第二話 床下には虎しかいなかった 1
麗明の淹れてくれた茉莉花茶を飲みつつ焼餅を食べ終えた月牙は、濃密な百合の花の匂いに悩まされながらも、すぐにコトンと眠りに落ち、昼まで熟睡した。
目が覚めたのは空腹のためだ。
今はもう大膳所が開いている時間だ。
ざっと身なりを調え、ボサボサの黒髪を手で梳きながら方二丈を出るなり、月牙はギャっと叫びそうになった。
向かい側の一番右端の頭領の小屋の階の真下で、妓官服姿の小さな少女が四つん這いになって頭を床下に突っ込んでいるのだ。
「す、翠玉……?」
高床小屋の床下ってものは控えめに表現しても全く清潔な場所ではない。
有体に行ってしまえば物置傔ごみ溜めだ。
柘榴庭で出るごみは、厠の汚物も一緒に、一日一度、洒掃所の婢たちが集めにきて、広大な外宮の東端に掘りこまれた大溝に棄てることになっているが、毎日のちょっとしたごみは、わりとそのまま床下に放置されているのだ。
たとえばさっき食べた焼餅をくるんでいた芭蕉の葉なんかだ。
床下のごみはどうなるのか?
基本皆有機物であるため、朽ちるに任せて腐葉土になる。朽ちきらないごみは、双樹下の雨期たる夏の驟雨がいずれ跡形もなく洗い流してくれる。
ちなみに今は晩春である。
今年の床下はまだ洗い流されていない。
月牙は慌てて駆け寄った。
「こら翠玉、駄目だよ、そんなところに頭なんか突っ込んじゃ! 服が汚れちゃうだろ!」
「この服はいくらでも汚していいって言われているもん!」
「それは調練のためだよ。ほら立って、そんなことろにしゃがみこんでいて、頭領が出ていらしたら吃驚なさるだろう?」
腕をつかんで立たせると、少女は不服そうに答えた。
「頭領は出ていらっしゃらないよ。さっき内宮に呼ばれていったもん」
少女は不満そうな顔で立ち上がった。
「姉さん騒がないでよ。虎ちゃんが逃げちゃうじゃない!」
「と、虎ちゃん!? 虎が――」
月牙は愕きかけて気づいた。
双樹下国の版図に虎は間違いなく棲息している。月牙の故郷である北部の高地地方ではときどき白っぽい虎が見られては大々的な狩猟が催されたものだったし、噂に聞く大河の東の密林地帯なんかにも美しい金色の虎がさぞや沢山いることだろう。(あの地方の特産は金色の虎皮だ)。
しかし、京洛地方の後宮の石壁のうちには絶対にいないはずだ。
「ええと、虎猫?」
「そうだよ。虎ちゃん知らないの? あの子もうずーっとこの庭に住んでいるのに」
つんと唇を尖らせる少女の名は呉翠玉。
当年なんと十歳の最年少の武芸妓官だ。
ずーっと、なんて言っているが、月牙と同じく三か月ばかりまえにこの庭に入ったばかりである。
武芸妓官という官職は、その昔、双樹下に服した北方騎馬民族カジャールの民が、服属の印に後宮に献じた三人の姫に由来する。そのため、一生を妓官として奉職しようとするのは殆どがカジャール三氏族――アガール、ゲレルト、サルヒのいずれかの末裔に属する。月牙の蕎氏はアガール氏族の族長筋である。
カジャール諸氏にとって、「柘榴の妓官」は名誉の職だが、多数派の双樹下人は、子女に武芸をたしなませるのは「蛮夷の風習」とみなして軽侮しがちである。
そういうわけだから、カジャール系ではない武芸妓官の出身階層はそれほど高くない。
後宮領の富裕な農家の娘や、半農半武の衛士の娘、中級官吏の庶出の娘といったところだ。
そんな中で、この小さな呉翠玉だけは際立って家柄がよかった。
代々在京の官吏を輩出してきたいわゆる「書香の家」の御令嬢である。
呉家が翠玉をわざわざ身分にそぐわない外宮妓官として入れた理由は、運動神経に優れたこの子がとびっきりの美少女で、なおかつ、幼い主上と同い年であるためだ――と、翠玉を知る者は誰もが思っている。
いってみれば翠玉は柘榴庭のお姫さまだ。
遠くない未来、主上の御目に留まって寵愛されるかもしれない大事な預かり物だ。
お姫さまは先輩妓官の誰をも「姉さん」と呼んで無邪気に懐いているが、同時期に入った月牙にはことさらによく懐いたため、月牙は周囲から何となく「翠玉係」みたいに見なされている。
兄と姉しかいない末っ子の月牙は、わがままながらも素直で無邪気な翠玉が内心可愛くって仕方ない。
「虎ちゃん床下にいるの?」
「ウン。ほら見て、あそこ。材木の後ろのほう、呼んでもちっとも来ないんだよねえ。どうしちゃったんだろ?」
翠玉が、今度は両膝を地面について小首をかしげ、ちっちっちっと舌を鳴らし始める。
袴は汚れてしまうが、さっきよりは多少ましな姿勢だ。
月牙は妥協して隣にしゃがむと、奥にいる小さい虎猫が早いところ出てきてくれることを祈った。
「虎ちゃん、虎ちゃん出ておいで。怖くないよ――」
翠玉が囁く。
と、そのとき、背後から粗い足音が駆け寄ってきた。
「月牙、どうした! 床下に何かいるのか!?」




