第一話 始まりは百合の薫とともに 1
主人公コンビの片割れが登場。
内宮の媽祖堂でびしょ濡れの仔猫の躯が発見されているころ――
新米の武芸妓官の蕎月牙は、夜半から朝までの外砦門警衛の当番をちょうど終えるところだった。
「武芸妓官」と呼ばれる女官たちに武具をとらせて後宮の守備に当たらせるのは、宦官制を持たない双樹下国の後宮独特の慣習である。
白い筒袖の上衣に浅葱色のくくり袴、腰に緋色の帯を結んで黒鞘の刀を吊るし、背には二十本の白鷺の羽矢を収めた籐の箙を負う。
今まさに身にまとっているその官服は長いこと月牙の憬れだった。
――しかしなあ、と月牙は内心思う。
――何し負う「柘榴の妓官」の務めがこんなに地味だとは思わなかったなぁ……
門衛とはそもそも地味なものなのだ。
昼番は地味だが閑というわけではない。
後宮の陸側の表門たる外砦門は意外とよく開く。
月に何度か、決められた日に門前に物売りがやってくるし、「御菜所」と呼ばれる近隣の後宮領の農村からは折々に旬の生鮮食品が届くし、武芸妓官が急用を命じられて外出することもある。
しかし、夜番は基本的に暇だ。
ただじっと露台の篝火の傍に立ち、一更ごとに結弦を鳴らして暗がりにいるらしい見えない魑魅とやらを払い、ごく稀に門前の路を通りかかる風流な酔漢から、「おお、今宵も宮に妓官の燈が」としみじみ見上げられるのが仕事だ。
暇だが結構疲れる。
「やれやれ、ようやく終わったよ! 齢とると夜番は辛いねえ。月牙は十八だっけ? いいねえ、まだまだ元気そうで」
一緒に番をしていた先輩妓官の林蔡姫が嬉しそうに伸びをする。月牙は欠伸をしながら一応否定した。
「いえいえ、師姉だってまだまだ若いですって」
林蔡姫が何歳であるのか月牙は知らない。
これは定型の挨拶というやつだ。
こういう心なんかどうでもいい一言が人間関係を円滑にするのだ――という処世術を、宮仕え三か月目の新入りは早くも学びつつある。
「若いといえばさ、月牙と同時期に入ったあの呉家の御令嬢、あの子十歳だって本当なのかな? 月牙知っている? あの子の面倒をよく見ているでしょ」
朝番の四人との引継ぎを済ませて門のすぐ左手の外宮妓官の宿所、「柘榴庭」へ向かいながら蔡姫が訊ねてくる。
「翠玉ですか? 本当ですよお。本人がそう言っていました」
「あれはさ、きちんと任官試験を通ったってわけじゃ、さすがにないんだろうね? お家柄もお家柄だし、なにせあの可愛さだもん。御若き主上と同い年だしさ、将来的な寵姫候補ってやつなんだろうね、やっぱり」
「外宮妓官から寵姫なんかどうやって出るんですか? 主上は内宮の築地のさらに内側の西院の貴妃さまがたの御殿にしかお通いにならないんでしょう?」
「そこはそれ、あれだよ」
「どれ?」
「だからさ、主上がいずれ厩にお馬を見にいらしたり、外大池の蓮を見にいらしたり、そういう感じでちょっと出たとき、とびっきりの美少女に目を止めて御名を訊ねられると、こういう流れを期待されているんじゃないかな?」
「ありますかねえ、そんな物語みたいな流れえ……」
「おい若者、その語尾伸ばすのやめなさい。聞いててイラっとするから」
木戸の前にはまだ篝火が焚かれていた。
ギイ、と扉を押してはいると、左手の婢長屋の入り口から、月牙はまだ名を覚えていない四十年配の婢がひょいと顔を出した。
「おはよう劉大姐!」と、蔡姫が人懐っこく挨拶する。「まだ大膳所が開いていないんだよね。何か食べられるものないかな?」
「ございますよ」と、劉大姐は不本意そうに答えた。「夜番明けの妓官さまに点心をさしあげなかったことが今までございますか? あんたがたときたら鬣犬みたいにガツガツといつもお腹を空かせているんですから! 百年の恋も冷めるってもんです。すぐ出してあげますよ。その前にこれ。持っていってくださいな」
劉大姐が月牙の鼻先にずいっと水桶を差し出してきた。
桶には花が活けてあった。
白百合である。
肉厚の花弁の縁が縮れた大輪の花だ。