第二話 床下には虎しかいなかった 2
主人公コンビの片割れがなかなか登場しない……
この方二丈の主たる外宮妓官の頭領、安飛燕の声である。
月牙は慌てて立ち上がりながら応えた。
「いえ、すみません頭領、いるのは猫だけで!」
途端、翠玉が顔をくしゃっと歪めて大声で泣き出してしまう。
「ああん、虎ちゃん逃げちゃった――! 姉さんも頭領も煩い――!」
「こら翠玉、頭領の前ではお行儀よくしなさいって! すみません、ちょっと今猫を狩り出しておりまして」
「そこに猫がいたのか? 白猫か?」
「いえ、虎猫です。――翠玉、ほら、もう泣くんじゃない。頭領、白猫がどうかしたのですか?」
「ああ、今しがた内宮からお達しがあってな――おい翠玉、そんなに泣くな。お前たちがしゃがみこんでいるから、怪しいやつが床下にいるのかと思ってしまったんだ」
「怪しいものなんかいないもん。虎ちゃんしかいなかったもん!」
翠玉が泣きながら言い返す。
飛燕がぴくりと眉をあげた。
--あああ、お願い頭領怒らないで……
月牙はハラハラした。
年のころ三十半ばの飛燕は、中背ながらも鍛え抜かれた細身と赤銅色に焼けた膚、頬骨の高い険しい面立ちをした、「たたき上げの下級指揮官」という表現が何より似合う熟練の妓官である。
ハラハラ見守る月牙を尻目に、飛燕はおもむろに膝を折ると、目線を翠玉にあわせ、優しい声で話しかけた。
「いいか翠玉、猫ってものはあんまりかまうとダメなんだ。放っておけば、そのうちあっちから近づいてくるものなんだよ」
「――ほんと?」
「ほんとだ。月牙はこれから仕事だ。お前は銀児を捜してきてくれ。たぶん厩にいるはずだから。とても急な用事で、とても大事な仕事なんだ。一人で出来るか?」
「できるよ! あ、ちがった、できますよ頭領!」
今泣いた烏がなんとやら、翠玉はたちまち笑顔になると、踵を返して厩へ続く北側の木戸へと走っていった。
遠ざかる小さな背を見送りながら飛燕が苦笑する。
「素直な子だし足も速いし、鍛えればいい妓官になりそうではあるんだが、せめてもう二歳年上ならな! 悪いな月牙。いつも子守を押し付けてしまって」
「お役に立てて何よりです。ところで、白猫がどうかしたんですか?」
「ああ、それがな――」
飛燕が口を切ったとき、北の木戸が開いて銀児が駆け込んできた。
後から翠玉も来る。
「頭領、銀児姉さんを呼んできましたよ!」
「すみません、遅くなりまして!」
「気にするな。今は本来は非番だろう」
「ね、私一人でできたでしょ! 他に何かお仕事はありますか?」
翠玉が目をキラキラさせて訊ねる。
飛燕は眦に皴をよせて笑うと、生真面目な表情を取り繕って命じた。
「では呉翠玉、月牙と銀児にはこれから急な仕事が入ってな。二人は昼餉を食べ損ねるかもしれん」
「え、昼餉を?」
育ち盛りの十歳が怖ろしげに目を見開く。
飛燕が深刻そうに頷く。
「ああ。腹が減っては戦が出来ぬと昔から言うように、兵糧の確保はとても大切だ。だから、お前は急いで婢長屋にいって、何か簡単に食べられるものを作ってもらってきなさい。一人で伝えられるか?」
「もちろんです頭領!」
少女は大得意で応え、ぴしっとした礼を残して婢長屋へと走っていった。
「――さて銀児、月牙、お前たちのほうの急な仕事だが」
と、飛燕が向き直って口を切る。
何となくほのぼの和んでいた月牙と銀児は慌てて背筋を正した。
「はい頭領、なんでございましょう!」
「そんなに鯱張るな。お前たち二人、今日の午後から内宮へ上がって、半日交代で西院石楠花殿の通用門の警衛に当たるように」
「石楠花殿――でございますか?」
月牙は思わず問い返した。
「石楠花殿と申しますと、西院五殿のひとつで、貴妃さまがたのお住まいになるという?」
「そうだ」と、飛燕が頷く。「先代さまの御代には梨花殿に正后さまが、四殿にそれぞれ貴妃さまがいらせられたが、当代の主上は御幼少ゆえ、今の西院にいらせられるのは、南東の石楠花殿の紅貴妃さまと北西の紫薇殿の槙貴妃さまのお二方のみだ」
「では、私たちが警衛するのは、その紅貴妃さまの御殿なのですね?」
「ああ。貴妃さまのことは御殿の名で呼べ。詳しい話は内南門の侍廊で聞いてくれ」
「はい頭領」
神妙に答えながら、月牙は背筋がぞくぞくするような興奮を覚えた。
内宮の奥に住まわれる貴妃さまの御殿の緊急警備!
何があったか知らないが、きっと何かがあったのだ。
後宮生活三か月目にして、ようやく仕事らしい仕事が廻ってきたようだ。