったまま足をぶらぶらさせた。最後の網を外し終わり、もういいぞ、とサーキュラーが言うとファイは言った。
「……おまえ嫌い」
彼はその容姿と行動からいろんなことを言われ慣れてはいたが、さすがにこれはこたえた。いくら相手が子供でも、理由もなくいきなり嫌われるのは厳しい。
「……ずるい」
そう言うとファイはたん、と音を立てて椅子から飛び降りた。
「男のくせに」
そしてまた一直線に走って逃げ帰ってしまった。
翌日、サーキュラーが司令本部にある自分の机に座っているとファイがやってきた。彼をにらみつけてあてがわれた机に座る。正面のワンダがちらっと二人のことを見たが、何も言わずにそのまま事務仕事に向かった。
「ファイ、ちょっと来い」
有無を言わせぬ態度でサーキュラーはファイのことを呼んだ。そのまま別室に連れて行く。逃げ出さないようにしっかりと右手を握り、別室のドアを閉めてその辺にあった椅子に座らせる。そしてその正面に立ち、目の高さまでしゃがみこんだ。
「ずるいって何だ」
ファイは顔を背けた。サーキュラーは続けて言った。
「俺のことが嫌いだったらそれでいい。けどな、ここは仕事場なんだ。学校じゃない。真面目にやらないっだったら出て行け。火精将は違うヤツにやらせる」
明らかにショックを受けたのが分かったが、それでも、とサーキュラーは話を続けた。子供とこんな風に会話をするのは気が進まなかった。
「飛び級で大学院まで出たんだってな」
ファイがうなずく。優秀なのは確かだった。
「けどな、どんなに能力が高くても人の話も聞けない、言いたいことも言えないんじゃ駄目だ。逃げ回る理由を言えないなら交代してもらう」
思い切ったようにファイは顔を上げた。深くかぶっていたフードが脱げてその顔が見える。幼いつくりに幼い表情、それにオレンジ色のばさばさに切った硬い髪に、同じ色の爬虫類の瞳をしていた。その頬から首にかけては固い鱗が見え、首筋をびっしりと覆っている。しゃべり方が拙いのはこのせいだった。
「……ずるいよ」
ぽろっと涙がそのオレンジ色の瞳からこぼれた。
「……そのキラキラの髪、なに? 男なのにどうして? なんできれいなの? ずるいよ」
(なに?)
彼の戸惑いには構わず、ファイはひっく、ひっくとしゃくりあげ、ぽろぽろと泣き出す。
「そんなのない、ずるいよ。なんで? どうして?」
やがて彼女はわんわんと声を上げてその場に突っ伏してしまった。
サーキュラーの派手な容姿は、十になるサラマンダーの女の子のコンプレックスに容赦なく突き刺さったのだった。サラマンダーというのは確かにあまり美麗とは言いがたい。ファイはその中でも特にひとがたを取るのがうまくなかった。十やそこらでは仕方ないとも言える。
(そこか……)
実は彼の一族は皆同じような金髪をしている。本来の姿は金色の蜘蛛なのだが、ひとがたをとった時に容姿端麗な者が多いのも特徴だ。ただ種族社会の特性上、男女ともあまり表舞台に出てこないことが多い。サーキュラーはそんな中では半竜ということもあって特異な存在であり、彼の所属する一族の中ではかなり異彩を放っていた。
「ごめんな」
彼は謝った。謝ってもどうにもならないのだが、悪いことをしたと思ったのだった。もっともそれ以上はどうにもできなかった。
「悪かった」
サーキュラーがそう言うと、ファイはきっ、と彼を睨みつけた。
「悪くない」
そしてまたわんわん泣き出した。泣きながらも話し続ける。
「……全然悪くない、違う。そうじゃない。悪いのは自分」
しゃくりあげながらファイは言い続けた。
「でも……ずるいよ、そんなの。ファイもそうなりたかった」
