第三話 すべてを水には流せない 2
――この騒動、本当にどうしたら解決するんだろうな?
真向いから照る陽の眩しさに目を細めながら、月牙は悩んでいた。
そもそも何をもって解決とするのか?
犯人が捕まればいいのか?
――犯人いるのかなあ? やっぱり猫が勝手に落ちただけなんじゃ……あ、でも、それだとやっぱり扉の問題がある――
つれづれなるままにぼんやり頭を悩ませていても、建設的なことは何一つ思い浮かんでくれなかった。そのうちに厠に行きたくなった。
じりじりしながら待つうちに、ようやく右手から正午の鐘が鳴り始めた。
後宮とは大環濠を隔てて西側に位置する王宮の漏刻所の鐘だ。
一拍遅れて、今度は背の後ろから、内宮北院天文所の鐘楼の鐘が続く。
さらに数秒遅れて、後宮からは三里ばかり離れた東崗の蘭渓道院の鐘が鳴り始めたころ、ようやくに銀児が駆けつけてきた。
「月牙どうしたの? なんかものすごい顔しているけど?」
「厠! かなり切羽詰まっているの!」
「あ、ごめんごめん、ここの御殿の裏庭の借りなよ。夕べ頼んだら貸してくれたよ?」
「番のあいだに目を放したの? 門はどうなってたのさ?」
「内側から閂をかけておいたってば。月牙はちょっと真面目すぎるよ。厠に行ったり水を飲んだりくらい、ある程度好きにやりなって。病気になっちゃうよ? じゃ、交代ね!」
差し出された掌に掌を合わせてパンと、打ち鳴らしてから、矢も楯もたまらず通用門の内に駆け込み、右手に見える厨の口から声をかける。
「すみません、厠お借りしていいですか!?」
「どうぞ―そこの小屋だよ―」
トントントンと気持ちのいい包丁の音と重なって間延びした声が返ってくる。
門のすぐ左手の小屋に入るなり、月牙は愕いた。
一対の板を渡した溝の底を、厠のわりにやたらと清らかな水が流れているのだ。
汚物をこの水で流す仕組みらしい。
向きからして、東側の大溝のほうへと続いているのだろう。
内宮自体が微高地にあるため、自然に流れるのだ。
水の出口は四角かった。地中に木製の樋を埋め込んであるらしい。
樋はそれほど太くなかった。どんなごみでもここに放り込んで流すというわけにはいかなそうだ。
――それでもすごいなあ。内宮はやっぱり内宮だ。これぞ雲の上って感じだ。
月牙はしみじみと感心しながら用を足した。
「ありがとうございました―!」
「いいえ――!」
厨から声が返る。蒸篭で米が蒸されているようだ。芳しい蒸気がうっすらと漂ってくる。
月牙は不意に空腹を感じた。
ひとしきり銀児と立ち話をしてから、月牙は石楠花殿を後にした。
御殿の西側の路を抜け、いかにも後宮らしい細い朱塗りの柱の連なる廊をよぎれば、目の前に円い噴水池を配した前庭が広がっている。
白と碧の陶板を敷き詰めたどことなく西域風のこの庭は「四花庭」と呼ばれている。名の通り、四隅に石楠花と紫薇、芙蓉と茉莉花が植え込まれているのだ。
四花庭に人気はなかった。
泉池の真ん中の白い獅子像が口から水を噴出している。
その水の落ちる音ばかりが妙に大きく聞こえた。
――あ、仔猫はここで溺れる可能性もあるな。
そんなことを考えつつ右手の門へと向かう。
西院の表門たる「梨花門」である。
碧い瓦屋根を華奢な朱柱が支える瀟洒な四脚門は、日中は扉を開け放している。門を出れば左右に、白い筒袖に濃い藍の括り袴、金糸で菱紋を縫い取った黒繻子の帯を結んだ内宮妓官が一人ずつ並んでいる。
内宮妓官の多くは柘榴庭務めを経ている。
つまりは大先輩だ。
月牙は緊張しながら、細い緋の帯に吊るした巾着から、入るときに渡された番号入りの木札を取り出した。
「申し、橘庭の師姉がた――」
声をかけながら木札を出しだす。
「おや、柘榴庭の新参か」と、内宮妓官の一方が、受け取りながら気さくに答えてくれる。「我々の領分で面倒をかけるね。急なことでどうにも手が足りず、そちらに無理をいってしまった」
「お役に立てて何よりです」
「どうだ、石楠花殿通用門の警衛は。何か変わったことは?」
「いえ、幸い何も」
「それは重畳。門衛は何事もないのが何よりだ。師妹、名前は?」
内宮妓官が木札の番号を名簿と照らし合わせながら訊ねる。
「蕎月牙でございます」
「よし。通りなさい。柘榴庭によろしうな」
「はい師姉」
おじぎをしてようよう門を抜ける。
西院の警備はさすがに隙がない。不審者なんか蟻の子一匹入り込めなそうだ。
――考えてみたらそこからして不思議なんだよな。紫薇殿の仔猫を溺れさせた犯人がいるのだとしたら、どうやってこの西院に入り込んだのだろう? それとも内部の犯行なのかな?
――そうだとしたら、今度はどうやって西院から出たのかって問題がある。まず猫が勝手に外に出たのかな? やんごとない生まれのお猫様も、柘榴庭の虎ちゃんみたいに好き勝手にほっつき歩いているものなのかな?
考えても今一つ分からなかった。
上つ方の生態は色々と雲の上すぎる。