第一話 始まりは百合の薫とともに 2
「ええと――」
月牙は戸惑った。
「これは?」
「白百合でございますよ」
「うん。それは分かるんだけど。何で朝から私に白百合なんかくれるのかなぁ? って」
「わたくしがさしあげるわけじゃありませんよ!」と、劉大姐は心外そうに鼻の脇に皴をよせた。「なんであんたみたいな新入りのひよっこにお花を捧げなくちゃならないんです、頭領さまならともかく――」
劉大姐はちょっと赤くなり、咳払いをして続けた。「颯爽たる妓官さまにきゃあきゃあ騒ぐ小娘どもと一緒にしないでください。これでも昔は亭主がいた身なんですからね。そのあと色々ありましたが」
「え、そうなの?」
月牙は親しみを感じた。
十八の月牙は実は寡婦である。
生来の水際立った美貌を買われて十三歳で家格にそぐわない貴顕の家の老当主の後妻として入ったが、二年を待たずに老夫が死んだあとで、紆余曲折を経て妓官の任官試験に挑んで新たな人生を切り開こうとしているところだ。
そういう経歴は、外宮ではそんなに珍しくない。二十五、六の颯爽たる妓官が「実は別れた夫とのあいだに子供がおりまして」と打ち明けても、子供が一人くらいなら誰も驚きはしないだろう。そういうところ、外宮は割とおおらかで大雑把なのだ。
「ああ、劉大姐は御亭主の度を越した悋気と束縛に辟易して、子供らが独り立ちしたのを機会にここに逃げ込んできたんだよね!」と、蔡姫が無駄に情報通のところを見せる。「飛燕様が前に仰っていたよ。しつっこくて実に暴力的な亭主で追っ払うのに苦労したって」
張大姐はますます鼻の脇の皴を深めた。
「蔡姫さま、他人の過去の色恋沙汰をむやみに吹聴するもんじゃありません。このお花はどっか他所の婢からですよ。いきなり駆け込んできたかと思うと、こ、こ、これを柘榴庭の月の君さまに! キャーって叫んでまた行っちまったんです。早いところ持って行ってくださいよ。何しろこの匂いですからね、長屋に置いておくとくしゃみが出ていけない」
確かに花は濃密な芳香を放っていた。
十人で共用している婢長屋に置くと大変なのは分かるが、下っ端妓官だって一辺二丈〈約6m〉の高床小屋を三人で共有しているのだ。
こんな強烈な匂いのする花を持ち帰ると、同室の二名にものすごく嫌がられそうだ。
「……お若い妓官様、なんで受け取らないんです?」
劉大姐が剣呑な目で睨みつけてくる。
「今朝の点心は胡麻油で炒めた春雨がたっぷり入った美味しい焼餅なんですがねえ? 妓官さまがたが要らないってんなら勿論、私ら長屋の婢が朝餉に美味しくいただきますけど――」
「――月牙、受け取りなさい。師姉の命令だ」
蔡姫が重々しく命じてくる。
外宮妓官は厳密な縦割り組織である。
月牙はいやいや受け取りながら訊ねた。
「いや、でもさ、この柘榴庭の二〇人の妓官のうち、「月」がつくのは私だけじゃないでしょ? 月娘師姉もいるし照月師姉もいるのに、なんで「月の君」ってだけで私宛だって断定するのさ?」
訊ねるなり劉大姐は鼻で嗤った。
「そんなもの貴女様宛に決まっているじゃありませんか。鏡をご覧になったことがないので?」
蔡姫が声を立てて笑い、親しみをこめて月牙の肩を叩いてきた。
「ま、仕方ないよ。私だって、初めてお前を見たときにはぎょっとしたもん」
「ぎょっと?」
「うん。これはいわゆるあれなのかなって」
「どれ?」
「だからさ、芝居なんかでよくある、内宮の上つ方が御寵愛の絶世の美少年に女装させて宮に引っ張り込んだとか、そういう醜聞なのかなって。月牙は本当にきれいだよね! 女にしておくのが惜しいようだよ」
「……ありがとうございます?」
何かがどこか変だな……と、思いつつも、新米妓官は眠気と空腹に負けてそれ以上の反論を諦めた。
水桶を受け取るなり、劉大姐は満足そうに頷き、芭蕉の葉に包んだ焼餅を一つずつ渡してくれた。
「はいどうぞ。たんとお上がりな」
「ありがとう」
月牙は有難く受け取って自分の方二丈へ戻った。
方二丈、というのは、名の通り二丈四方の高床小屋だ。柘榴庭にはこの方二丈が八軒立ち並んでいる。
南側の一番手前の一軒の七段の階をあがって室内に入ると、同室者の一人である宋麗明がすでに起きて、自分の寝台に腰掛けて、双樹下人には珍しい栗色の髪を梳いていた。もう一人の同室者の蘇銀児は一番奥の寝台で熟睡しているようだ。
「おはよう。今日は昼から?」
「うん。お疲れさま」
麗明は櫛を使う手を止めないままちらっと月牙を見た。
「それ焼餅? 美味しそう」
「うん。春雨たっぷり入りだよ」
「いいなあ。お茶淹れてあげるから一口ちょうだいよ」
「いいよ。一口だけね」
会話はそれで終わった。
白百合については一言もない。
柘榴庭の面々にとって、月牙が花をもらうことはもはや自然の摂理、お日様が東から昇るのと同じほど当たり前の出来事なのだ。