何と声をかけていいかも分からず、彼は泣きじゃくるファイに付き合ってずっとその部屋にいた。ファイが落ち着いたのは一時間もたってからで、それからしばらくしてとうとうワンダが彼のことを呼びにきた。
「出られる? 魔王様がお呼びよ」
ちらっとファイを見ると、ファイはフードをしっかりとかぶり、頭を振って立ち上がった。
「……大丈夫」
心配だったが彼はファイをワンダに預け、自分は魔王のところに出向くことにした。長くなりそうだったので彼はこう言い置いていった。
「ファイ、しんどかったら途中で帰っていいぞ。ただワンダでも誰でもいいから帰る時は一言言っていけ。黙っていなくなられるのは困る」
「……分かった」
素直な返事だった。根はいい子なんだとサーキュラーは思った。
その日、ファイは逃げ出さずに一日司令本部にいた。彼の戻りを待っていたようだった。もうだいぶ遅く、司令本部に戻ったサーキュラーは驚いてしまった。
「時間になったら帰っていいんだぞ」
ファイはまっすぐ顔を上げて彼を見た。
「……待ってた」
「なんでだ」
それからぴょこん、と頭を下げた。
「……ごめんなさい、もうしません。ちゃんとします」
天才児との触れ込みだったが、年相応の子供にしか見えなかった。サーキュラーはふと笑ってしまったが、顔を引き締めてもういい、とファイに言った。
「それならいい。もう遅いから帰れ。送ってやる」
驚いたようにファイは頭を上げた。そして、なんで、と言った。
「あぶなっかしくてしょうがない。それにまた逃げられると困る」
「……逃げない」
「そうか」
帰り支度をし、ファイと並んで城の外に出る。ファイの家までは歩くと二十分くらいかかるとのことだった。途中に何もない荒地を通るので、いつも歩かないで跳んでしまうらしい。なのでサーキュラーは城門を出ると「跳ぶか?」と聞いた。
「……跳ばない。歩く」
ファイはサーキュラーの手をしっかりと握った。それから薄暗い中、じっと彼のことを見上げた。
「……それ、さわっていい?」
彼女が手を伸ばしてきたのはサーキュラーの髪だった。下のほうから長く伸びた部分をつかみ、先をいじる。引っ張られて痛かったがサーキュラーはかがんで耐えた。
「……つるつる。きれい。いいな」
さんざん触って満足したらしく、ファイはぱっと手を離した。サーキュラーは転びそうになったがなんとか持ちこたえた。
「暗いな」
「……うん」
真っ暗になってしまったので彼女は小さな炎を呼び出し明かりにした。そろそろ何もない荒地にさしかかる。ファイはここが好きでないのでいつも跳んでしまうのだと言う。サーキュラーも実際に見たが本当に何もなく、ただ草原が広がっているだけの場所だった。もっともそれだからできることもある。
「ファイ、ちょっと離れろ」
サーキュラーは手を離し、ファイを少し下がらせた。もうちょっと、と充分な距離を取らせてから彼は巨大な蜘蛛の姿になった。
「……すごい」
ファイが駆け寄ってくる。細い脚やくびれた胴をぺたぺた触るのでくすぐったかった。
「乗れよ」
「……いいの?」
「細い胴から登って腹の一番上に乗れ。そのまま家まで送っていく」
興奮した様子でファイは彼の上によじ登った。一番上の安定のいい場所に座ったのを確認して、彼は八本の脚を動かして歩き出した。
「あんまりやらねえんだ。ほかのヤツには言うなよ」
「……分かった」
ファイはいくつか小さな炎を出して、彼のまわりに浮かばせた。その炎を反射し、巨大な金色をした蜘蛛がきらきらと光る。
「どっちだ」
「……あっち」
サーキュラーはそのままファイが指差す方向に歩き続けた。真っ暗な中に炎を反射して光る蜘蛛の姿だけが、ぼんやりと浮かび上がって見えた。