第三話 すべてを水には流せない 1
翌日の昼前である。
月牙は西院石楠花殿の南側の通用門の前に立ってボーッと向かい壁を眺めていた。
――この仕事も結構地味だなあ……
早朝に銀児と交代した直後はかなり忙しかった。西院の北側の雑用門から入ってきた内膳所の婢たちが、手車に食材を満載して運んできたためだ。
石楠花殿に出入りする婢の名簿は前もって内膳所から貰ってあったため、月牙の仕事は、一人ひとり名を確かめて木札の割符を渡し、出るときにまた名を確かめ、割符で本人確認をするという地道極まりない作業だった。
その地道ながらも忙しないひと時が過ぎてしまうと、今度は一気に暇になった。
昨日の午後から夕の番をした銀児の話では、夕刻には洒掃所の婢たちがやってきて汚物を引き取りにくるから、このときもかなり忙しいらしい。
しかし、朝と夕以外は実に暇である。
目の前にあるのは幅一丈ほどの土のままの路と瓦屋根付きの築地、右手の遠くに見える雑用門だけだ。そちらは決まった時刻に内宮妓官が開けるようで、そのほかの時間は閂と南京錠で閉め切りになっている。
――閑だ。
何だってこんな門にまで常時警備を張りつけなければならないのか?
理由は、昨日の早朝、内宮の媽祖堂のなかで、溺れ死んだと思しき白い仔猫の躯が見つかったためなのだという。
内南門の侍廊で粽を食べつつ石楠花殿付きの内宮妓官からその話を聞かされたとき、月牙は内心、
――だからどうしたよ?
と、思った。
声にこそ出さなかったが、隣でモグモグやっていた銀児も表情からして同じことを思っていたはずだ。
双樹下国後宮たるこの桃梨花宮は広大である。
敷地内には疎林もあれば池もある。内宮の中央、東院と西院のあいだに位置する媽祖堂の北側にも「内大池」と呼ばれるひょうたん型の池が広がっているのだ。
猫だって落ちれば溺れるに決まっている。
――内宮にお住いの上つ方って、仔猫一匹池に落ちて死んだからって大騒ぎするわけ? はた迷惑だなあ。
若者二人のそんな表情を察したのか、桂花茶を片手に説明していた内宮妓官は語気を強めた。
「いいか二人とも、死んだのはただの猫ではないのだ」
「高価い猫なんですか?」
「値段の問題ではない。桃果殿でお生まれになったのだ」
内宮妓官はごくナチュラルに猫に尊敬語を用いた。
月牙は粽を喉に詰まらせかけ、桂花茶でどうにか流しこんだ。
「桃果殿といいますと、ええと――」と、銀児が考え込む。「あ、王太后さまが住んでいる東院の御殿ですね!」
「お住まいになられる、だ」と、内宮妓官が渋面を浮かべる。「上つ方は基本的に御殿の名で呼べ。桃果殿さまは、この春御殿でお生まれになった二匹の白い仔猫を、幼き主上の伴侶となるべく稚いお年頃で西院に入られたお二方の貴妃さまに、一匹ずつご下賜なされたのだ」
「貴妃さまがたは、お二方とも稚いお年頃なのですか?」
「ああ。石楠花殿さまが十歳、紫薇殿さまが十二歳だ。その紫薇殿さまの賜った仔猫の躯がだな――」と、内宮妓官は恐ろしげに声を潜めた。
「なんと、毛先から水が滴るほど濡れそぼって、媽祖堂の祭壇の上に横たえられていたのだ!」
「猫が勝手に入ったのでは?」
「いや、見つけた紫薇殿付きの妓官の話では、朝の供えのために紫薇殿の女嬬どのが入るまで、堂の扉はぴったりと閉ざされていたのだそうだ」
「閂があるのですか?」
「閂はないが、溺れ死にかけた猫が自分で扉を開けられると思うか? 見れば分かると思うが、媽祖堂の扉は結構重いのだ」
--それは当然無理だな、と月牙も納得した。
「――つまり、紫薇殿さまのところの仔猫は、何者かの手で敢えて溺れ死にさせられ、わざわざ紫薇殿の女嬬がたが目にするようなところに置いておかれたと、そのように考えられているのですね?」
月牙が確かめると、内宮妓官は苦虫をかみつぶしたような顔で頷いた。
「そういうことだ」
「でも、殺されたのは紫薇殿さまのところの仔猫なのでしょう?」と、銀児が首を傾げる。
「それなのに、どうして石楠花殿の通用門の警備まで手厚くするのですか?」
「そこはそれ、西院名物、貴妃さま同士の睨みあいよ」と、内宮妓官はくたびれたように笑った。「四花庭で仲良く毬つきをしているような幼い貴妃さま同士で、早くもこんな騒動が持ち上がるとは思わなかったがな! 今月の紫薇殿付きの妓官の話では、ご下賜の仔猫を殺したのは石楠花殿の嫌がらせだ――と、厨の婢までが早くも言いふらし始めているらしい」
「あ、なるほど」と、月牙は納得した。「それで、石楠花殿さまのほうは、そちらの仔猫も狙われているかもしれないと警戒しているところを暗に御示しになりたいのですね?」
「そういうことだ」
「なるほど――」
銀児が感心する。
「内宮というのは色々ややっこしいところなのでございますねえ。いかにも後宮! という感じがいたします。ところで、私たちはいつまで通用門の警備をすればいいのでしょうか?」
「知らん」と、内宮妓官な多くの諦めを知り切った古参の宮仕えらしい憫笑を浮かべた。「上つ方が騒ぐのにお飽きになるまで、かね?」