第六話 猫と子供は寝かせておこう
大膳所へ立ち寄ってから柘榴庭へ戻ると、高床小屋の前で同室者の宋麗明が待ち受けていた。
なんだかひどく顔色が悪い。
「どうしたの麗明。具合でも悪いの?」
「いや、私の具合は悪くないんだけど――」
麗明は口を濁し、やおら頭を下げた。
「ごめん月牙! 私のせいで虎ちゃんが病気になっちゃった!」
「え、虎ちゃん?」
月牙は狼狽した。
「虎ちゃんって、あの翠玉が可愛がっていた虎猫のこと?」
「そうなんだよ。実はね――」と、麗明が階を登りながら申し訳なさそうに言った。「月牙が貰ってきた百合があったでしょ? あれ、私にはちょっと匂いがきつくて、月牙が夜番でいない間、断りなしに部屋の外へ出しちゃったんだ」
「そんなの気にしないでよ」と、月牙は心から告げた。「私だって正直あの花の匂いはきつすぎると思ったし」
「だけど、そのせいで虎ちゃんは具合が悪くなったんだ」
「どういうこと?」
「私も知らなかったんだけどね、薬師どのが仰るには、百合の花は猫には猛毒になるらしいんだ。ずっと花を活けてあった水を飲むだけでも具合を悪くすることがあるらしい」
「へえ、猫って案外繊細なんだね! ――虎ちゃん、まさか死んでいないよね?」
「大丈夫。翠玉が見つけてすぐに杏樹庭の薬師がたのところへ運んでいったら、ご親切な薬師どのがお一人いてね、すぐに診てくださって、水を沢山飲ませて毒を吐かせてくださったんだ。今は弱っているけど、休ませればよくなるかもしれないって。翠玉はずっと付き添っているよ」
「そうか――」
月牙はひとまず安心した。
猫には思いがけないものが毒になるらしい。
そこでふと気づいた。
――もしかして、紫薇殿さまの仔猫も、何か思いがけないものを口にして事故で死んでしまったのかな?
――もしもそうだったら? ご下賜の猫が不慮の事故で死んでしまったとして、紫薇殿の方々がそのことを隠そうとしているのだったら? その場合、何があれば事実を証立てられる?
月牙は沈思した。
――事実を必死で隠そうとしいている上つ方相手に理屈を言ったって無駄だ。手に取れる証拠が必要だ。何かないか? 何か――
「――月牙、どうしたの?」
麗明が気づかわしそうに訊ねてくる。「もしかして杏樹庭に行くつもり? 翠玉が心配なのは分かるけど少し休んだ方がいいよ?」
「うん。休むよ。休むけど、その前にちょっと様子を見てくる」
麗明はありありと心配そうな顔をしたが、それ以上は何も言わなかった。
外宮の薬師たちの住まう杏樹庭は、外砦門と内南門をつなぐ南大路を挟んで柘榴庭と向かい合っている。
大急ぎで向かって木戸をくぐり、婢長屋で訊ねる。
「柘榴庭の者です。こちらで私たちのところの者が御厄介になっていると聞いたのですが」
「ああ、薬園の長が診ていますよ。ご案内いたしましょう」
落ち着きのある年配の婢が案内してくれたのは木柵の内の薬草園だった。木戸の左手に小屋がある。婢が慣れた手つきで扉を叩く。
「文姫さま、柘榴庭から小姐のお迎えが参りましたよ」
「開いているよ。入りなさい」
扉の中から穏やかな低い女声が返る。
扉を押して入ると、甘くほろ苦い薬草の臭いが全身を包んできた。
そこは一目で分かる薬草小屋だった。
手前の半分が土間で、奥が板張りになっている。
板の間の奥に煙出しがあり、焜炉で炭火が燃えている。火にかけた小さな鉄鍋を、白装束の大柄な女性が匙でかき回していた。癖のある黒髪と蜜色の膚。鷲鼻気味の彫の深い面立ち。一目で分かる西域系の女性だ。
左手の角に筵が積んであり、上で翠玉が丸くなっている。傍の籠のなかに、これもくるっと丸くなった虎猫が収まっていた。
「泣き疲れて眠ってしまったようだ。猫はもう大丈夫だろう」
薬園の長が優しい声で言う。
月牙は全身の力がどっと抜けていくような安心感を覚えた。
「すみません長どの。猫ごときでお騒がせして」
「なんの。大したことはしておらぬよ。御若い柘榴の妓官どのも色々と大変だろう。例のあの内宮の猫騒動でな!」
長が匙を回す手を止めないまま潜めた声で笑う。
呆れとも慈しみともつかない優しげな苦笑だった。
――この方、ちょっと頭領に似ているな。
月牙は不意にそんなことを思った。
勿論、見た目はどこも似ていない。
目の前の薬園の長の年頃はたぶん三十前後だろうし、体つきは大柄だし、面立ちはいかにも異国風だ。しかし、自分の仕事に自信を持って落ち着いて領分を護っている感じが、何となく柘榴庭の頭領と似ているように思われたのだ。
――きっと信用できる方だ。
持ち前の動物的な直感で持って、月牙はそう思い定めた。
「あの、長どの、その騒ぎに関して、ひとつ伺いたいのですが――」
「私にか?」と、薬園の長が訝しそうな顔をする。「私はこのとおり薬草小屋の番人だからね。知っているのは植物のことばかりだ。内宮のことはよく知らぬよ?」
「いえ、お聞きしたいのはその植物のことなのです。猫が口にしたら毒になる花というのは、百合以外にはどんなものがあるのでしょう?」
「百合以外? そうだな――紫陽花や菖蒲、それに朝顔かな? しかし、やはり一番は百合のたぐいだ。猫を飼うなら百合を活けた水を近くに置かないほうがいい。下手をしたら即死してしまうからな」
「即死、でございますか」
答えながら、月牙は頭の中に散らばっていたばらばらの情報がゆっくりと組み合わさってくるのを感じていた。
--紫薇殿さまの仔猫も、やっぱり百合を活けた水を飲んでしまったのかもしれない。御殿の奥仕えの方々がそのことを隠そうとしたなら、まずは百合を処分するはずだ。厠の水には流せない。だから、ごみとして出すしかない。まだ立派な大輪の百合を、束にしてごみとして――……
そこまで考えたところでハッとした。
――あの百合、貰ったのは仔猫の躯が見つかったのと同じ日の朝じゃないか!
そのことに気付いた瞬間、月牙は息が詰まるような喜びを感じた。
--見つけた! 証拠だ……! 手に取れる証拠が見つけられるかもしれない!
「妓官どの? どうした。猫がやはり心配かな?」
「いえ、ふと急な務めを思い出しまして」
月牙は慌ててごまかした。
「長どの、申し訳ありませんが、もうしばらくその子とその猫をこちらで預かっていていただけますか? あとでまた迎えを寄越しますから」
「かまわんよ。どちらも大してかさばらないから」
薬園の長が朗らかに応じてくれる。
月牙はすっかり安心して翠玉と虎猫を託した。
間違いなく、ここは外宮で一番安全な場所のひとつだ。




